パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

220218 山本夏彦氏追悼③

2022-02-18 11:40:12 | パロディ短歌(2011年事件簿)
        戦争は「すむ」も「すまない」もない
 再び山本夏彦『とかくこの世はダメとムダ』に戻る。紹介したい名文句が目白押しに順番を待っている。

 尖閣諸島へのチャイナ巡視船の横行を見て、中共政府への警戒と不信感をもつ日本人は80%を超えるようになったが、今から半世紀以上前にも、時の佐藤栄作総理に対し、北京放送は「佐藤のやから!」と連呼していた。一国の総理に対し何という失礼であろう、と夏彦さんは「失礼の国『中国』」と題して一文を寄稿している。

(写真は中国共産党の毛沢東と日本の佐藤栄作総理) 
このタイトルが皮肉である。というのも、当時は礼儀の国がチャイナで、非礼・失礼の国が日本であるというのが、マスコミを中心とした日本のコンセンサスだったからである。当時の空気を知る者は老人ばかりになってしまった。日本共産党は現在と変わらず嫌われていたが、中国共産党の毛沢東や周恩来は、歴史上の偉人として別格の尊敬を集めていたからである。その尊敬度は、昭和天皇と同等くらいとみてもいいような有様であった。

 大東亜~太平洋戦争が終わった時、当時の中国国民党・蒋介石総統は対日賠償請求権を放棄した。「以徳報怨」(怨みに報いるに徳を以てす)という名文句は日本人をしびれさせたといっていい。(本当のところは、無理に賠償金をとるより、台湾などに残した日本の投資資産を差し押さえる方が得、という判断もあったようであるが…)
 
 国民党との内戦に勝った中国共産党も「チャイナはひとつ」という原則から、蒋介石の結んだ「日華平和条約(1950年)」を引き継ぎ、対日賠償請求権を放棄した。蒋介石への賛美は毛沢東や周恩来へ引き継がれた。チャイナは徳の国、礼の国として尊敬の対象となった。一方では、悪名高い「南京大虐殺」が報じられるなど、日本は禽獣の国として指弾された。その時代に、発表されたのが夏彦さんの論文である。

 毛沢東や周恩来は偉人ではない。特に個人として見た場合、毛沢東はスターリンでさえかすむほどの、度し難い悪人である。しかし悪人にふさわしく、政治家としての力量はかなりのものである。敵国である日本に、あれだけの信者を生み出しただけでもすごいことが分かる。15歳(1955)から35歳(1975)くらいまでの私も、見事にひっかかった部類である。「中国の赤い星」を書いたエドガー・スノウや、「大地」を書いたパール・バックなどというアメリカ人シンパの存在も大きい。

 毛沢東たちは対日賠償請求権は放棄したものの、日本のODA(政府開発援助)という制度を国内整備に最大限に利用した。ODAで自国の発展を実現しながら、アジア・アフリカ諸国への対外援助を大盤振る舞いした。国際社会への影響力を保持するため、チャイナが見事に外交上の綱渡りをやってのけた好例である。

 その毛沢東が「佐藤のやから」と放送し、「日本には軍国主義が復活している」と宣伝する。中国共産党は昔から何ひとつ変わっていない。変わったのは日本国民の反応である。昔は中共の主張に呼応する者が多数派だった。夏彦さんによると、こうだ。
 「(日本には)かねて中国に対してすまないと言うものがあって、それは良心的な人々で、良心的なのはいいことだから、一億すまながると、中国人はにらんで(佐藤のやからとか軍国主義復活などを)言いだすのである」 【( )内は引用者注】

 ここではチャイナへの贖罪意識が話題になっている。チャイナは賠償金をとらないという大人の対応をしたのに、日本はそれに見合う謝罪をしていない、といった意識である。それを「すまない」というのだ。日本の戦後外交はずっと「すまない=謝罪」の一本槍だった。

 夏彦さんは謝罪外交の偽善を嫌う。政治と道徳は混同してはならないと言い、チャイナに「すまない」と言うのは、自分が良心的だと思いたいだけで、タダですむからである。試しに「真にすまないと思うなら一万円、千円を喜捨せよと命じたら、その人数は半減し、さらに半減し、ついになくなるだろう」とも書いている。

 「すまない」論議に対し、夏彦さんによれば、戦争とはそんな次元を超えている、という。
 「戦争はすむもすまないもないものである。あれはもともとすまないことのかたまりで、その巨大なかたまりのなかの区々たるすまないことを争ってもはじまらないものである」
 筆者が感心するのは、すべて和語(やまとことば)で規定していること。漢語や洋語が入ってくる前の言葉であるから、直接、腹にひびく。なるほど、我々の感じている戦争とはこういうものだなあ、と納得せざるを得ない。

 もちろん、戦争のすべてがこの規定ですむかといえば、そうはならない。戦争を惹起するのは、経済的な要請もあろうし、民族感情もあるだろう。しかし、直近の大東亜~太平洋戦争を顧みても、指導者の個人的な思い違いだとか、好悪の感情まで測ろうとすると、人間の手に負えない「巨大なかたまり」であることは否定できない。

 夏彦さんの話は広島、長崎への原爆投棄に転じる。
 「すまないことの、てっぺんにあるのはあの原爆で、あれを落としたのはアメリカ人で、そのアメリカ人は日本人にすまないとは、内心思っても決して言わないのである。(中略)たぶんアメリカ人は以下のように答えるだろう」
 「もし原爆を投じなかったら、戦争は長引いただろう。アメリカ軍は日本に上陸しただろう。上陸すれば、アメリカ軍は何十万の死傷者を出したろう。日本軍はその何倍か死んだろう。さらに、一般市民はそのまた何倍か死んだろう。(後略)」
 「それにまた、万一、日本がアメリカに先んじて原爆を所有したら、それをアメリカ人の頭上に落しただろうと、アメリカ人は言って、日本人はそれに返す言葉がないのである」

          健康とはイヤなもの

 こう反論するアメリカ人は健全である、と夏彦さんは言う。何故なら戦争とは「すむもすまないもない」からである。ただ、夏彦さんの論旨は微妙に屈折する。
 「あんなものを落としたアメリカ人を、日本人が非難するのは当然である。非難されてアメリカ人が屈しないのも当然である。それが健康というものである。健康というのはイヤなものだが、互いに認めなければならないものである」

 健康とはイヤなものと思う感性に、私は吉田兼好「わろき友」に「病なく身強き人」をあげていることを思い出す。まことに「健康」とは、他人の境遇を慮るには邪魔なものである。しかし、これが人間としての標準なのではないか。健康とはイヤなものだが、それでも、健康とは、あるべきものである。不健康を目指すという人生はあり得ない。もちろん、この場合の不健康は病気を意味しない。病気の人でも、思考に健康な人々はあまたいるからである。

 広島の戦災を記念した碑文には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という名高い文句がある。しかし、これでは原爆を投下したのが日本人になってしまう―と、夏彦さんはこの碑文の「不健康と不自然」を注意するのである。チャイナへの「良心的」態度も夏彦さんにはこのように映る。
 「善男善女の、あの良心的というものに、私は深い意味はないとみている。センチメンタルにすぎないと思っている」
 はかないアブクである、と氏は言っている。それは、中国共産党によって利用される危険なアブクでもある。近年、このアブクが劇的に減少したのは、半世紀前に夏彦さんの鳴らした警鐘に、やっと日本人が気づいたからである。
コメント
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