自民党=アメリカ民主党?
7月の参議院選挙(場合によっては衆参同日選挙)が近づくにつれ、「野党を強くするため統一候補を」とマスコミは十年一日のごとく主張し、野党もその気になって、トランプのカードよろしく、持ち札(候補者)を出したり引っ込めたりしながら取引をしている。二大政党こそ政党政治の基本…という、本当かどうか分からないテーゼが背後にあって、マスコミや政党関係者が鵜呑みにしている。そんな光景は間違っているのではないか? 筆者はそんな疑いをずっと持ち続けてきた。
そんな問いに答えてくれそうな本がある。山口真由『リベラルという病』(新潮社、2017年)である。最近、テレビのコメンテーターとして登場しているので、ご存知の方もおられるかもしれない。東大を首席で卒業して財務省に勤務し、財務省を辞めてニューヨーク州の弁護士になったという経歴が話題を呼んだらしく、「勉強法」の本を何冊も出している。本書にはまだ食い足りない箇所もあるが、アメリカの二大政党を彼女の視点から分析し、これまでの同工異曲の本とは一線を画した。今回のブログは、この本に触発されて、いろいろと思うところのあった筆者の思いを綴ったものである。
= = = =
(写真は左から、安倍=トランプ、小泉=ブッシュ、中曾根=レーガン、岸=アイゼンハワーのコンビ)
令和の時代に入って、最初の国賓として招待されたトランプ大統領と安倍晋三総理との仲は、世界でも特別な関係として知られる。日本の総理でアメリカの大統領と仲が良かったのは、不思議に共和党の大統領ばかりであって、思い出しても小泉純一郎とブッシュ大統領(息子の方)、中曽根康弘とレーガン大統領、古くは岸信介とアイゼンハワー大統領の例が浮かぶ。
逆に民主党のトルーマン大統領は広島・長崎に原爆投下を命令した大統領だし、クリントン大統領は貿易をめぐって、日本の内政に干渉し、ジャパンバッシングやジャパンパッシングをした大統領として有名である。同じように繊維品の貿易摩擦を抱えていた共和党のニクソン大統領が、繊維品の自主規制と交換に沖縄を返還してくれたのと比較しても、日本への対し方が違う。
こうした事実が何によるものか、筆者は長い間、疑問に思いながら答えを得るには至らなかった。その辺も山口氏の本はうまく解説してくれている。最後の方で取り上げたい。
アメリカといえば、自由の国すなわちリベラルな風土をもつ国、という理解で間違ってはいない。ただし、アメリカ人に尋ねると、自分は保守だと考える人が約4割、リベラルと認める人は2割強だという(https://synodos.jp/international/21947「西山孝行・アメリカ政治」より)。二大政党のうち「保守」を代表するのは共和党、「リベラル」を代表するのは民主党。アンケートの結果だけを見れば、共和党の天下が続きそうなものだが、第二次大戦中にみせたルーズベルト大統領のニューディール政策が功を奏して、戦後は民主党の健闘が光っているという。それでは、現在の「リベラル」(民主党)とは何を意味するのだろうか? 山口氏の本から引用する。
なお本の中で、著者はリベラルとコンサバという分類をしている。コンサバとはconservative(保守的)からきた略称日本語。リベラル=民主党、コンサバ=共和党と考えてよい。
「リベラルが信じているのは『人種間の平等』だ。この教義は後に『すべての人間の平等』へと拡大した。フェミニストはそこに『男女の平等』を入れ込み、LGBTは『セクシャリティの平等』を含めることを主張したからだ。
「すべての人間は平等、という信仰を、仮に『リベラル信仰』とでも名付けておこう。信仰から自由だと思われたリベラルは、実は相当に信心深い。人々の平等を掲げる『リベラル信仰』を熱心に信仰し続けている。
「この『リベラル信仰』は、さらなる拡大を見せている。かつてはパブリックな領域のみだった『リベラル信仰』が、プライベート空間をも侵すようになってきたのだ。差別に対してはゼロ・トレランス、つまり、どんな少しのことでも決して許さないという、不寛容さが増しつつある」
労働組合の党、人工中絶を認める、死刑制度廃止、銃規制に賛成、同性愛容認…などが民主党。キリスト教(特に福音派)支持層、経営者層の支持、人工中絶反対、死刑制度存続、銃規制反対、パワーポリテクス…などが共和党。一般的には、こうした要素で区分されており、民主党の方が革新的かつ理想主義的で大きな政府を目指し、共和党は現実主義的ゆえに保守的、小さな政府を目指す、という見解が標準である。
著者は「リベラル」が現在では「平等」にシフトしているとみる。もう一つの見方が「不寛容」である。平等に関しては、政策的にラジカルなのがリベラル=民主党だということ。それに対して、平等を求めるあまりアファーマティブ・アクション(積極的な差別是正策・優遇措置)を行うことに関しては懐疑的で、伝統の力を重視するのがコンサバである。著者の山口氏を評価したいのは、このような政治的態度が人間観・人生観に由来していると説いたところ。少し言葉の使い方に難点はあるが、要点を紹介すると…
「リベラルは、人間の理性がすべての困難を乗り越えると信じている。(中略)生命倫理も。同性愛も、リベラルは人間の選択を絶対的に信頼する。自分の人生を選び取る力が人間にはある――それがリベラルの基本的な視座だ。「大きな政府」理論は、人間の理性がコントロールする領域を増やすことを意味する。景気を改善し、格差を是正し、最終的にリベラルは自然さえも従属させることを望む。そして、人権を重視する自らの民主主義は最も優れているという純粋な思い込みによって、「未開の地」に民主主義を広めて、管理できる領域を増やそうとする」
リベラルは、人間の理性を信じ、理想のためにあらゆる政策を駆使する。理性を備えた人間が重視されるのは、一種のエリート主義といってよい。また、経済も含めた社会の問題を人間がコントロールできる…という考え方は、計画経済を実行した社会主義との親和性も感じさせる。2017年の大統領選挙で民主党の使命をヒラリー・クリントンと争ったバーニー・サンダースは財政支出を重視する(社会主義に近い)左派の代表である。当然「大きな政府」指向だ。リベラルを想像するとき、独特の鼻につく臭いがある。エリート臭である。ヒラリー・クリントンにも、日本共産党の志井委員長や立憲民主党の枝野党首などに感じる傲慢さ、人を見下すようなものの言い方…などである。指導するのはわれわれ…という臭いがプンプンする。
(写真は、国民を指導して下さる面々。左から枝野、蓮舫、山尾、辻元、福島。鞭を持った教師群といった風情である)
「対するコンサバには、自分への懐疑が常にあった。人類を超える大きな力(筆者注、GOD)の前では、人間の理性など空しいというのが、彼らの考えだろう。そのときどきで正しいと信じられることは、決して永遠ではない。だから、人は大自然の前で謙虚でなければならない。政府のコントロールを最小限にして、景気は市場に任せる。再配分によって経済格差を政策的に是正しようとはせず、競争に任せる。(中略)同じ理由で海外への介入も最小限にする。(中略)異文化を尊重するのも、どちらかといえばコンサバの方だ」
山口氏への注意を書いておこう。彼女はリベラルとコンサバを比較した、この項目の小見出しにこう書いた。「人間への『信頼』、人間への『不信』」と。人間への『信頼』をリベラルに当て、人間への『不信』をコンサバに当てているが、これは内容と合っていない。そもそも、人間への『不信』を基礎にした政党が成り立つはずがない(ナチスは別だが)。人間への『不信』は人間への『懐疑』と変えるべきだろう。更に言うなら、この『懐疑』は『謙虚』の意味でもある、との注釈もほしいところだ。
コンサバ(保守)が人間に対する懐疑から出ていることは、他にも証言がある。中島岳志『保守と大東亜戦争』(集英社新書、2018)は、いずれ紹介しようと思う良書であるが、この中で著者は「西部邁氏の保守思想のエッセンス」として、次のように書いており、この著述ともうまく符合しているところ、コンサバの哲学として申し分ないのではないか。
「保守は人間に対する懐疑的な見方を共有し、理性の万能性や無謬性を疑います。そして、その懐疑的な人間観は自己にも向けられます。自分の主張の中にも間違いや誤認が含まれていると考えます。そのような自己認識は、異なる他者の意見を聞こうとする姿勢につながり、対話や議論を促進します。そして、他者の見解の中に理があると判断した場合には、協議による合意形成を進めていきます。これが保守の寛容な態度に他ならない」
リベラルとコンサバを比較したとき、どちらが「民主的(つまり論議を尽くす)」かといえば、コンサバの方だろう。リベラルはテーゼ(お題目)が好きだ。グローバリズムがそうだし、性差をなくす運動や、ヨーロッパで吹き荒れる環境保護の波。そのテーゼに対しては批判を許さない。環境保護に関し、緑の党の政策は信じられないほど過激だ。問答無用の態度をとっているのは、現在ではリベラルなのである。コンサバ(保守)と右翼とは別物だが、排他的な右翼を生んだのは、上から目線で問答無用という態度を貫いたリベラルにある。リベラルが右翼をポピュリズムと非難するとき、酔いやすいエリート主義に自ら染まっていることを思い出さないのは、いかにもご都合主義である。
神や自然を前にしたら、人間は卑小な存在である…これは太古から伝わっている感覚である。レッセフェール(自然に任せる)が自動的に社会の秩序を生み出す、というわけにはいかないだろうが、かえって悪平等になるような、人工的な政策には反対する立場も分かる。アメリカで何十年にもわたり、大々的に実行された、就学前の黒人児童に施したアファーマティブ・アクション(特別授業)は、効果が上がらず、民主党陣営の単なる既得権益つまり金づるに成り下がっているとの指摘もある。(橘玲『言ってはいけない』―新潮新書、2016―参照)
著者の功績はこの先である。戦後74年間の大半を支配してきた自民党は、どちらに似ているか…という問題である。山口氏は「戦後の自民党が、常に『大きな政府』を指向していた」こと、「再配分による格差是正という、アメリカ民主党の基本的な主張は、日本の自民党の政策と一致している」ことなどから、自民党の政策は「リベラル」と一致すると結論付けている。なるほど、安倍首相による賃上げ要請などは、労働者の味方である野党の政策をハイジャックしたわけで、自民党が野党の政策を拝借した、このような例は枚挙に暇がない。しかも自民党は組織の中に、伝統重視あるいは競争重視の共和党的な勢力をも抱えている。小泉純一郎はネオコン(新保守主義)の政策をかかげて実行した。
何もかも取り込んでいる自民党へのアンチテーゼを示すことは困難である。そこに野党の難しさがあり、敵失重視で政局本位のスタンドプレイを行なったり、「何でも反対」と揶揄されるのは野党の立地する場所がないからだ。私見では、すでにリベラルである自民党に向かって、「さらにリベラル」を要求するから、野党の政策は硬直するのであり、いずれ消えていく運命にあるだろう。
共和党の大統領と日本の首相との相性がいいことについて、山口氏は次のように分析する。
「(相性がいい)理由は様々あろうが、その底にあるのは人間哲学なのではないか。私達日本人の底には、人知を越えるものへの畏怖が根付いているではないか。明確な信仰や言葉の形を取らないものの、長い歴史の中で、自然への謙譲が育まれていったと考えても誤りではないだろう。
「人間の理性を信じ、理想と正義を掲げ、民主主義を理解しない野蛮な国を折伏し、ひいては自然まですべてをコントロールしようとする。アメリカのリベラリズムは、我々にとっては、建国から短い歴史しか持たない国ゆえの、独善と傲慢に映りかねない。
「この感覚が、アメリカ民主党に対する『正義を振りかざして、話を聞かない』という批判になり、共和党へのシンパシーにつながるのではないか。日本人の潜在的な素養から、リベラルよりはコンサバの気質に馴染むのかもしれない」という気がする」
なかなかの切れ味である。本の中で、著者がただ一人、「小さな政府」を指向している人物として挙げているのが、大阪府知事・大阪市長を務めた橋下徹氏である。財政再建のため、私学への補助金を減らした際に、高校生と交わした彼の言動を引用し、「最低限のライフラインを生活保護制度で守れば、あとは自分で努力して『競争』を勝ち抜くべきだという『小さな政府』論を端的に示」したと評価している。すでに「リベラル」である自民党に「さらにリベラル」を説くサヨク野党はいずれ滅びる。自民党への対立軸は橋下のつくった「維新」から、と著者は思っているのではないか。まだ、国家戦略としてのパッケージができていないうらみはあるが、日本国民として唯一の希望であると考えているのは筆者も同じだ。
7月の参議院選挙(場合によっては衆参同日選挙)が近づくにつれ、「野党を強くするため統一候補を」とマスコミは十年一日のごとく主張し、野党もその気になって、トランプのカードよろしく、持ち札(候補者)を出したり引っ込めたりしながら取引をしている。二大政党こそ政党政治の基本…という、本当かどうか分からないテーゼが背後にあって、マスコミや政党関係者が鵜呑みにしている。そんな光景は間違っているのではないか? 筆者はそんな疑いをずっと持ち続けてきた。
そんな問いに答えてくれそうな本がある。山口真由『リベラルという病』(新潮社、2017年)である。最近、テレビのコメンテーターとして登場しているので、ご存知の方もおられるかもしれない。東大を首席で卒業して財務省に勤務し、財務省を辞めてニューヨーク州の弁護士になったという経歴が話題を呼んだらしく、「勉強法」の本を何冊も出している。本書にはまだ食い足りない箇所もあるが、アメリカの二大政党を彼女の視点から分析し、これまでの同工異曲の本とは一線を画した。今回のブログは、この本に触発されて、いろいろと思うところのあった筆者の思いを綴ったものである。
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(写真は左から、安倍=トランプ、小泉=ブッシュ、中曾根=レーガン、岸=アイゼンハワーのコンビ)
令和の時代に入って、最初の国賓として招待されたトランプ大統領と安倍晋三総理との仲は、世界でも特別な関係として知られる。日本の総理でアメリカの大統領と仲が良かったのは、不思議に共和党の大統領ばかりであって、思い出しても小泉純一郎とブッシュ大統領(息子の方)、中曽根康弘とレーガン大統領、古くは岸信介とアイゼンハワー大統領の例が浮かぶ。
逆に民主党のトルーマン大統領は広島・長崎に原爆投下を命令した大統領だし、クリントン大統領は貿易をめぐって、日本の内政に干渉し、ジャパンバッシングやジャパンパッシングをした大統領として有名である。同じように繊維品の貿易摩擦を抱えていた共和党のニクソン大統領が、繊維品の自主規制と交換に沖縄を返還してくれたのと比較しても、日本への対し方が違う。
こうした事実が何によるものか、筆者は長い間、疑問に思いながら答えを得るには至らなかった。その辺も山口氏の本はうまく解説してくれている。最後の方で取り上げたい。
アメリカといえば、自由の国すなわちリベラルな風土をもつ国、という理解で間違ってはいない。ただし、アメリカ人に尋ねると、自分は保守だと考える人が約4割、リベラルと認める人は2割強だという(https://synodos.jp/international/21947「西山孝行・アメリカ政治」より)。二大政党のうち「保守」を代表するのは共和党、「リベラル」を代表するのは民主党。アンケートの結果だけを見れば、共和党の天下が続きそうなものだが、第二次大戦中にみせたルーズベルト大統領のニューディール政策が功を奏して、戦後は民主党の健闘が光っているという。それでは、現在の「リベラル」(民主党)とは何を意味するのだろうか? 山口氏の本から引用する。
なお本の中で、著者はリベラルとコンサバという分類をしている。コンサバとはconservative(保守的)からきた略称日本語。リベラル=民主党、コンサバ=共和党と考えてよい。
「リベラルが信じているのは『人種間の平等』だ。この教義は後に『すべての人間の平等』へと拡大した。フェミニストはそこに『男女の平等』を入れ込み、LGBTは『セクシャリティの平等』を含めることを主張したからだ。
「すべての人間は平等、という信仰を、仮に『リベラル信仰』とでも名付けておこう。信仰から自由だと思われたリベラルは、実は相当に信心深い。人々の平等を掲げる『リベラル信仰』を熱心に信仰し続けている。
「この『リベラル信仰』は、さらなる拡大を見せている。かつてはパブリックな領域のみだった『リベラル信仰』が、プライベート空間をも侵すようになってきたのだ。差別に対してはゼロ・トレランス、つまり、どんな少しのことでも決して許さないという、不寛容さが増しつつある」
労働組合の党、人工中絶を認める、死刑制度廃止、銃規制に賛成、同性愛容認…などが民主党。キリスト教(特に福音派)支持層、経営者層の支持、人工中絶反対、死刑制度存続、銃規制反対、パワーポリテクス…などが共和党。一般的には、こうした要素で区分されており、民主党の方が革新的かつ理想主義的で大きな政府を目指し、共和党は現実主義的ゆえに保守的、小さな政府を目指す、という見解が標準である。
著者は「リベラル」が現在では「平等」にシフトしているとみる。もう一つの見方が「不寛容」である。平等に関しては、政策的にラジカルなのがリベラル=民主党だということ。それに対して、平等を求めるあまりアファーマティブ・アクション(積極的な差別是正策・優遇措置)を行うことに関しては懐疑的で、伝統の力を重視するのがコンサバである。著者の山口氏を評価したいのは、このような政治的態度が人間観・人生観に由来していると説いたところ。少し言葉の使い方に難点はあるが、要点を紹介すると…
「リベラルは、人間の理性がすべての困難を乗り越えると信じている。(中略)生命倫理も。同性愛も、リベラルは人間の選択を絶対的に信頼する。自分の人生を選び取る力が人間にはある――それがリベラルの基本的な視座だ。「大きな政府」理論は、人間の理性がコントロールする領域を増やすことを意味する。景気を改善し、格差を是正し、最終的にリベラルは自然さえも従属させることを望む。そして、人権を重視する自らの民主主義は最も優れているという純粋な思い込みによって、「未開の地」に民主主義を広めて、管理できる領域を増やそうとする」
リベラルは、人間の理性を信じ、理想のためにあらゆる政策を駆使する。理性を備えた人間が重視されるのは、一種のエリート主義といってよい。また、経済も含めた社会の問題を人間がコントロールできる…という考え方は、計画経済を実行した社会主義との親和性も感じさせる。2017年の大統領選挙で民主党の使命をヒラリー・クリントンと争ったバーニー・サンダースは財政支出を重視する(社会主義に近い)左派の代表である。当然「大きな政府」指向だ。リベラルを想像するとき、独特の鼻につく臭いがある。エリート臭である。ヒラリー・クリントンにも、日本共産党の志井委員長や立憲民主党の枝野党首などに感じる傲慢さ、人を見下すようなものの言い方…などである。指導するのはわれわれ…という臭いがプンプンする。
(写真は、国民を指導して下さる面々。左から枝野、蓮舫、山尾、辻元、福島。鞭を持った教師群といった風情である)
「対するコンサバには、自分への懐疑が常にあった。人類を超える大きな力(筆者注、GOD)の前では、人間の理性など空しいというのが、彼らの考えだろう。そのときどきで正しいと信じられることは、決して永遠ではない。だから、人は大自然の前で謙虚でなければならない。政府のコントロールを最小限にして、景気は市場に任せる。再配分によって経済格差を政策的に是正しようとはせず、競争に任せる。(中略)同じ理由で海外への介入も最小限にする。(中略)異文化を尊重するのも、どちらかといえばコンサバの方だ」
山口氏への注意を書いておこう。彼女はリベラルとコンサバを比較した、この項目の小見出しにこう書いた。「人間への『信頼』、人間への『不信』」と。人間への『信頼』をリベラルに当て、人間への『不信』をコンサバに当てているが、これは内容と合っていない。そもそも、人間への『不信』を基礎にした政党が成り立つはずがない(ナチスは別だが)。人間への『不信』は人間への『懐疑』と変えるべきだろう。更に言うなら、この『懐疑』は『謙虚』の意味でもある、との注釈もほしいところだ。
コンサバ(保守)が人間に対する懐疑から出ていることは、他にも証言がある。中島岳志『保守と大東亜戦争』(集英社新書、2018)は、いずれ紹介しようと思う良書であるが、この中で著者は「西部邁氏の保守思想のエッセンス」として、次のように書いており、この著述ともうまく符合しているところ、コンサバの哲学として申し分ないのではないか。
「保守は人間に対する懐疑的な見方を共有し、理性の万能性や無謬性を疑います。そして、その懐疑的な人間観は自己にも向けられます。自分の主張の中にも間違いや誤認が含まれていると考えます。そのような自己認識は、異なる他者の意見を聞こうとする姿勢につながり、対話や議論を促進します。そして、他者の見解の中に理があると判断した場合には、協議による合意形成を進めていきます。これが保守の寛容な態度に他ならない」
リベラルとコンサバを比較したとき、どちらが「民主的(つまり論議を尽くす)」かといえば、コンサバの方だろう。リベラルはテーゼ(お題目)が好きだ。グローバリズムがそうだし、性差をなくす運動や、ヨーロッパで吹き荒れる環境保護の波。そのテーゼに対しては批判を許さない。環境保護に関し、緑の党の政策は信じられないほど過激だ。問答無用の態度をとっているのは、現在ではリベラルなのである。コンサバ(保守)と右翼とは別物だが、排他的な右翼を生んだのは、上から目線で問答無用という態度を貫いたリベラルにある。リベラルが右翼をポピュリズムと非難するとき、酔いやすいエリート主義に自ら染まっていることを思い出さないのは、いかにもご都合主義である。
神や自然を前にしたら、人間は卑小な存在である…これは太古から伝わっている感覚である。レッセフェール(自然に任せる)が自動的に社会の秩序を生み出す、というわけにはいかないだろうが、かえって悪平等になるような、人工的な政策には反対する立場も分かる。アメリカで何十年にもわたり、大々的に実行された、就学前の黒人児童に施したアファーマティブ・アクション(特別授業)は、効果が上がらず、民主党陣営の単なる既得権益つまり金づるに成り下がっているとの指摘もある。(橘玲『言ってはいけない』―新潮新書、2016―参照)
著者の功績はこの先である。戦後74年間の大半を支配してきた自民党は、どちらに似ているか…という問題である。山口氏は「戦後の自民党が、常に『大きな政府』を指向していた」こと、「再配分による格差是正という、アメリカ民主党の基本的な主張は、日本の自民党の政策と一致している」ことなどから、自民党の政策は「リベラル」と一致すると結論付けている。なるほど、安倍首相による賃上げ要請などは、労働者の味方である野党の政策をハイジャックしたわけで、自民党が野党の政策を拝借した、このような例は枚挙に暇がない。しかも自民党は組織の中に、伝統重視あるいは競争重視の共和党的な勢力をも抱えている。小泉純一郎はネオコン(新保守主義)の政策をかかげて実行した。
何もかも取り込んでいる自民党へのアンチテーゼを示すことは困難である。そこに野党の難しさがあり、敵失重視で政局本位のスタンドプレイを行なったり、「何でも反対」と揶揄されるのは野党の立地する場所がないからだ。私見では、すでにリベラルである自民党に向かって、「さらにリベラル」を要求するから、野党の政策は硬直するのであり、いずれ消えていく運命にあるだろう。
共和党の大統領と日本の首相との相性がいいことについて、山口氏は次のように分析する。
「(相性がいい)理由は様々あろうが、その底にあるのは人間哲学なのではないか。私達日本人の底には、人知を越えるものへの畏怖が根付いているではないか。明確な信仰や言葉の形を取らないものの、長い歴史の中で、自然への謙譲が育まれていったと考えても誤りではないだろう。
「人間の理性を信じ、理想と正義を掲げ、民主主義を理解しない野蛮な国を折伏し、ひいては自然まですべてをコントロールしようとする。アメリカのリベラリズムは、我々にとっては、建国から短い歴史しか持たない国ゆえの、独善と傲慢に映りかねない。
「この感覚が、アメリカ民主党に対する『正義を振りかざして、話を聞かない』という批判になり、共和党へのシンパシーにつながるのではないか。日本人の潜在的な素養から、リベラルよりはコンサバの気質に馴染むのかもしれない」という気がする」
なかなかの切れ味である。本の中で、著者がただ一人、「小さな政府」を指向している人物として挙げているのが、大阪府知事・大阪市長を務めた橋下徹氏である。財政再建のため、私学への補助金を減らした際に、高校生と交わした彼の言動を引用し、「最低限のライフラインを生活保護制度で守れば、あとは自分で努力して『競争』を勝ち抜くべきだという『小さな政府』論を端的に示」したと評価している。すでに「リベラル」である自民党に「さらにリベラル」を説くサヨク野党はいずれ滅びる。自民党への対立軸は橋下のつくった「維新」から、と著者は思っているのではないか。まだ、国家戦略としてのパッケージができていないうらみはあるが、日本国民として唯一の希望であると考えているのは筆者も同じだ。