パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

230824 日本人の錯覚

2023-08-24 09:58:26 | パロディ短歌(2011年事件簿)
       気づいていない現実


 前々回のブログで取り上げたデーヴィッド・アトキンソン氏が2017年に出版した『日本再生は生産性向上しかない』(飛鳥新社)を読んだ。そうか、6年前にこんな指摘があったのか、と目を洗われる思いであった。

 日本の生産性が落ちているというデータ(6年前の時点で世界30位)は折に触れて伝えられてきた。ただし、順位が下がると、マスメディアはあまり伝えなくなったが。データだけでは伝わらない、具体的な個々の事例が豊富に挙げられているのがこの本である。

 一番印象深かったのは、アトキンソン氏の親戚が30年ぶりに日本を訪れた、その際の言葉である。
「かつては“笑顔の国”という明るいイメージだった。しかし、今の日本人は暗い印象の国に変わってしまった」。
 この感想は30年ぶりに日本を訪れた人だから、感じることのできる印象である。30年の間にわれわれの表情が変わったことは、内々の人間では知りようがない。1万日以上をかけて徐々に変わっていったものは、変化として感じられないのが人間である。

 この本を読むまでは、日本の社会が暗くなっているなどと、私も考えたことがなかった。みんなが「まだまだ」と思っていても、無意識の表情は正直なのだなあ、と改めて思った次第である。表情の変化は、案外、私たちの盲点になっているかもしれない。

 この本では観光について書かれた部分が多い。その中で我に返る思いがしたのは、日本人が誇りに思っている「おもてなし」に関して。「おもてなし」は観光業の中でどれくらいの比重があるのか? 著者のアトキンソン氏は「観光資源としては大したことはない」とし、その証拠として「世界一の観光立国・フランスはホスタビリティ(おもてなし)のないことで有名だ」という。つまり、観光客は自分の目的に従って観光するのであって、「おもてなし」を求めているのではないということ。

 逆に日本流の「おもてなし」を、かえって迷惑に感じる人々がいるかもしれない、ということにも気づく。われわれは、旅館についてから一連のサービスを、いわばルーティンのように受け取っているが、外国人にこの流れを強制するわけにはいかない。しかも、日本人が海外旅行する際に、外国の「おもてなし」を期待して行くことはほぼ皆無であろう。日本を訪れる外国人にだけ「おもてなし」を強要することは自己矛盾でもある。観光業において「おもてなし」が重要だという常識も日本人の錯覚の一つなのであろう。

 日本は東ドイツか?…という問いも重要だ。東ドイツは1990年まで存在した共産主義の国。自由という観念がなく、国民の日常生活は監視と規制でがんじがらめに縛られた。アトキンソン氏が例として指摘するのは公園である。人影がなく、こどもも遊んでいない。公園の看板を見ると、のきなみ禁止事項だ。犬の散歩、ボール遊び、花火、大声で騒ぐこと。私も覚えがある。まだ幼い長男が河川敷の公園でラジコンカーを走らせていたら、拡声器で即座にやめるように注意された。平日の昼下がりで、他に遊んでいる人もいない。危険なことは何一つない。それでも「決まりは決まり」と取り合ってもらえなかった。この国では、全面禁止か開放のいずれか(といっても圧倒的に禁止が多い)で、条件つき開放という現実策には滅多にお目にかかったことがない。

 電車が時刻を守るように、日本人は決まりを守らなければならないという意識が強い。しかし、融通の利かないやり方は、○×式の思考法に飼い馴らされた結果のように思える。開放か禁止か、という二者択一が多すぎる。世の中には、○でもない、×でもない、△がある。白黒二色ではなく、グラデーションになっているのが大半の出来事だ。曜日によって禁止とか、時間によって禁止とかの手段はあるはずなのに、全面禁止が多いのは世の風潮なのか、それとも役所が「なんでも禁止」と責任逃れをしているのか? 

 日本人はもっと融通がきいたはず、と昔を知っている私なんぞは思ってしまう。旅館でもチェックイン、チェックアウトの時間にうるさいのが常だが、融通が利かないことは「冷たい対応」と受け取られかねない。「おもてなし」なんぞを強調する前に、チェックイン、チェックアウトの融通を利かせることの方が大事、とは著者、アトキンソン氏の意見である。

 公園の話につられて思い出したこと。しばらく前のことだが、東京都で保育園を建てるのに住民から反対運動が起きて、びっくりしたことがあった。長野では「こどもの声がうるさい」という住民の意見で、公園が閉鎖されるという事態も起きた。こどもは日本の未来…という感覚がなくなっていることに驚く。いつから日本人は非寛容な振舞いをみせるようになったのか。保育園に反対している人だって、こども時代はあったはず。自分だって喧しく騒いだだろうな、と考えるのが人間としての良識なので、自分が歳をとったら「こども時代はなかった」風に振舞うのはどうだろうか。日本人の顔が暗くなっているのは、こんなエピソードを聞くだけで納得がいく。思っているより、日本の社会は窮屈になっているのだ。盗聴と密告が日常茶飯事の東ドイツ並み、ではないにしても。

 少子化が問題になるのは、働き手の減少である。直接的には経済の減速や年金制度の破綻などが懸念され、100年後には人口減少で日本が消滅する危機もささやかれる。働き手が減少しても、労働者1人当たりの生産性を上げれば経済の縮小は免れる。その意味でも「生産性向上しかない」のである。移民を増やすしかないと結論が出そうだが、イギリス、ドイツ、フランスなどで移民政策は必ずしもうまくいっていない。

 イギリスは東欧からの移民に音をあげてEUを脱退したし、移民を積極的に迎えたドイツは移民の融合に失敗して、第一国民ドイツ人、第二国民トルコ人、第三国民アラブ人…みたいになっている。互いの反目も起きている。ドイツが直系家族で、融合的というより閉鎖的な組織をもつことが原因とみられ、同じ直系家族である日本も同じ轍を踏む可能性が高い。平等核家族のフランスは最も移民と融合しやすいはず(現にサルコジなど移民の大統領を出している)なのに、アラブ系住民の不満が高く、ときおり銃の無差別乱射事件などが起きている。

 著者のアトキンソン氏も移民には懐疑的だ。それよりも女性の力を発揮させる方が大事だと説いている。日本は男女の賃金差が大きい(平均年収は男性が511万円、女性は272万円)が、それは生産性の低い業態に女性が多いという事実を示している、と氏は考える。たとえば、書類作りだとか、スケジュールの調整だとか。だから、単に女性の就業率を上げる政策ではだめで、女性にも男性と同じ仕事をこなしてもらって、同一賃金を厳密に守る。そのためには、男性も意識改革が必要だという。

 管見によると、日本の社会は(E.トッドのいう)典型的な直系家族で、どんな組織も序列を強烈に意識している。初対面の人同士が(職種よりも)所属している会社名を気にし、それとなく出身校を探るのは、会社にも大学にも序列がついているから。ただし、この序列の体系に女性ははじめから入っていない。女こども…といえば、封建制のもとでは員数に数えられないし、責任を問う存在でもなかった。日本の社会には、この意識がまだ残っている、というのが私の見立てである。

 封建制のしっぽを引きずっている、と言いたいところだが、実際はしっぽどころか(封建制の)胴体がゆうゆうとのさばっている、とみた方がよさそうだ。女性重用という意識改革はまだ道半ばである。女性はまだ本当の意味で働かせてもらっていないのだ。日本経済は(男性だけの)片肺飛行の状態なので、女性が活躍して、二つのエンジンで飛ぶようにしたい。言葉を換えれば、これが著者の主張であろう。目を洗われる体験はなかなかないし、考えさせられる体験も少ない。この本は、そうした意味で貴重だ。

 著者のD.アトキンソン氏はゴールドマン・サックス社のアナリストとして、バブル崩壊後、100兆円に上った銀行の不良資産償却の道筋をつけた再建策を提示したことで知られる。ここで紹介した著書の事例は一部に過ぎず、「わが日本経済は病についているのだなあ」と漠然と感じていたのを、太陽のもと明るみに出された思いである。

 それなのに「日本人は勤勉だ」「統計に表れない日本人の良さがある」…などと、感情的に反発する人々が多いのだという。高度成長を担った高齢者層にその癖が強いのは、同世代だから理解できないことはない。ただし、筆者はもともと「老害」を心配し、今の時代に合わなくなっている政治感覚、経済についても現実を見ない、どころか経済縮小を願うような暴論を苦々しく思ってきた。その意味では、頼れる同士を見つけた思いである。
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230814 世界名作シリーズ⑤

2023-08-14 15:01:29 | パロディ短歌(2011年事件簿)
      虚無と格闘した作家・ヘミングウェイ


 野洲図書館でヘミングウェイが目にとまった。大学時代にドストエフスキーについで好きだった作家である。すでに読んでいた『武器よさらば』『老人と海』はさけて、『ヘミングウェイ短編集』(西崎憲編訳、ちくま文庫、2010年)を借りてきた。

 本の初めから読む。「清潔で明るい場所」はカフェで毎日閉店までねばる老人と、二人いるウェイターの話である。老人に早く帰ってほしいウェイターと、老人にも事情があるだろうとかばうウェイターが会話をしている。老人を含めた3人が俯瞰されている印象。その関係は「老人が上客である一方、飲みすぎると金を払うのを忘れて帰ってしまうことも知っていた。だからふたりは老人から目を離さなかった」と至ってシンプルだ。その上、老人は耳が聞こえない。

 老人が主人公かというと、そんな風でもない。早く帰りたがっている若いウェイターは老人を邪険に追い出す(その光景の描写がいい。ヘミングウェイの世界に浸れる)が、年長のウェイターはしぶしぶという感じで店のシャッターをおろす。彼は不眠症で暗い場所が苦手なのだ。帰りに彼はバーに寄るが落ち着けない。「清潔で明るい場所」でないと、彼は眠れない。それはとりもなおさず、彼が閉めてきたカフェなのだ。不眠のウェイターと老人とが重なる。老人は先週自殺を図ったらしい。しかし、この短編の印象は何故か「清潔で明るい」。

 二番目の「白い象のような山並み」は男女の会話で成り立っている。何気ない会話だが、一触即発の気配が充満している。会話のテーマは明示されないが、読者には堕胎の話だと察しがつく。男が言うには「簡単な手術」で「僕たちの関係も元通り」になる。しかし、それを口にしたとたん、彼は地雷を踏んでしまったのだ。会話は爆発寸前の衣をまとっている。鉄の棘が見え隠れしている。女が山並みを見て何気なくいった一言「白い象が並んでいるようにみえる」には何の問題もない。それが新たな摩擦を生む。

 「きみが望まないことはしてほしくない」。男はなだめるが、もう遅い。会話は不毛となり、気持はもう届かない。最後の会話はこうだ。
 「気分はよくなったか」
 「いい気分。すっきりしてるわ。いい気分」
 騙されてはいけない。女は「気分は最悪」といっている。読み返すと、表の会話に裏の会話がぴったり張り付いて、延々と続くのがわかる。綱渡りより疲れる。私なら地雷を踏んだと分かったら、即座に謝るところなのに。主人公のように、地雷を踏み続ける意味がわからない。この短編は別名「鈍感な青年」である。彼はどこまで、鈍感なのか?…という疑問が生じる。破局に面した二人は列車を待っている。駅の周囲は「白い象のような山並み」で明るく、一点の曇りもない。明るい景色の中の、スリリングな会話。ヘミングウェイらしい。会話の芸が冴える逸品である。

 大学生のころ、ヘミングウェイに惹かれたのは、彼のペシミズムだ。涙とは無縁のペシミズム。あやうくニヒリズム(虚無主義)に転落しようとするペシミズムである。「清潔で明るい場所」で不眠症のウェイターがつぶやく場面がある。「ナダ(無)にまします我らのナダ(無)よ」と。言うまでもなく「天にまします我らの父よ」のもじりである。キリスト教の信仰をなくす、という意味を、異教徒の者が体験することは難しいだろう。私の中では、ニヒリズムへの接近という眺望において、ドストエフスキーとヘミングウェイはつながっている。

 最晩年の作品『老人と海』は、老いた漁師が誰も漕ぎだしたことのない沖合まで漁に出掛け、そこで大物のカジキマグロを釣り上げるが、港に帰ってくるまでにサメに襲われ、獲物はすっかり食い尽くされて影も形もない、という徒労の物語だ。誰も行ったことのない沖合は、ナダ(無)の海の光景であろう。彼は何を見たか、直接には書いていない。が、ナダ(無)を見た者がこの世を見ると、生きる意味はほとんどなくなるはずである。事実として、ヘミングウェイは猟銃自殺を遂げた。信仰を失うということは恐ろしいことである。今更のように、言うことではないが…。

 彼の作品は端正で無駄がない、とよくいわれる。ヘミングウェーの真骨頂は、ナダ(無)というスクリーンを通して、ベルエッポック(古き良き時代)の生活を丹念に描きだしたこと。信仰を失いながらも、19世紀末の生活様式を守り、あるは破たんさせたのが、彼の作品なのであろう。ヘミングウェイには乾いたリリシズムがあって、不思議なことに、暴力を描く際にもそれが生きる。文学の手法は新しいが、基本的にノスタルジーの文学…というのが私のヘミングウェイ観である。


 短編を読んでヘミングウェイの世界が懐かしくなった私は、まだ読んでいない『日はまた昇る』(高見浩訳、新潮文庫、2004年)を借りてきた。ロストジェネレーション(失われた世代)を描いた、といわれるヘミングウェイの出世作。たしかに名作である。第1次世界大戦後の新興階級であるアメリカの若者が描かれている…という意味でも新しいし、アルコールを浴びるように飲み、いつも陽気な、そして騒がしいアメリカ人気質がよく描かれている。しかし、読む方としては、あのアルコール摂取量に(読書で)つき合うだけでも大変だ。

 ブレットという女性を中心に何となく集まっているグループが、パリからスペインのパンプローナへ出かけ、闘牛を見るというあらすじだが、主人公が通信社の記者であることを除けば、登場人物の職業はよくわからない。何故、金に不自由しないのかもわからない。第1次大戦後にヨーロッパは没落し、代わりにドルの地位が上がって、いってみれば新興成金の御一行様なのだろう。

 一行は始終のんだくれていて喧嘩もするが、不思議な連帯感があってお互いにカバーし品位は落とさない。この辺が「古き良き時代」のモラルなのであろう。一行の中には「空気の読めない」ユダヤ人もいて、ブレットに横恋慕し、何かと違和感を醸し出す。皆は辟易としながらも彼を追放したりはしない。結局、ブレットの婚約者が酔っ払って彼を罵倒し、そのブレットは19歳の闘牛士と駆け落ちする、という波乱の展開。ブレットは誰とでも寝てしまう身持ちの悪い女だが、恋に真剣で、気品があって美しく、一行の誰もが一目を置かざるを得ない。

 正直なところを言うと、ブレットのイメージが湧かない。今東光の短編で、河内の「こつまなんきん」(小柄で男好きのする女性の総称)を描いた作品で、誰とでも簡単に寝てしまうにもかかわらず、「寝る」だの「寝ない」だのといった次元を超えていて、天衣無縫な魅力にあふれ、少し聖性も感じさせる作品に出合った記憶がある。ブレットはそういう女なんだろう、と類推するほかはない。

 『日はまた昇る』は、青年たちの飲酒と祭好き、乱痴気騒ぎを描いたものである。それがベルエポックの残影として描かれ、過剰と無意味に彩られている有様が手に取るように分かる。主人公のジェイクは戦争で男性の機能を失っている。欲望は正常に働くが、欲望を満たす機能が働かない…という過酷な条件を背負っている。彼とブレットは愛し合っているが、それは不毛の愛でもある。小説の最後は、闘牛士と別れたブレットがジェイクをマドリードに呼ぶ場面。二人は市街見物のため、タクシーに乗っている。

「ああ、ジェイク」ブレットが言った。「二人で暮らしていたら、すごく楽しい人生が遅れたかもしれないのに」
前方で、カーキ色の制服を着た騎馬警官が交通整理をしていた。彼は警棒をかかげた。タクシーは急にスピードを落として、ブレットの体がぼくに押しつけられた。
「ああ」ぼくは言った。「面白いじゃないか、そう想像するだけで」

 ジェイクは達観しているのか? 恐らくそうではあるまい。欲望を超越しなければならない、という意味で、ヘミングウェイは仏教的である。彼がどこまで仏教に興味を覚えたかはともかく。仏教は超越することに価値を見出すが、ヘミングウェイは小説の描写力で、猥雑な現実を超越してみせた。しかし、現実の方が復讐した。それが彼の猟銃自殺であろう。しかし、虚無との闘いの跡がわれわれを粛然とさせ、喝采を送らせるのである。
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230802 19世紀半ばの世界を再生する

2023-08-02 09:32:39 | パロディ短歌(2011年事件簿)
        ペリー提督の見た日本


 最近、『ペリー提督日本遠征記(上)(下)』(角川ソフィア文庫、2014年)を読む機会があった。著者はM・C・ペリー。日本人なら皆が教科書で習った「黒船襲来」のペリーである。著者はペリー自身。友人で歴史家のF・L・ホークスが編著者になっている。監訳は宮崎壽子。文庫本であるが、上巻643ページ、下巻554ページの大作である。


 ペリーといえば、肖像画も広く知られており、大男という印象もある。浦賀に蒸気船を率いてやってきて、鎖国を国是とする幕府に開港を迫った、いわば砲艦外交の立役者のようなイメージ。幕府の右往左往ぶりを詠んだ狂歌「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たつた四杯で夜も眠れず」という名作もあって、頑固で高圧的な人物と目されがちである。

 私もご多分にもれず、ペリーの黒船がいきなり浦賀湾に現れたような印象をもっていたが、よく考えると、彼はアメリカからずっと長い航海を続けてきたのである。当時は太平洋航路がまだ開けていない。アメリカの海軍基地ノーフォークを出発して大西洋を南下し、南アフリカの喜望峰をこえてインド洋を横切り、セイロン―シンガポール―香港―上海をへて琉球にたちより、そのあと浦賀にあらわれたので、浦賀に着くまでがいわば大事業だったわけである。

 蒸気船のイメージが強いため、迂闊にも現在のジーゼル船のような船の構造を頭に描いていた私は、読み進めていくほどに、自分の錯覚を思い知る。ペリーが乗艦したのはミシシッピ号1600トン、全長67メートル、乗組員268名、当時の世界最大級の軍艦であった。ただ、蒸気で走るが帆走もする、というハイブリッド仕様で、特に外洋にあっては帆走が主であった。出発後10日間の記録によると「強風で船は翻弄されたが、ミシシッピ号は優れた性能を維持し、全行程を平均7ノット(時速13キロ)以上で進んだ」とある。

 時速13キロといえば自転車の速度である。ペリーはいわば自転車をこいで世界一周をしたのだ。そう思った瞬間、私は19世紀半ばの冒険家になることができた。ペリーが極東の地・日本を目指した気持も、冒険という二文字から触発されたに違いないという確信ももつことができた。

 ノーフォークを出発したミシシッピ号は大西洋のマデイラ島、セントヘレナ島に立ち寄り喜望峰に向かう。大西洋の島々(特に孤島)が何故重要だったか? この本を読んで納得したのは、蒸気船の燃料、石炭の貯蔵所を設ける重要性だった。自国の蒸気船のために、各国は予め石炭をこれらの島々に貯蔵しておくのである。付随して、これらの島々は、荷物や手紙を預かって、行き先ごとに振り分ける…郵便局の機能ももっていたこともわかる。19世紀半ばの国際郵便制度である。たとえば、ニューヨークやロンドンから上海までは50日以上もかかったそうだが、自分が行かなくとも荷物が現地に届く…という経験は胸躍る気がしただろう。たしかに素晴らしい。その気になれば、ここでも、私は19世紀人にやすやすとなることができる。

 21世紀の世界では、島々はこれほどの重要性は付与されていない。しかし、洋上の島々が脚光を浴びた時代もあったのだ。喜望峰を周回したミシシッピ号はモーリシャス島に立ち寄る。この島が生命線のような働きをした時代があった…そう思うと、ペリーの「日本遠征記」が、モーリシャス島の経歴や産業やある悲恋の物語まで何ページにもわたって記述するのもうなづける。それだけ重要な島だったのだ。

 帆船の時代にも、小さな島々は大海原の中の寄港地(避難地)としての意味はあっただろうが、蒸気船の時代を迎えると、燃料の石炭や食料の補給地として価値はずっと増す。大西洋、インド洋、太平洋の島々が、くまなく欧米諸国の所有するところになるのは、産業革命の余波として植民地主義があらわれるのと軌を一にしている。

 1953年3月28日にモーリシャス島を出発したペリーは、インド洋を横切り、セイロン島―シンガポール―香港―広東―上海をへて、琉球の那覇に向かった。那覇到着が5月26日だから約2ヶ月の行程である。外洋は帆を使い、入り組んだ海は蒸気タービンで、自転車を漕いでいるような速度だから当り前だけれど。

 琉球に対するペリーの関心は並々ならぬものがあり(現在のアメリカもそうだ)、6月4日までの滞在中、部下に命じて沖縄本島の調査を行う。地形はもちろん、岩石から地質を推定し、植物や動物の諸相、社会制度や人間の性質まで、目に映るものはすべて対象になる。これは地理学でいう地誌そのもので、この調査を見ると、19世紀の学問の双璧が「歴史と地理」といわれた理由がよくわかる。

 ペリーは琉球政府や日本の政府(幕府)には不信感を隠さない。彼らは常に「出来ない」という言い訳を連発し、民衆と欧米人が直接触れないよう規制をかけている、というのだ。これはチャイナにもあてはまり、いわば「アジアの後進性」「アジア的専制」が一帯にはびこっている、という当時の常識を踏まえている。欧米の先進国が「指導」し「改革」の手助けをしなければアジアの未来はない…という「使命感」が支えになっている構図だ(アメリカ人らしい)。沖縄でも日本でも、彼が力を見せつけ、傍若無人に見える振舞いを見せるのは、それが琉球や江戸の政府を否応なく動かす…という結果を信じるからである。

 ただし、ペリーは思想家でもなく観念論者でもない。横柄に見える振舞いも計算されたもので、その意味では、彼には現実がよく見えている。那覇の印象についても「町が清潔である」と中国との違いを感じているし、民衆については「勤勉で裏表がない」と評価している。特に島の調査に雇った苦力(クーリー)は中国人が荷の重さにすぐに音を上げたのに対し、琉球人の苦力はどんな難行苦行にも音を上げないで頑張ったのを褒めている。

 清潔、勤勉という長所は日本に対しても認めており、加えて、日本人の場合は好奇心の旺盛なこと、手先が器用「政府の排外政策が緩和すれば」「日本人は将来の機械技術上の成功を目指す競争において強力な相手になるだろう」と推察している。先見の明といっていいだろう。

日本では女性の地位が低い、というのが一貫した欧米の見方であるが、ペリー一行の観察したところを示してみよう。
「日本社会には、ほかのすべての東洋の国民にはない。優れた特質がある。それは女性が伴侶として認められ、単なる奴隷として扱われてはいないことである」
一夫多妻制度がないという事実は、日本人があらゆる東洋諸国民のなかで最も道徳的で洗練された国民であるという、すぐれた特性を示す」
「既婚女性が常に忌まわしいお歯黒をしていることを除けば、日本女性の容姿は悪くない。若い娘は格好が良くて美しく、立居ふるまいも活発で自主的である。これは女性が比較的高い敬意を払われていることから生じる品位の自覚からきている」

 (男性女性を問わず)日本人は醜い…と書いた本は多々ある。矮小でガニ股、というのが通り相場だが、ペリーの観察は違う。褒め言葉の連続である。彼は何を見たのか?
 以上の感想は、1954年3月31日に横浜で日米和親条約を調印した後、4月5日に横浜村名主の徳右衛門宅を訪れた際に、一行が記したものである。彼らが目撃したのが農家である、というのも意外である。農家の女性が高評価を得たという事実も我々の常識とは違う。察するに、名主の徳右衛門の応対が(アメリカ人好みの)フランクなものだったに違いない。

 ペリーは幕府の役人には不信感をもっていたが、それでも度重なる交渉を重ねるうち、役人たちにもある美点を認めざるを得なくなった。それは蒸気船の心臓部である蒸気機関や通信装置を見せると、すべての役人が尋常ならざる興味を示し、それなりに理解度も優れていたからである。中にはスケッチを試みる者もあり、ペリーも制止したりしないで、好奇心の赴くままに応対した。オランダ経由ではあるが、アジア情勢に注意を払っている点も褒めている。疑いもなく、彼はこうした国民性に好ましさを感じていた。彼の表面上の強情さ、江戸湾の海深をずっと測量し続けた傍若無人の振舞いとは別に、幕府に掣肘されない、素の日本人には好意を持っていたことは随所に読み取れる。

 日米和親条約が結ばれるまで、ペリーは二度日本を訪れている。一度目は1853年7月2日から17日までで、幕府に対し「鎖国をやめ、アメリカ船の遭難や石炭補充のために(長崎以外の)港を提供するよう」要求を出し、再来日の折には(イエスの)返事を受け取れるように、と強要した。二度目に訪れたのは1854年2月7日で、このときは2ヶ月かけて条約の締結にこぎつけている。


 日米和親条約によって、幕府は下田と函館の港を開放することになるのだが、あらためて感じることは、ペリーが日本をこじ開けた…といった風の一面的な理解(過去の評論家の中には、アメリカが日本を強姦したとの言辞をなすものがいた)は、いわば江戸幕府の公式見解と同じだなあ、ということ。攘夷を叫んでテロを繰り返していた浪士を思い浮かべると、視野がいかにも狭い。現に明治政府ができると、それまでの攘夷は、なしくずしに開国へと変わる。見える人には先が見えていたのである。

 日本の改革には常に「ガイアツ」が必要だったことは、いわば常識に属する。明治維新を用意したペリーの黒船襲来。敗戦後の日本に対し、徹底的なアメリカ化をもくろんだマッカーサー。現在、先進国で独り周回遅れの経済や賃金という罠にはまった日本が「ガイアツ」なしに自己変革できるか? この問いに対する私の意見はかなり悲観的だが、ロシアやチャイナが「ガイアツ」を高めてくれるなら話は別だ。両国は今は慎重に事をかまえているが、虎視眈々と「ガイアツ」を加えるチャンスを狙っていることは間違いない。

 その時に右往左往しないためにも、この本は有意義だろう(「ガイアツ」を反面教師とするのである)。そのうえ、19世紀半ばの世界と日本を垣間見る楽しみがあり、幕府の役人ですら、性格が描き分けられるくらい、登場人物が生き生きと活写されている。端的に言って『ペリー提督日本遠征記』は魅力にあふれた本である。本の随所に挿入されている挿画の魅力も捨てがたい。国際情勢が変化しつつある昨今、ある意味では、現代の日本人にも必読の書かもしれない。
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