パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

2019年エッセイ・雲17 リベラルとコンサバ

2019-05-31 08:45:43 | 雲エッセイ
                  自民党=アメリカ民主党?

 7月の参議院選挙(場合によっては衆参同日選挙)が近づくにつれ、「野党を強くするため統一候補を」とマスコミは十年一日のごとく主張し、野党もその気になって、トランプのカードよろしく、持ち札(候補者)を出したり引っ込めたりしながら取引をしている。二大政党こそ政党政治の基本…という、本当かどうか分からないテーゼが背後にあって、マスコミや政党関係者が鵜呑みにしている。そんな光景は間違っているのではないか? 筆者はそんな疑いをずっと持ち続けてきた。

       

 そんな問いに答えてくれそうな本がある。山口真由『リベラルという病』(新潮社、2017年)である。最近、テレビのコメンテーターとして登場しているので、ご存知の方もおられるかもしれない。東大を首席で卒業して財務省に勤務し、財務省を辞めてニューヨーク州の弁護士になったという経歴が話題を呼んだらしく、「勉強法」の本を何冊も出している。本書にはまだ食い足りない箇所もあるが、アメリカの二大政党を彼女の視点から分析し、これまでの同工異曲の本とは一線を画した。今回のブログは、この本に触発されて、いろいろと思うところのあった筆者の思いを綴ったものである。
                     
(写真は左から、安倍=トランプ、小泉=ブッシュ、中曾根=レーガン、岸=アイゼンハワーのコンビ)
       
 令和の時代に入って、最初の国賓として招待されたトランプ大統領と安倍晋三総理との仲は、世界でも特別な関係として知られる。日本の総理でアメリカの大統領と仲が良かったのは、不思議に共和党の大統領ばかりであって、思い出しても小泉純一郎とブッシュ大統領(息子の方)、中曽根康弘とレーガン大統領、古くは岸信介とアイゼンハワー大統領の例が浮かぶ。

 逆に民主党のトルーマン大統領は広島・長崎に原爆投下を命令した大統領だし、クリントン大統領は貿易をめぐって、日本の内政に干渉し、ジャパンバッシングやジャパンパッシングをした大統領として有名である。同じように繊維品の貿易摩擦を抱えていた共和党のニクソン大統領が、繊維品の自主規制と交換に沖縄を返還してくれたのと比較しても、日本への対し方が違う。

 こうした事実が何によるものか、筆者は長い間、疑問に思いながら答えを得るには至らなかった。その辺も山口氏の本はうまく解説してくれている。最後の方で取り上げたい。

 アメリカといえば、自由の国すなわちリベラルな風土をもつ国、という理解で間違ってはいない。ただし、アメリカ人に尋ねると、自分は保守だと考える人が約4割、リベラルと認める人は2割強だという(https://synodos.jp/international/21947「西山孝行・アメリカ政治」より)。二大政党のうち「保守」を代表するのは共和党、「リベラル」を代表するのは民主党。アンケートの結果だけを見れば、共和党の天下が続きそうなものだが、第二次大戦中にみせたルーズベルト大統領のニューディール政策が功を奏して、戦後は民主党の健闘が光っているという。それでは、現在の「リベラル」(民主党)とは何を意味するのだろうか? 山口氏の本から引用する。

 なお本の中で、著者はリベラルとコンサバという分類をしている。コンサバとはconservative(保守的)からきた略称日本語。リベラル=民主党、コンサバ=共和党と考えてよい。

 「リベラルが信じているのは『人種間の平等』だ。この教義は後に『すべての人間の平等』へと拡大した。フェミニストはそこに『男女の平等』を入れ込み、LGBTは『セクシャリティの平等』を含めることを主張したからだ。

 「すべての人間は平等、という信仰を、仮に『リベラル信仰』とでも名付けておこう。信仰から自由だと思われたリベラルは、実は相当に信心深い。人々の平等を掲げる『リベラル信仰』を熱心に信仰し続けている。
 「この『リベラル信仰』は、さらなる拡大を見せている。かつてはパブリックな領域のみだった『リベラル信仰』が、プライベート空間をも侵すようになってきたのだ。差別に対してはゼロ・トレランス、つまり、どんな少しのことでも決して許さないという、不寛容さが増しつつある」

 労働組合の党、人工中絶を認める、死刑制度廃止、銃規制に賛成、同性愛容認…などが民主党。キリスト教(特に福音派)支持層、経営者層の支持、人工中絶反対、死刑制度存続、銃規制反対、パワーポリテクス…などが共和党。一般的には、こうした要素で区分されており、民主党の方が革新的かつ理想主義的で大きな政府を目指し、共和党は現実主義的ゆえに保守的、小さな政府を目指す、という見解が標準である。

 著者は「リベラル」が現在では「平等」にシフトしているとみる。もう一つの見方が「不寛容」である。平等に関しては、政策的にラジカルなのがリベラル=民主党だということ。それに対して、平等を求めるあまりアファーマティブ・アクション(積極的な差別是正策・優遇措置)を行うことに関しては懐疑的で、伝統の力を重視するのがコンサバである。著者の山口氏を評価したいのは、このような政治的態度が人間観・人生観に由来していると説いたところ。少し言葉の使い方に難点はあるが、要点を紹介すると…

 「リベラルは、人間の理性がすべての困難を乗り越えると信じている。(中略)生命倫理も。同性愛も、リベラルは人間の選択を絶対的に信頼する。自分の人生を選び取る力が人間にはある――それがリベラルの基本的な視座だ。「大きな政府」理論は、人間の理性がコントロールする領域を増やすことを意味する。景気を改善し、格差を是正し、最終的にリベラルは自然さえも従属させることを望む。そして、人権を重視する自らの民主主義は最も優れているという純粋な思い込みによって、「未開の地」に民主主義を広めて、管理できる領域を増やそうとする」

 リベラルは、人間の理性を信じ、理想のためにあらゆる政策を駆使する。理性を備えた人間が重視されるのは、一種のエリート主義といってよい。また、経済も含めた社会の問題を人間がコントロールできる…という考え方は、計画経済を実行した社会主義との親和性も感じさせる。2017年の大統領選挙で民主党の使命をヒラリー・クリントンと争ったバーニー・サンダースは財政支出を重視する(社会主義に近い)左派の代表である。当然「大きな政府」指向だ。リベラルを想像するとき、独特の鼻につく臭いがある。エリート臭である。ヒラリー・クリントンにも、日本共産党の志井委員長や立憲民主党の枝野党首などに感じる傲慢さ、人を見下すようなものの言い方…などである。指導するのはわれわれ…という臭いがプンプンする。
                
(写真は、国民を指導して下さる面々。左から枝野、蓮舫、山尾、辻元、福島。鞭を持った教師群といった風情である)
 「対するコンサバには、自分への懐疑が常にあった。人類を超える大きな力(筆者注、GOD)の前では、人間の理性など空しいというのが、彼らの考えだろう。そのときどきで正しいと信じられることは、決して永遠ではない。だから、人は大自然の前で謙虚でなければならない。政府のコントロールを最小限にして、景気は市場に任せる。再配分によって経済格差を政策的に是正しようとはせず、競争に任せる。(中略)同じ理由で海外への介入も最小限にする。(中略)異文化を尊重するのも、どちらかといえばコンサバの方だ」

 山口氏への注意を書いておこう。彼女はリベラルとコンサバを比較した、この項目の小見出しにこう書いた。「人間への『信頼』、人間への『不信』」と。人間への『信頼』をリベラルに当て、人間への『不信』をコンサバに当てているが、これは内容と合っていない。そもそも、人間への『不信』を基礎にした政党が成り立つはずがない(ナチスは別だが)。人間への『不信』は人間への『懐疑』と変えるべきだろう。更に言うなら、この『懐疑』は『謙虚』の意味でもある、との注釈もほしいところだ。

 コンサバ(保守)が人間に対する懐疑から出ていることは、他にも証言がある。中島岳志『保守と大東亜戦争』(集英社新書、2018)は、いずれ紹介しようと思う良書であるが、この中で著者は「西部邁氏の保守思想のエッセンス」として、次のように書いており、この著述ともうまく符合しているところ、コンサバの哲学として申し分ないのではないか。



 「保守は人間に対する懐疑的な見方を共有し、理性の万能性や無謬性を疑います。そして、その懐疑的な人間観は自己にも向けられます。自分の主張の中にも間違いや誤認が含まれていると考えます。そのような自己認識は、異なる他者の意見を聞こうとする姿勢につながり、対話や議論を促進します。そして、他者の見解の中に理があると判断した場合には、協議による合意形成を進めていきます。これが保守の寛容な態度に他ならない」

 リベラルとコンサバを比較したとき、どちらが「民主的(つまり論議を尽くす)」かといえば、コンサバの方だろう。リベラルはテーゼ(お題目)が好きだ。グローバリズムがそうだし、性差をなくす運動や、ヨーロッパで吹き荒れる環境保護の波。そのテーゼに対しては批判を許さない。環境保護に関し、緑の党の政策は信じられないほど過激だ。問答無用の態度をとっているのは、現在ではリベラルなのである。コンサバ(保守)と右翼とは別物だが、排他的な右翼を生んだのは、上から目線で問答無用という態度を貫いたリベラルにある。リベラルが右翼をポピュリズムと非難するとき、酔いやすいエリート主義に自ら染まっていることを思い出さないのは、いかにもご都合主義である。

 神や自然を前にしたら、人間は卑小な存在である…これは太古から伝わっている感覚である。レッセフェール(自然に任せる)が自動的に社会の秩序を生み出す、というわけにはいかないだろうが、かえって悪平等になるような、人工的な政策には反対する立場も分かる。アメリカで何十年にもわたり、大々的に実行された、就学前の黒人児童に施したアファーマティブ・アクション(特別授業)は、効果が上がらず、民主党陣営の単なる既得権益つまり金づるに成り下がっているとの指摘もある。(橘玲『言ってはいけない』―新潮新書、2016―参照)

 著者の功績はこの先である。戦後74年間の大半を支配してきた自民党は、どちらに似ているか…という問題である。山口氏は「戦後の自民党が、常に『大きな政府』を指向していた」こと、「再配分による格差是正という、アメリカ民主党の基本的な主張は、日本の自民党の政策と一致している」ことなどから、自民党の政策は「リベラル」と一致すると結論付けている。なるほど、安倍首相による賃上げ要請などは、労働者の味方である野党の政策をハイジャックしたわけで、自民党が野党の政策を拝借した、このような例は枚挙に暇がない。しかも自民党は組織の中に、伝統重視あるいは競争重視の共和党的な勢力をも抱えている。小泉純一郎はネオコン(新保守主義)の政策をかかげて実行した。

 何もかも取り込んでいる自民党へのアンチテーゼを示すことは困難である。そこに野党の難しさがあり、敵失重視で政局本位のスタンドプレイを行なったり、「何でも反対」と揶揄されるのは野党の立地する場所がないからだ。私見では、すでにリベラルである自民党に向かって、「さらにリベラル」を要求するから、野党の政策は硬直するのであり、いずれ消えていく運命にあるだろう。

 共和党の大統領と日本の首相との相性がいいことについて、山口氏は次のように分析する。

 「(相性がいい)理由は様々あろうが、その底にあるのは人間哲学なのではないか。私達日本人の底には、人知を越えるものへの畏怖が根付いているではないか。明確な信仰や言葉の形を取らないものの、長い歴史の中で、自然への謙譲が育まれていったと考えても誤りではないだろう。
 「人間の理性を信じ、理想と正義を掲げ、民主主義を理解しない野蛮な国を折伏し、ひいては自然まですべてをコントロールしようとする。アメリカのリベラリズムは、我々にとっては、建国から短い歴史しか持たない国ゆえの、独善と傲慢に映りかねない。
 「この感覚が、アメリカ民主党に対する『正義を振りかざして、話を聞かない』という批判になり、共和党へのシンパシーにつながるのではないか。日本人の潜在的な素養から、リベラルよりはコンサバの気質に馴染むのかもしれない」という気がする」

 なかなかの切れ味である。本の中で、著者がただ一人、「小さな政府」を指向している人物として挙げているのが、大阪府知事・大阪市長を務めた橋下徹氏である。財政再建のため、私学への補助金を減らした際に、高校生と交わした彼の言動を引用し、「最低限のライフラインを生活保護制度で守れば、あとは自分で努力して『競争』を勝ち抜くべきだという『小さな政府』論を端的に示」したと評価している。すでに「リベラル」である自民党に「さらにリベラル」を説くサヨク野党はいずれ滅びる。自民党への対立軸は橋下のつくった「維新」から、と著者は思っているのではないか。まだ、国家戦略としてのパッケージができていないうらみはあるが、日本国民として唯一の希望であると考えているのは筆者も同じだ。
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2019年 エッセイ・雲16 皇室の伝統

2019-05-26 09:54:00 | 雲エッセイ
                  女性天皇・女系天皇とは?

 2019年5月25日、アメリカのトランプ大統領が来日した。令和初の国賓としてである。新天皇との会見や晩餐会のほか、安倍首相とのゴルフ、大相撲観戦と優勝力士へのトロフィー授与などを予定している。トランプ大統領が他国を訪問して、反対デモに会わないですむのは日本くらいであろう。

 フランスやドイツはもちろん、イギリスだって「帰れ!」コールはあるだろうし、イスラム過激派が警備のスキを狙っているだろう。すべてに几帳面な日本は、安全の意味でも、訪問は気が楽なのである。筆者の見立てによれば、トランプの目指しているのは、かつてアメリカが世界を支配していた1950~60年代であり(“Make AMERICA Great Again!!”という彼の言葉が端的に示している)、ソビエト連邦を崩壊させたレーガン大統領も意識している。

 1991年にソ連が分解し、民主主義を標榜する(せざるを得ない)諸国家に分かれたのと同じような事態が、CHINAでも起きるべきだ…とトランプは考えているように見える。貿易戦争で圧力をかけている現状は、その流れの中で理解すべきだろう。CHINAの反撃もそれだけ真剣である。つまり、非常事態が始まっているわけ。安全保障に関しては、ひとり日本だけが70年前のままの意識で、あやういことこの上ない…と感じるのは私だけであろうか? 安倍首相には憲法改正を争点に、一日も早く解散をしてもらいたい。潮の流れは変わっている、私はそう思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、今回は女性天皇・女系天皇についてであるが、題材としては、週刊誌やテレビが騒いでいる眞子内親王と小室圭氏の婚約(?)問題を取り上げる。とはいえ、この問題に経過については、私などより読者の方がずっと詳しいであろう。小室圭氏の母親が元婚約者から400万円の提供を受け、返却を求められた…この事態に対する小室母子の対応が話題になっていて、嫌悪感を示す人たちが少なくないという経過である。

 秋篠宮(今は皇嗣殿下)が納采の儀を行うに当たっての条件を述べられたことで、眞子内親王と小室圭氏の間は正式の婚約者ではない、と宮内庁は言っている。しかし、昨年10月の記者会見は当初、婚約会見と言われていた。その席上、眞子内親王と小室圭氏は互いを太陽と月に喩えられたが、私はそのときからある種の違和感を抱いていた。
 
 太陽と月に喩えるのはいかにも平凡で、更にいうなら幼稚であり、全国民が注視する会見で平気で口にされる神経を私は疑った。その後の小室圭氏の言動を重ねてみると、「太陽と月」発言は、ある種の国民受けを狙った言動(しかもスベった!)にも見えてきて、不快にすらおもえてくるのである。秋篠宮の要請はもっともであるし、正面から答えきっていない小室氏には失望しかない。はっきり言えば、私は小室氏が去るべきだと考えている。

 しかし、小室氏は長期戦を覚悟しているように見える。決定的な事態がくるまでは、一切顔も口も出さない方針のように見える。一種のチキンレースの様相である。ただ、国民としては、手の出しようがない。眞子内親王が意思を貫かれて、小室家に嫁ぐのもあり…だと私は思っている。厳しい生活をされるのもよかろうし、万が一、思惑と違ったならば、離婚という手だってあるのだ。

 ここでは、眞子内親王と小室氏のケースをモデルに、ある種の頭の体操をして、女性天皇と女系天皇が認められたら、どんな事態が生じるかを見ていきたい。ネットには、サザエさん一家を使って、女性天皇と女系天皇を解説していたサイトもあったが、原理はわかっても、女系天皇がもたらす違和感は伝え切れていない。

 そもそも「万世一系の天皇家」は何を伝えてきたのか? 歴代天皇は男系によってのみ伝えられる。昔の人たちは遺伝の原理も性染色体の事実も知らなかったが、直観で見抜いていたのである。すなわち天皇は男子であるから、XYという遺伝子をもっている(ちなみに女性はXX)。天皇と御后(皇后)の間には、男子も女子もお生まれになるが、男子の場合XYのうちYの遺伝子は必ず父から受け継ぐ。

 簡単にいえば、「万世一系」とは、このYの遺伝子が連綿と伝えられてきたことを指している。お子さまに男子がお生まれにならなかった場合は、伯父や叔父の系図をたどったりするのであるが、この他のケースであっても、歴代天皇のYが引き継がれてきたのが事実として残っている。

 女性天皇も存在する。ただし、それはワンポイントリリーフ、といった役どころで、男子の天皇候補者が幼少であるなどの理由で、代わりに一代のみ務める場合だけである。前の天皇の濃厚な血筋が優先される(例えば天皇の娘である等)。女系天皇は一度も登場したことがない。その理由を解説していきたい。

 女性・女系ともに認めた場合、どういうことが起きるか? 恐れ多いことであるが、眞子さまのケースをモデルに考えてみる。もし、眞子さまが皇位継承第一位となられる場合を想像してみる。小室圭氏とはもう結婚されているものと仮定する。さらに、お二人の間に親王(男子)と内親王(女子)が誕生されたと仮定しよう。

 皇位継承第一位であるから、いずれ眞子さまは天皇の位におつきになる。そうすると、皇位継承第一位は、小室氏との間にもうけられた第一子(この場合は親王としてみよう)になる。親王は男子であるからXYの遺伝子をもっておられる。ところが、このYは小室圭氏から受け継いだものである。天皇家の血筋は、歴代天皇家から小室家に移ってしまう。王朝に喩えたら、21世紀になって、神武王朝から小室王朝がとって代わるのである。

 世論調査によると、女系天皇を容認する人が過半数を占めているらしい。女性天皇まではよろしい。しかし、女系天皇を認めることは、全く違う事態を招く。このことは、まだよく知られていないのではないか。畏れ多い想像であるが、あえて記した次第である。
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2019年 エッセイ・雲15 小さな発見

2019-05-19 08:29:19 | 雲エッセイ
                  有難い数学・無限大と無理数と虚数

 誰にでも何かがひらめいたことがあるはずだ。たいていはどうでもいいことで、ニュートンのリンゴのようなわけにはいかない。それでも、凡人には凡人なりに強い印象がある。そんな例を、数学と宇宙から三つ。

 私が小学生だった時といえば、もう70年前の話になる。「無限」とか「無限大」という言葉を聞いたのは、5年生くらいだったろうか。宇宙の話で出てきたように思う。1950(昭和25年)頃の話である。われわれの宇宙は天の川銀河がすべてで、全天に散らばっているのは単独の恒星ばかり。すなわち、天の川銀河こそ宇宙の中心であった。ただし、恒星に中には輪郭のぼやけているものがあって、それは特別に「星雲」と呼ばれていた。アンドロメダ銀河は天の川銀河から最も近い銀河だが、当時はアンドロメダ星雲と呼ばれていた。

(写真はアンドロメダ銀河。天の川銀河も似たような渦巻銀河である)
 今から考えると、それこそが他の銀河宇宙であったのだが、そうとは考えられておらず、星ができる前のガスが集まっていると想像されていた。宇宙の広がりは、現在に比べると、かなり小さかったわけである。それでも宇宙は十分に広かった。光は1秒間に地球を7まわり半するほどのスピードをもっているが、その速さで天の川銀河の端から端まで行こうとすれば5,500万年かかってしまう。天の川銀河は、写真のように、お皿のような形をしていて、真ん中がボール状になっている。だから、真ん中を除けば、厚さは大したことはない。その薄っぺらい皿の部分を横切るにしても、光の速度で5,000年はかかる。ましてや、人間の乗るロケットだったら…気の遠くなるような時間である。

 そして、銀河のかなた、宇宙には数え切れないほどの星があって、宇宙そのものは無限大である…というのである。小学生の私には無限大という概念が分からなかった。どんなものにも、大きさには限りがある。それが常識だ。私は校庭を眺めた。こんなに広い運動場だって端があり、塀で区切られているではないか。宇宙がどんなに広くても、端があるはずだ。ロケットで銀河を離れ、どんどん進んでいく。本当に疲れきってしまうくらい旅をすると、ほら、端っこにくるではないか。

 宇宙の端っこには、運動場のような塀があるとは限らない。でも、何か塀に似たようなものがあるはずだ。塀に似たようなものを、私はしばらく考えていた。!!!…びっくりマークのようなものが閃いたのは、その直後だった。塀があるなら、塀の外が必ずある! 宇宙をどんなに旅して端にたどり着いたとしても、その端っこには、更にその外がある! 無限大とはそういうことだ! 私は自分の発見に満足した。一人で十分に満ち足りて、その大発見(?)を誰にも話さなかった。79歳になった今でも、あのときの満足感を思い出すことができる。

 二つ目は中学校で無理数を学んだとき。√2を1.41421356…(ひとよひとよにひとみごろ…)と暗記したのは、誰しも覚えているはず。小数点以下の数字が、どこまで行っても終わらない。小数点以下になっても区切りがつかない、すごく気持ちの悪い数字だった。そうそう。例えば小数点以下といっても、2/3も0.666666…と無限に続くが、続く数字は6だと決まっている。これは循環小数といって、有理数になる。2/3と分数にすれば整数で示されるから。無理数というのは、次にどんな数字がくるか分からない、という不可解さがあって、余計に気持ちが割り切れない。もっとも、こういう受け取り方をしてはだめなので、小数では表しきれない数字を、例えば√とかπという記号で表せるのは便利だと受け取るのが数学のアタマだろうと思う。

 誰しも覚えがあろうと思うが、数学嫌いの人たちは、無理数のようなややこしい数字がなんの役に立つのか、と訝りながら嫌々授業に付き合っていたはずだ。私は数学嫌いではなく、むしろ興味を持っていた方だと思うが、それでもどんな時に使うのか、とは思っていた。

 もう成人してからのことだけれど、もし、太陽系の星が一直線に並んだら、重力が並んだ線に沿って働き、太陽系は一瞬にして破壊されるだろう、という話を雑誌か何かで読んだことがあった。何十億年の間には、偶然そんなことも起きるだろうと思った。しかし、惑星の軌道を数字で表すと無理数なので、そうした偶然は起こらないと、雑誌には書いてあった。私は無理数に感謝の念を捧げたくなった。無理数…様々である。これが数学的に合理的な説明なのかどうか、私には分からない。しかし、無理数――理の無い数、という表記が、この場合は頼もしく感じる。

 とうてい私の理解を超える問題なのだが、車椅子の天才物理学者-ホーキング博士「ブラックホールは蒸発する」という論文を発表したとき、証明に虚数を使っていたらしい。皆は覚えているかな。虚数というのは、二乗するとマイナスになる数字で、これこそ究極の意味不明、と当時は思っていたものだ。理解不能な虚数が、最新の物理学で用いられるなんて、やはり数学は凄い!と思う。もっとも、無理数と虚数の話は、本物の数学者がこのブログを読んだら、穴だらけで可笑しいかもしれない。まあ、そこは素人談議だと思って、見逃してほしい。

 私の小さな発見(?)は、以上のように宇宙論と交わっている。20世紀の宇宙論は、ビッグバンや、それを証明する宇宙背景放射、ビッグバン初期のインフレーション理論など、素人にもわくわくするような展開があった。

 その後も進化しているのだろうが、現在の宇宙論は、ある意味では味気ない。われわれ人間が今の方法で観測する限り、理解できる宇宙は限られている。70年前と違って、①宇宙には銀河が2,000億個もあり、それぞれの銀河が数千億個の星をかかえていることや、②宇宙は今から137億年前に、ビッグバンで誕生し、現在も宇宙はどんどん広がっていること、③われわれに見えている宇宙は、全体のたった1パーセントであり、見えない物質(暗黒物質)が29パーセントほど、見えないエネルギー(暗黒エネルギー)が70パーセントほどを占めていること、などが分かってきたのは大変な収穫だ。しかし、③の内容を、言葉を代えて言えば、われわれはまだ、ほんの少ししか宇宙を理解できていない…ということになる。

 ビッグバン以前に何があったかも分からないし、これからも宇宙が膨張し続けるのか、縮小に転ずるのか、どこかで均衡するのか…その手がかりさえつかめない状態のようだ。よく聞くのは、宇宙を理解するときに「無限大」が出てきたら、その理論は破綻していると科学者たちがみなすことである。「無限大」は「何も分からない」と同義なのだろうか。私が小学校で理解した「無限大」は正しいのか、正しくないのか?

 話が飛躍するみたいだが、私にとって地球はまだ平らなままである。月から撮影した、丸くて青い地球の写真は確かに見たが、自分で写真を撮ったわけではない。それ以外、地球が丸いという直接の証拠にお目にかかったこともない。それに地球が平らだと仮定して暮らしていても、なにほどの支障があるわけでもなし。人間の背丈からみれば、地球は十分に平らなのである。太陽も東から昇って西に沈むのである。地球が自転していることを感じるのは難しい(赤道付近では1時間に1,700kmも動いているというのに)。地球はじっとしていて、太陽が周りを回る、と思った方がわれわれの実感に近い。

 …というわけで、私は古代の人のままなのである。地球は世界の中心で、地球を取り巻くように月や太陽がある。夜にあらわれる星々は遠いかがり火であるかもしれない。誰が掲げているのかは知らないが…。遠い国があり、そこで遠い国の人々が火をたいているのであろう。この推測は十分に成り立つ。だって、海を隔てた見知らぬ国には、一つ目で一本足の人がいるというではないか。女ばかりが住んでいる国もあろうし、小人が小さな国を運営しているかもしれない。もちろん、人を捕って食ってしまう、恐ろしい食人種もいるだろう。しかし、一方では1年中、果物がたわわに実り、人々が働く必要のない、天国のような国も存在するだろう。そう思うと私には、古代人の方が夢とロマンに溢れていたような気がするのである。

(図は古代メソポタミア人の考えた宇宙-図解雑学・宇宙論―二間瀬敏史、ナツメ社、1998-より)
 今生きている人間で、古代人に最も近いのはこどもである。よく「発生は進化を繰り返す」(人間の身体も、魚やワニや恐竜などの段階を経てできあがる)というが、「宇宙論も進化を繰り返す」といいたい。子供の時代は、(無意識にでも)自分が中心、日本が中心、地球が中心…と思っている。自分以外の世界には何が潜むか分からない、という感覚で生きている。出会うは初めてのものばかり。まさしく冒険と発見に満ちた世界だ。だからこそ、こどもは自然に直接触れることができるのだ。子供の頃に見た風景は、自分がぴったりその中にはまり込んでいる風景である。だから、いつまでも風景の匂いや温度が感じられる。子供には無限の可能性が感じられるのは、この直接的な世界を知っているからだ。なぜ、こんなに幼稚な宇宙観をくどくど述べるかというと、古代人といい、子供といい、実は79歳の私の理想郷なのであって、無限大に驚き、無理数に感謝し、虚数に神秘を感じるのも、私が幼稚な感覚を持ち続けているせいであろう。
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2019年 エッセイ・雲14 令和時代の予想

2019-05-16 09:28:17 | 雲エッセイ
                 サヨク・復古右翼の壊滅

 前回の岡目八目で使用した政党チャートを再掲する。


 憲法9条を象徴とする戦後体制を基軸にすると、立憲民主党・共産党・社民党などが保守反動となり、自民党が保守と革新にまたがり、復古右翼・ネトウヨなどが革新の外へ位置づけられるのが特徴である。両端の二つの勢力は、とっくに賞味期限が過ぎているにもかかわらず生きながらえてきた。その理由は阿呆らしいほど単純である。

 保守反動となったサヨクがレゾンデートル(存在理由)にしているのが、こうである。「私たちが居なければ、世の中は気違いじみた右翼が町を席巻してしまう。それでいいのですか?」
 これに反応する人々は多いと思われる。50年前には17歳の少年が白昼堂々と、当時の浅沼・社会党委員長を演壇で刺殺したテロ事件があったし、スピーカーのボリュームを最大限にあげて、がなりたてた街宣右翼の姿も迷惑であった。ヘイトスピーチの品性の低さは、日本人なら耐えられないだろう。右翼のイメージは極端に悪いのである。サヨク勢力がいつまでも命脈を保っているのは、右翼がいるからだという理屈も成り立つ。

 ところが、その右翼に言わせると「自分たちが運動しているのは、頑迷固陋なサヨクを滅ぼすため」だという。確かに、固有の政策を持たず、時の政権が立案するものには、何でも反対する。資本主義をどこかで否定している万年野党には、現実への対応能力が決定的に不足している。将来への不安を撒き散らすのが役目…といった役どころ。サヨクも、阿呆な右翼がいなければ、自動的になくなる理屈である。

 ここで懸命な読者は気づかないだろうか? これら二つの勢力は、互いに依存しあっているのである。相手を非難することで自分が存在するという構造を「共依存」という。手っ取り早く言えば「同じ穴の狢(むじな)」である。

 このブログでは、早くからサヨクという名の反動勢力を批判してきたし、戦前の日本がすべて正しいという復古右翼(森友学園が典型的な例である)を排除するように求めてきた。私の見通しでは、これらの「はみ出し勢力」は、そう遅くないうちに滅びるだろう。早ければ、今年7月の参議院選挙で、サヨクは足場を失うのではないか。9条改正を希望する人々が、愚にもつかない復古右翼やネトウヨを排除する意志を示せば、自動的にサヨクも壊滅するはずである。

 憲法9条の改正を悲願とする革新勢力(自民党・維新など)は、9条を守るという保守勢力(立憲民主党など野党)がヒステリックに護憲を叫んでいるのに比べて、冷静な議論をしている。野党がヒステリック…と判断するのは「9条が改正されれば、徴兵制が復活する」など議論が粗雑(現在の自衛隊のように志願制で十分に国防は機能する)で、人々に恐怖を抱かせるために、あり得ないことまで平気で口にするからである。人々を扇動するという意味で、これこそがポピュリズムである…と私には思われる。


 ポピュリズムについては、エマニュエル・トッドがこう述べている。
 「トランプ氏は選ばれたのです。あれは大衆迎合、ポピュリズムにすぎない、と言うわけにはいかないのです。大衆層が自分たちの声を聞かせようとして、ある候補を押し上げる。それを受け止めないわけにはいきません。(略)それは民主主義なのです。(略)民主主義とは人々が権力を持つ仕組みです。エスタブリッシュメントではありません」(トランプは世界をどう変えるか?――「デモクラシー」の逆襲――朝日新聞出版、2016年)

 サヨクが一貫してエリート主義であり(共産党の前衛論が格好の例)、マスコミが自らを「社会の木鐸(ぼくたく)」と規定し、エスタブリッシュメントを気取ってきたこと、東大法学部を軸とした霞ヶ関官僚群が「キャリア組」を自称してきたことを考え合わせると、E.トッドの指摘は意味深長である。日本人はエリートをいつまで信じるだろうか。少なくとも、私は信じていない。

 「オオカミがきた!」と、いつも村人にウソをついていた少年は、結局、実際にオオカミが来たときには村人から無視されて、噛み殺される運命になった。護憲派の言い分は「9条があれば、戦争はおきない」というものだが、CHINAも韓国も、戦闘一歩手前のレーダー照射という行為を自衛隊に対して行っている。護憲派は、オオカミ少年とは逆に「(戦争を起こす)オオカミは居ませんよ」と言ってきたわけだが、どうやら回りは(北朝鮮も含めて)オオカミやトラが徘徊しているのが実情のようである。もう国民は理解していると思う。サヨクがその内に滅びるのは時間の問題である。

 ただし、一つの条件が必要だ。それは復古右翼やネトウヨが存在する限り、サヨクはなくならないということ。共依存の関係にあるから、同時になくさないと、両方がずるずると居座ってしまうことになる。表現の自由にかこつけて、自民党はヘイトスピーチを容認しているが、このような態度はとるべきでない。「自由には責任が伴う」のが常識…これが理解できないようでは、保守も革新もあったものではない。
コメント
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2019年 岡目八目5 等身大の日本(2)

2019-05-06 12:12:42 | 対談
                令和時代の日本・見取り図

(八)4月15日の岡目八目4で、「墨守政党を支える愚者の楽園」として、戦後体制をどう評価するかという観点から、既存の政党を墨守政党・保守政党・革新政党に分け、さらに霞ヶ関、教育界、マスコミがどのようにコミットしているかを、チャートで示しました。
(冬)保守と革新の概念が、昔と今では、すっかり変わったので、それをチャートにした…という話でしたね。
(八)少し私事を話しても、いいでしょうか?
(冬)珍しいですな。どうぞどうぞ。
(八)私は京都で生まれ、父の仕事の関係で、生後1歳にならないうちに北京に渡り、8歳のとき日本に引き揚げてきました。
(冬)ご苦労でしたね。
(八)引き揚げてから住んだのも、また京都でした。8歳から25歳までですから、17年間ということになります。
(冬)ほう、それで?
(八)ご承知の通り、京都はサヨクの強い土地です。
(冬)もっぱらの評判ですな。
(八)もちろん自民党支持の保守派もいるんですが、保守が1とすると共産党が1、その他が1という割合になります。その他は様々ですが、大まかに言って、穏健派革新といったところでしょうか。
(冬)右翼はいない?
(八)そこなんですよ。街宣活動をしていた右翼はいます。でも、右翼の勢力としては、全国でも低い方から数えた方が早いのではないか。それでチャートから右翼が抜けちゃった。
(冬)弁解しているわけ、ね(笑)。
(八)まあ(笑)。それで右翼を調べたんですが、昔と違って大立者がいない(笑)。
(冬)親分がいない、ということだね(笑)。
(八)あまりまとまっていない。お互いに批判している。皇室についての考えも、靖国神社に対する考えもいろいろで、一人で一派を構えているような印象です。親米もあれば、反米もある。一時はマスコミに積極的に出た、一水会のように、テロを否定する団体もある。
(冬)大事なのは、戦後体制を変えようとしている革新勢力と右翼を区別することではないか?
(八)その通りです。戦前の日本が正しい…としている復古思想をもっている輩がいて、国を変える手段としてテロを考えている連中がいます。
(冬)復古右翼といえば、籠池夫妻という格好のモデルがいましたね(笑)
(八)二人の功績は大きい。復古右翼をマンガにして見せてくれましたから、ね(笑)。彼らがテロを容認していたかどうか、は分かりませんが、あの思想でテロがOKということなら、正真正銘の右翼です。
(冬)まずは、右翼を加えた「令和の政党チャート」を見ましょうか。Ver.6というわけですが、いろいろと変わっていますね。


(八)まず、革新勢力の外に「復古右翼・ネトウヨ」というカテゴリーを作りました。戦前への復帰とテロを容認する勢力ですね。ヘイトスピーチをする連中もここに入ります。さすがに政党はできていませんが。
(冬)前は「墨守政党」と言っていたのが「保守反動」になりました。
(八)立憲民主党をはじめ、サヨクは憲法論議さえ拒否する、要するに「問答無用」と言っているわけです。同じ言葉を投げつけて、時の首相・犬養毅をピストルで殺した、2.26事件の将校に近い神経を感じます。
(冬)細かいところで、Aの「植民地主義」が「米国併合主義」になりましたね。
(八)これは憲法9条をそのままにして親米…というカテゴリーで、現実にはほとんどいません。極端な話、「日本はアメリカの1州になればいい」という考えです。前の「植民地主義」では海外に植民地を持つ「帝国主義」と混同されますから、呼び方を変えました。
(冬)日本会議という団体がありますね。
(八)日本会議をチャートに組み込むと、こんな感じかな。ただし、自民党にコミットメントしていますが、希望と維新は直接の関係はありません。


(冬)サヨクはすごく警戒しているようですが。
(八)籠池泰典が日本会議のメンバーだったから、極右にかかる疑いを持っているのでしょう。日本会議は「大変迷惑した」といっていますが、会員の選別をきちんと図るべきですね。
(冬)この図を見ると、日本は二分されていますね。
(八)アメリカもヨーロッパもアジアも分裂しています。これからは、ナショナリズムが強くなるでしょう。グローバリズムからインターナショナリズムへの変化です。
(冬)国境を無視する動きが、一時的にとまって揺り戻しが来ている状態ですな。
(八)話は変わりますが、西部邁と中島岳志(東京工業大学教授)の師弟対談がネットで見られます。AERAに2017年5月1-8合併号に掲載されたものです。その中で、お二人は「保守」の条件として人間の理性に対する懐疑心を真っ先に挙げています。
(冬)平たく言うと、人間は間違える存在である、と。
(八)サヨクは理性万能主義の色彩が濃い。
(冬)自分が間違っているかもしれない、と思えば、他人にも寛容になれる。
(八)もう1年半前のことですが、2017年12月20日のブログで「自分は信用できるか?」というタイトルで、人間一般を分析しています。その時の結論だけ記すと、
…そして私は直感した。自分を100%信じるということは間違いだ、と。もう今から60年も前の話になるが、大学生の私はフロイトの本を読んでいて「人間の意識は氷山の一角で、大部分は無意識の領域」だと理解していたから、これは当然の結論のように思えた。ヒトの脳には、古い発生のものもあって、ワニの脳と同じ部分もある。無意識には何があっても不思議ではないからである。その証拠に、世の中には、不自由と不平等が遍在し、価値は常に混沌としていて、信じられない犯罪が生まれる。
 表題の答えは、こうである。私はいつでも、どこでも間違いを起こしうる存在だ。無条件に信用するわけには行かない。ここからある種の人間観が生まれてくる。無条件に自己主張する人間は偽者であるという感覚で、(中略)サヨク嫌いも復古右翼を許したくないのも、動機は同じ。要するに、ノー天気に自分自身を主張するから信用できないのである。自らを少しは恥じている感覚があるかどうか、が分かれ目になる。

(冬)私も同感だから、われわれはバリバリの保守派、ということ(笑)。サヨクの不寛容さは目に余る。
(八)ただし、自分が不確定…というところから、不必要なまでに伝統や民族性に頼ると、復古右翼になってしまう(笑)。
(冬)心しなければならないですね。
(八)いずれにせよ、憲法第9条を墨守する「保守反動」と、戦前復帰を目指す「復古右翼・ネトウヨ」勢力を小さくして、健全な憲法論議、国防論議を始めなければ…。
(冬)そして「寛容」を第一とする令和の時代にしたいですね。
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