パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

221122 日本低迷の原因

2022-11-22 10:11:15 | パロディ短歌(2011年事件簿)
         鎖国してお気楽談義

 前回のブログで、養老孟司氏を取り上げた際、次いで私の脳裏に浮かんだのは内田樹氏であった。大変個人的な感想になるが、「考える」ことに関して、私が影響を受けたのは山本七平氏と養老氏のほかに内田樹氏の三氏であって、この三氏の動向には常に気を配ってきたからである。山本氏は日本人を独特の「日本教徒」として規定し、日本人論に画期的な視点の転換をもたらした。圧巻は、日本では「空気」が物事を決めるというホラー伝説である。養老先生は、日本人が近世以来「身体」を無視し続けてきて、現在でも都市文明がいかに人間の認識を偏ったものにしているかを説いてきた。このお二人の見解は、私の人間観や世界観に180度の転換を迫った。

 同じように衝撃を受けたのが、内田氏の『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2002年)という本である。構造主義は1960年代に生まれ、私も家業の地図制作のかたわら、雑多な地図を分類する方法論として部分的に扱っていた(『地図表現入門』大明堂、1988年)が、構造主義全体の姿はなかなかとらえられなかった。内田氏の本でやっと、構造主義の前史から現在までを俯瞰することができ、構造主義が単なる方法論ではなく、デカルト以来のヨーロッパ思想の限界を明らかにした、という本来の意味がわかったのである。欧米の思想を解体し、新たな地平を築いた構造主義の難解な内容を、やさしい口語体の文章で説いたのが前記の本であった。

 戦後日本は、経済も文化も「欧米に追いつきい追い越せ」でやってきた。しかし、構造主義は欧米の文明が特別すぐれたものではないと証明した。日本人の世界観は根本的な転換を迫られたのである。その流れを自覚させたのが内田氏の著書であった、といっても過言ではないだろう。平たく言えば、日本人は自前でものを考えなくてはならないようになったのである。内田氏はその後、『下流思考』(講談社文庫、2009年)で「学ばない子どもたち」「働かない若者たち」を斬新な方法で鮮やかに解説してみせた。しかし、最近では内田氏の切れ味鋭い評論を目にすることが少ない。ひょっとしたら、私の方に原因があって、内田氏は精力的に活躍されているのに、私が知らないだけではないかと思い、図書館で『沈む日本を愛せますか』(ロッキング・オン、2010年)という対談本を借りてきた。




 これは内田氏と高橋源一郎氏の対談本である。高橋氏については、初めてお目にかかる。1951年生まれの文芸評論家、作家であり、2006年からは明治学院大学教授でもある。巻末の履歴を見ると、三島由紀夫賞や伊藤整文学賞を受けている。対談を通じての印象は、ユニークな視点をもった作家―というもので、内田氏との相性は良さそうだ。ただ、現在の私の関心は内田氏の動向にあるので、高橋氏についての評価は後日に譲ろう。

 対談の出だしは絶好調である。2010年当時の「オバマ大統領の演説を、日本語に直して語りかけても魂に触れてこないので全く説得力を持たない」のは何故か? 日本語で政治的な演説を試みたとしても「おちゃらけ」になってしまうのは何故か? という問題に対して内田氏の答えは明快である。

(日本語は)音声がもともとあって、そこに外来の文字がのっかっている。後から来た外来の言語を地場のコロキアル(口語的な)ものが受け止めている。これが日本語の構造なわけで。
外来語と現地語のハイブリッドな形で残っているのって、世界でもう日本語だけなんだよ。

 この発言は重要である。前回に論じた養老先生の「日本では思想も宗教も仮のもの」という結論とよくマッチする。日本人の頭の中では、思想を述べることのできる言語はあくまで「外来のもの」であって、コロキアル(口語的)な段階で政治を語らないと、日本人の心に響かない。コロキアルの術に長けたのが自民党で、社共は建前の政党に終始したのが55年体制だったといえる。対談者の二人はこう結論づけるのである。そういえば、小泉純一郎首相の人気は半端でなかった。その理由として、彼が政治をコロキアル(口語的)に語ったことも有力な一因であろう。大阪府知事の橋元徹もコロキアル(口語的)の術に長けていた。内田氏の視点は、わが国の政治を理解するうえで欠かせないと私は思う。

 少し話が脱線するのをお許しいただきたい。私が大学に入ったのは1958年であるが、文学部には当時の論壇をリードしていた桑原武夫という名物教授がいた。彼の講義を受けたさいの言葉が印象に残っている。「大阪弁では論理的に語れない」「三橋美智也(当時の有名な演歌歌手)の歌い方で革命歌は唄えない」。教室はドッと湧いた。ただし、素直でなかった当時の私には、かすかな違和感が残った。しかし、その正体が何かは分からなかった。今になれば、ああそういうことだったか、と分かる。

 「大阪弁…」の発言に関して言えば、それじゃあ、大阪弁は不要なものかという違和感である。内田氏の論理を借りれば、コロキアル(口語的)な言語を追放していいのか、という違和感であった。その考えは明らかにおかしいのである。それどころか、コロキアル(口語的)に習熟し、コロキアル(口語的)にすべてを語る準備が必要だということである。少なくとも私の文章に限るなら、できるだけコロキアル(口語的)に語ろうとしてきたつもりである。考えてみれば、内田氏を信用したのも、構造主義という難解な思想をコロキアル(口語的)に、特に内田氏の場合は落語的に語ろうとしていた、その姿勢にある。

 「革命歌に合わない演歌歌手」は確かにその通りである。しかし、「革命」という言葉を戦後知識人は安易に使いすぎた。本物の革命が起きたら、多くの血が流れるのは必定である。今になって考えてみれば、「革命」を口走る知識人は、世の風潮に従って「革命歌」を歌う、魯迅の阿Qとなんら変わりない―と、こう言えるのだが、悲しいかな、まだ二十歳の身では、そこまでは分からない。もし、本当に「革命」が起きたら、「革命歌…」の発言を笑いで迎えた学生たちは、三橋美智也の代表する演歌の反撃を受けるだろう。演歌はコロキアル(口語的)な部分に響き合う歌なのである。革命歌は勇ましく格好いいが、外来の(心に響かない)歌であった。

 と、こんな回想が可能なのも、内田氏が語る「日本語においてはコロキアル(口語的)が基層である」という概念がとても有効な証拠なのであろう。内田氏の発言の中には「(戦前の)国体護持と(戦後の)憲法護持は同じ発想ですね」という日本の政治風土の琴線に触れた一節もある。このすべりだしの快調さは大いに期待をもたせるのであるが、あとがいけない。2010年という年を顧みると、鳩山由紀夫党首が率いる民主党が政権をとり、北のうちに出発しながら、あれよあれよという間に、政権が崩壊した時期である。

 内田、高橋両氏は、はしたないほど鳩山由紀夫を持ち上げ、小沢一郎を老獪な天才政治家とほめそやし、あげくのはてには蓮舫の人相をほめたたえるという醜態を演じた。オバマ大統領から「ルーピー」呼ばわりされ、退任後はチャイナ、ロシア、韓国で反日侮日反米侮米言動を繰り返している鳩山由紀夫。東北大地震による原発被災がこわくて一度も選挙区に帰らず、あげくのはてに糟糠の妻から離縁された小沢一郎。「スーパーコンピューターは二位ではいけないのですか?」の迷言をはき、台湾との二重国籍を放っておいた蓮舫。選りにも選って、この三人をほめたたえるという愚かさは信じられない。

 民主党にはじめは期待し、その内に幻滅するという経緯は、大なり小なり日本人のたどった道(私もそう)だが、内田、高橋両氏が語った手放しの民主党礼賛はいただけない。しかも両氏は民主党政権に幻滅したあげく、「自民党も民主党も同じ」という嘆き節を展開する。それだけならまだしも、人口が減少するという理由で、日本という国家を「長期低落」国家と決めつけ、成長というような無駄な努力をしないように呼びかけている。なんだ、長期低落の経済を呼び込んでいるのは、おめ―たちじゃないのか?―と口をはさみたくなる。

 55年体制では、左派には「まだ社会主義革命のイメージがあった」から「国家像が提示できた」というのが高橋氏の述懐である。もう滅びてしまった体制を懐かしむのは勝手だけれど、本にしてまで言うべきことかね? 内田氏も日本は「ダウンサイジングすべき」と考えない人は「バカなんだよ」と放言しているが、私の考えは違う。人生においても社会においても、努力が無用という世界はない。成長を心がけなければ、現状維持すらおぼつかない―というのは、人生そのものではないのか?

 思うに「資本主義が悪」と決めつけている人はサヨクを中心に幅広く存在し、過去には何度か恐慌を起こしてきた経緯から、そう考えるのは無理もないと言えるけれど、それでも世界が発展してきたのは資本主義下の出来事で、共産主義をかかげるチャイナにおいてすら、資本主義の経済体制でなければ国家運営ができないという事実に目を向けるべきだろう。産業革命以来、世界は資本主義を少しづつ改良することで生き延びてきたのである。足踏みしたり、逆行したりしているように見えることもあって、資本主義を一挙に変える手立てはないものかと、別の革命を夢想する気持は分かるが、まだ経験も浅い青二才でもあるまいし、大部のページを使って間違った方向を指し示すのはやめにしてもらいたい。

 両氏の考え方の盲点は、日本だけを切り離して考えるところにある。日本は「ダウンサイジングすべき」という議論にしたって、世界経済の網の中で日本が生きていることが完全に無視されている。日本だけが「ダウンサイジング」すれば、周りの国々からどんどん取り残されるだけだ。すでに平均給与が韓国に抜かれたのは数年前のことであるが、最近の調査では、日本の部長さんはタイの部長さんより給与が低いというデータが出た。日本の長期低落は現実で、チャイナや韓国に日本の技術者が引き抜かれている(言葉を換えれば、出稼ぎに行っている)のが現状だとすれば、その内タイやインドネシアに出稼ぎに行く日本人という構図ができるだろう。日本の中進国転落である。労働者一人当たりの生産性向上を実現しない限りは。

 『沈む日本を愛せますか?』の中で語られたのは、鎖国状態の思考―というべきもので、言ってみればダチョウが砂に頭を埋めて勝手な言説をほざいている、という構図だ。あれほどの切れ味を見せた内田樹氏の転落を目の当たりにして、私の感情は乱れている。「いっそのこと日本をアメリカの1州にしてもらったら?」というお遊びも、知識人 の中ではよくやる遊びである。だって、戦争に負けてから一度だってアメリカの意向に逆らったことはないから、ね。学者の中には、ペーリー来航で日本は強姦されてしまった、と説く人もいる。要するに、日本人の中にはアメリカへの愛憎がないまぜになっていて、時には「アメリカの属国になった方がいっそ楽」という極端な政治思想(?)を生むことがある。

 「アメリカ属国論」の特徴は、アメリカがそれを拒否するという仮想の文脈がゼロという点。単に日本から押しかけてアメリカが認めて、そうすれば総人口3億2千万人のうち、1億2千万人が日本人だから、アメリカの政治を支配できるだとか、自衛隊は軍隊かどうか―なんて不毛の議論とおさらばできるとか、要するに、お気楽な議論を展開して一時の憂さを忘れるわけだ。しかし、よく考えてごらん。日本が属国にしてくれといったところで、アメリカが受け入れてくれるとは限らない、それどころか99%以上の確率で拒否するだろう。だって、現在のアメリカにとって日本併合のメリットは何もないからだ。そんな大前提をすっとばして、お気楽談義を展開するなんて、過去の内田樹氏には考えられなかった。もうやっぱり絶縁するしかないのだろうか? 部分的には、切れ味の鋭い議論のできる人だけに惜しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする