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正岡子規の俳句革新(三)

2006-05-13 04:01:22 | 正岡子規
 明治三十年一月、子規は、編集発行人を柳原極堂(やなぎはらきょくどう)をして、伊予松山で、俳誌「ホトトギス」を発刊させる。そして、これは、二十号まで続くが、その後、東京の高浜虚子が引き継ぎ、昭和三十五年の子規没後、この虚子が子規の継承者となる。その後、文芸雑誌の時代を経て、大正元年から「花鳥諷詠」という俳句理念の下に、客観写生俳句を提唱・推進し、所謂、「ホトトギス」王国を築き上げる。        
 この「ホトトギス」の雑詠欄から、渡辺水巴(わたなべすいは)・村上鬼城(むらかみきじょう)・原石鼎(はらせきてい)・飯田蛇忽(いいだだこつ)らの俊秀が巣立っていた。さらに、その大正時代に入ると、所謂、四Sといわれる、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)・山口誓子(やまぐちせいし)・阿波野青畝(あわのせいほ)・高野素十(たかのすじゅう)を始め、富安風生(とみやすふうせい)・山口青邨(やまぐちせいそん)という一大「ホトトギス」山脈が築かれていったのである。

 昭和三十四年虚子没後は、長男の高浜年尾(たかはまとしお)が引き継ぎ、その後、年尾の次女の稲畑汀子(いなはたていこ)が継承し、平成六年四月で一一六八号に至っている。                   

 もう一つ、子規の活動の拠点は、「日本」新聞であったが、この新聞紙上により、子規は数々の「俳句革新」運動に係わる俳論を発表すると共に。明治二十六に、「子規選句欄」を設け、子規の新派の俳句の興隆に繋げるのであるが、子規の没後は、これを、河東碧梧桐に引き継がれた。

 碧梧桐は、当初、虚子と歩を同じくしていたが、後に、進歩的、写実的色彩を強め、虚子と袂を断つこととなる。

 この碧梧桐門にも、大須賀乙字(おおすがおつじ)・荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)・小沢碧童(おざわへきどう)・中塚一碧楼(なかつかいっぺきろう)などの新進気鋭の俳人を輩出し、これまた、碧門隆盛の一時代を築いた。 

 これらの碧門俳句は、「新傾向に非ずんば俳句に非ず」と称され、この「新傾向俳句」は一世を風靡するが、後に、この「新傾向俳句」は内部分裂を始め、乙字は伝統尊重と古典復帰を目指し「石楠(しやくなげ)」に拠り、井泉水は無季の自由律俳句の「層雲(そううん)」に走り、四分五裂の状態となり、ここに碧門俳句は、虚子の「ホトトギス」の隆盛に比して衰退転落の運命に堕するのである。                   
 とまれ、子規の「俳句革新」運動は、子規の没後、その二大俊秀の、虚子の俳誌「ホトトギス」と碧梧桐の新聞「日本」の影響下で、強力に推進され、子規の時代の「新派と旧派」との闘いは、圧倒的な差で子規らの新派の新俳句が、旧派の宗匠俳句を駆逐していくのである。

 しかし、子規の「俳句革新」運動が、さほどまでに成果を上げ得たのは、子規と子規門の力だけによるのであろうか。これは、決してそうではないのである。

 ここで、芭蕉没後(一六九四)三百年にも当たる平成四年(一九九三)に没した、芭蕉俳諧の正統な継承を目指した、加藤楸邨(かとうしゅうそん)の「明治俳句史(上)」(『俳句講座』・明治書院)から、興味ある指摘の要約を見ることにいたしたい。 

○江戸は西方の力に圧せられて敗北した舞台である。新しい政治・社会の勢力は西方から来た人々によって形成さられ、江戸の人は社会の中枢にあって勢いを占めることが不可能な状態に置かれた。           

○従って、文化の中心であった江戸の旧俳人(注・旧派)たちが、おのずと逸楽遊閑の方向に追いこまれたるのは、避けがたい傾向だったわけである。

○この結果、俳人の生活はおのずと遊閑的・寄生的となって、時代の生動する力からは全く遊離せざるを得なかった。従って、そこに辛うじて認められるのは、過ぎ去った過去の郷愁をよりどころとする江戸趣味の世界であった。生きて動きゆく新しい社会の流れに目を閉じて、すでに昨日のものとなった花の残香をなつかしむに過ぎない無気力が氾濫したのであった。

○また、芭蕉の没後は、その門下たちも点印(注・選句料の点料)を用いるようになり、時代が下るにつれて点も甘くなって、大衆に媚びる輩も増加して、(注・そのような状況が)幕末から明治に至ったのである。   

○月並というのは月次とも書いて、毎月いとなむ例会という意味である。(注・この例会での寄せ句を集めたものが、月並集で)、その月並集は遠隔の人の寄せ句まで集めて出されるようになる。それらの句はいずれも入花料が必要とされ、入花料というのは出句の料金で、これが点者の点料や月並集の開板費用に当てられたわけである。こうなると、出句者の側からいえば、芸の問題が中心になるのではなく、次第に高点を競う勢いが馴致され、その結果、高点を取る手引の参考書まで出るようになった。点者がそういう大衆の嗜好を察知して堕落することも、逆に、出句者が点者の好みに迎合してねらいをつけることも、自然の勢いであった。

○子規は当然動かねばならなかった時代の機運に、最もふさわしい人間の在り方で際会したとみるべきで、その革新運動は、子規の功績に帰すべきところ極めて多大であるが、根本的には、時代の要求が子規を促したということも、見のがしてはならぬところである。

○子規のそれ(注・「俳句革新」)は、封建的な時代の庶民の文学から、近代資本主義時代の新しい市民の声の解放という、歴史的役割を負うものと考えられてよいと思うのだが、その第二の波頭(注・「俳句革新」)は、複雑な時代の後進性を負わされていたために、子規において完全な成立を見ることができなかったのである。

○加えるに、子規の在り方と後年の病臥生活という特殊な事情の下に、解放された個は、広い社会とかかわる社会的人間として個となる代りに、狭い「病牀六尺」の中に心境的な定着を示して、多くの課題は子規以後に遺されてきているということができる。

○(注・最後に)正岡子規の「日本派」の新しい俳句の運動が進められていた頃、一方では、尾崎紅葉・大野酒竹・角田竹冷らの各々の一団(注・「秋声会」・「筑波会」など)が、旧派とは一線を画して「日本派」と近い動きを示していたことは忘れてはならない。

 これらの楸邨の、子規の「俳句革新」運動に関連した背景の分析や周辺の動向の分析は、極めて適切なものがあるが、さらに、これらに、付け加える事項としては、次のようなことが上げられるかと思う。それらは、今までに、色々の角度から側面的に触れられてきたところではあるが、ここで一括まとめをしておきたいと思う。            

○即ち、子規らの「俳句革新」運動というのは、西洋的な文学思想を持った学生上がりの、まだ、若干二十五歳という少壮ジヤーナリストともいうべき、職業俳人ではない(アマ)子規をリーダとする、いわば、素人(アマ)集団によって成し遂げられたということである。

○また、当時の旧派の俳句は、江戸末期の俗調の延長線上にあり、それは、まさしく、子規が指摘するように、「俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり」との、崩壊寸前にあり、その崩壊は修復する程度では持ち堪えることができず、それは、新しい近代の西洋的な文学思想をもっての全面改築をする必要があったということである。

○更には、これらの「俳句革新」運動は、主として、子規をリーダとする、伊予松山出身の地方の面々から成る「日本派」が活躍するのであるが、その他にも、「秋声会」や「筑波会」という、これまた、職業俳人ではなく、趣味で俳句をしている余技的俳句人(アマ)の活躍も大きな役割を果たした。

○因みに、「秋声会」の、角田竹冷は東京株式取引所理事長などの要職を歴任し、伊藤松宇は王子製紙の幹部職員、巌谷小波は児童文学では多大の貢献をした作家でもあり学者でもある。尾崎紅葉は『金色夜叉』などの大作をものにしている明治文壇の大立者である。

○一方、「筑波会」の面々は、これは、主として東大関係者の会であり、大野酒竹は東大の皮膚科の教授、佐々醒星は国文学の権威の文学博士、笹川臨風は美術評論家としても一流のこれまた文学博士、沼波瓊音は東大の俳諧史の教授と、いずれも、日本の近代化を背負っていた超一流人である。

○こういう当時の、最高級の教育を受け、その西洋の思想をもろに受け止め、そして、明治維新以降の日本の近代化に、それぞれが、それぞれに貢献し、それを推進している超知識人達が、こぞって、新派の近代俳句の「俳句革新」運動に、直接と間接とを問わず、携わったのであるから、これは、其角堂とか雪中庵とかの嗣号の下の家元制度のような旧派の宗匠俳句が駆逐せられていったのは、けだし、止むを得なかったということなのであろう。

 以上が、楸邨の、子規の「俳句革新」運動に関連した背景の分析や周辺の動向の分析に追加して付記しておきたい事項なのであるが、更に、今となっては、子規の「俳句革新」運動の影に隠れて余り指摘することも少ない幾つかの重要な事項について付記しておくこととする。

 その一は、子規が、明治二十八年に「発句(注・俳句)は文学なり、連俳(連句)は文学に非ず」と抹殺したところ連俳(連句)について、子規自身、その四年後の、明治三十八年に、その『俳諧三佳書序』で、「連句に興味を持っている」旨の、それまでの「連俳(連句)非文学論」を撤回するような記載を残しているのである。

○自分は連句という者余り好まねば古俳書を見て連句を読みし事無く又自ら作りし例も甚だ稀である。然るに此等の集(注・『猿蓑』・『続明烏』・『五車反古』)にある連句を読めばいたく興に入り感に堪ふるので、終には、これ程面白い者ならば自分も連 句をやつて見たいという念が起つてくる。    
 そして、それだけではなく、子規と虚子との両吟すら「ホトトギス」誌上(第二巻第二号)に登場しているのである。その表の六句を掲げておくこととする。

 ○発句 萩咲くや崩れ初めたる雲の峰 (子規)
   脇  かげたる月の出づる川上  (月が引き上げられている 虚子)
  第三 うそ寒み里は鎖さぬ家もなし   (子規)
  四句目  駕籠二人銭かりに来る     (虚子) 
  五句目 洗石の場を流したる夜の雪   (子規) 
  折端  残りすくなに風呂吹の味噌    (虚子) 

その二は、子規、虚子とも連なり、夏目漱石門の松根東洋城(まつねとうようじょう)とその俳誌「渋柿」が、芭蕉以来の伝統ある連句の世界を、今に伝えているということである。                             

○渋柿はその芭蕉に於てなされし如く「連句」を大切にす。之に依り多く俳諧を闡明(注・びんめい)し拡充し高揚す 

これは、大正四年に、東洋城がその俳誌「渋柿」を創刊した時の、その目指すべきもの一つとして東洋城が掲げたものである。 

そして、東洋城は、その生涯において、歌仙(三十六句形式の連句)百六巻の他、数々の連句作品を残しているとか。 

また、東洋城門には、寺田寅日子(寅彦)・野村喜舟(のむらきしゅう)・阿片瓢郎(あがたひょうろう)などがおり、現在に、その連句の伝統を守っている。

次に、東洋城と寅日子との両吟の、その表の六句を掲げておくこととする。                         
○発句 水団扇鵜飼の絵なる篝かな  (東洋城)
  脇  旅の話の更けて涼しき    (寅日子) 
 第三 縁柱すがるところに瘤ありて  (東洋城)
 四句目  半分とけしあと解けぬ謎  (寅日子) 
 五句目 吸物をあとから出した月の宴 ( 月の定座 東洋城) 
 折端  庭のすゝきに風渡る頃      (寅日子)


その三は、子規の「俳句革新」運動というのは、虚子と碧梧桐という二人の傑出した弟子により受け継がれ、そして、虚子によって、その近代俳句(新派の俳句)が確立するのであった。そして、碧梧桐の「新傾向俳句」によって、極端なまでに、無季自由律の分野など、現代俳句に見られる多種多様な分野のリーデイングケースのような役割を演じるのであった。 

そして、この俳句の前衛的な碧梧桐はともかくとして、新しい伝統俳句を樹立した虚子は、既に、子規の生存中の頃から、「連句の趣味」(「ホトトギス」・明治三二・五)なる一文を発表し、子規の「連俳(注・連句)非文学論」とは一味違った見解を発表しているのである。

また、虚子は、昭和十三年四月に、その後継者の年尾に「誹諧」という雑誌を刊行させ、この「誹諧」には、「俳句・俳文・俳論・連句・俳諧詩」まで多彩な内容となっているとのことである。

 ここにいう「俳諧詩」とは、それは、自由詩なのであるが、俳人も、俳句だけではなくもっと自由に創作を試みるべきとする虚子の心情を物語るものであろう。  
 ○ 俳諧詩  麦踏(虚子作)                                      
 夕ぐれの  畑中に    麦踏んで ゐる女
 もうすぐに 足もとも   わからなく なるだろう  
  夕靄が   だんだんと  濃くなりて やはらかく
 おしつゝみ かいいだく                


その四は、子規の「日本派」(伊予派)と同じく、新派の俳句として「秋声会」・「筑波会」なども、旧派の俳句を一掃するために一つの役割を演じるのであるが、これらの「秋声会」・「筑波会」などの面々においては、子規の「連俳(注・連句)非文学論」にかかわらず、「連句」の復興に力を尽くした人が少なくない。              
その筆頭は、「秋声会」の大物、伊藤松宇である。松宇は、明治四十四年六月に俳誌「にひはり」を創刊主宰して、俳諧の史的研究・連句の再認識に尽力する。松宇は実作者というよりは、俳諧の研究・考証・連句の鼓吹などに大きく寄与した。

次に、松宇と根津芦丈(ねずろじょう)との両吟の、その表の六句を掲げておくこととする。この芦丈は、連句完成数三千巻ともいわれ、その芦丈門に、清水瓢左(しみずひょうざ)・野村牛耳(のむらぎゅうじ)・東明雅(ひがしあきまさ)などの多くの連句人が輩出している。

○発句 夜半の冬狸が付けし継句かな    (松宇) 
 脇  衾すっぽり冠る凩         (芦丈) 
 第三 振って見る徳利の酒を命じて    (松宇)
 四句目  素彫りの像に会心の笑み    (芦丈)
 五句目 啄木鳥の月になるまで啄くらむ (月の定座 松宇) 
 折端  連れし小者の水落し去る     (芦丈)   

その五は、子規の「日本派」(伊予派)そして、「秋声会」・「筑波会」などの新派の俳句が、芭蕉以来延々と続いていた旧派の宗匠俳諧(連句・俳句)を簡単に駆逐し、その生命を完全に絶ったかというと、それは、そうではなく、今になお、その伝統は受け継がれているものを目にすることができるのである。
 しかし、それは、子規そして虚子につながる近代俳句が巨大化し、その巨大化に比して矮小化されるという運命にはあった。
 いや、言葉を変えれば、子規そして虚子につながる近代俳句の巨大化は、新しい主宰者という一種の権威ある者を誕生させ、かっての宗匠に代わるべき地位を得させたのである。とすれば、「其角堂」とか「雪中庵」とかの嗣号のもとに、かっての宗匠を中心とした伝統俳句が、かっての栄光を取り戻すことは、もはやあり得ないと思われる。

 しかし、こと連句に限っていえば、実は、その近代俳句が避けて通った分野であり、これは、間違いなく、その近代俳句の成果を摂取しながら、再び、脚光を浴びることは、現代の連句界の動向を見て、そう間違っている結論にはならないと予測されるのである。  

 かかる連句の再興に鑑み、実は、かって、宗匠と呼ばれた方々は、名うての連句人であり、それらに連なる伝統俳諧(連句・発句)に携わっている方々との発掘と、その連携ということは、今後の連句に携わっていく者の課題ともいえるであろう。

 かっての、宗匠と呼ばれた、著名な嗣号などを持つ俳諧師の連句を、前句と付句の二句仕立てで、その幾つかを次に掲げることとする。

○発句  水海に昼の月ありほとゝぎす    (嗣号「花の本」・聴秋)
  脇   子供も載せて早苗つむ舟     (湖月)
 ○ナウ五 囀にましらぬ鳩の巣について   (素朗) 
 挙句   とけて残らぬ頃の雪垣      (東都三大家・橘田春湖)
 ○ウ折立 網とりの寒の兎をかきいだき  (東都三大家・ 関為山) 
   二  ぬからす酒の用意してある    (壺公)
 ○ウ十一 幾万の心をそゝる花日和    (嗣号「其角堂」・機一) 
  折端  素足のなじむ若草の上      (一滴)
 ○ウ 五 凩のたゆたふ隙を鐘の声    (予雲)  
  六  船を世帯に夫婦わりなき      (東都三大家・鳥越等栽) 

 さて、この「俳句革新」の原点ということに思いをいたす時、やはり、子規の最晩年の『病牀六尺』の冒頭の書き出しを想起せざるを得ないのである。

○病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。                       

正岡子規、その三十五年の生涯は、まさに、それは「病牀六尺」の世界であったろう。そして、その「病牀六尺」は、当時の誰よりも広大無限の世界だったのである。

当時の誰が、子規に匹敵するだけの広大無限の世界を熟知したであろうか。つくづく、人間というのは、自分がその生を保っている、その所を、その世界を、何も目に焼き付けることもなく、何の感慨もなく、ただ、他人ごとのように眺めて、それで、その一生を終わってしまうことであろうか。

子規は、「病牀六尺」の世界にあって、その目に入る一木一草を、そして、生きとして生けるものを、凝縮して、凝縮して、その全ての在りようを克明に自分の「頭・心・五感」の焼き付けていったのである。      

まさしく、神というのは、人間に等しく、その恩寵というものを分け与えるものなのだろう。普通人が、八十年、そして、その生涯で見聞きする全てのことを、子規は、その三十五年の生涯で、その「病牀六尺」の世界で全てを見通したのである。    
 こと、「俳句革新」ということに限っていえば、伊予松山出身の、一書生の子規が、その「病牀六尺」の世界で出会った、非常に限られた書生仲間と、その「病牀六尺」の世界で切磋琢磨し、その切磋琢磨の成果をもって、日本全土に「正岡子規の近代俳句」を押し進め、その「正岡子規の近代俳句」で一時代の全てを覆うてしまったのである。

 まさに、それは革命であった。それは、まさしく、江戸から東京への変化と機を一にするものであった。時は、子規を必要とし、しかも、時は、「病牀六尺」の世界での、子規を必要としたのである。その針のような小ささで、そのダイヤモンドのような固さで、そのレザーのような鋭さで、当時の江戸俳諧(古典俳句・旧派)を東京俳句(近代俳句・新派)に変却せしめたのである。

その江戸俳諧(古典俳句・旧派)を東京俳句(近代俳句・新派)に変却せしめた原点とは何か。それは、それこそが、職業俳人(俳諧師・プロ)に対する素人俳人(俳句人・アマ)の挑戦以外の何ものでもない。     
 即ち、子規の「俳句革新」というのは、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による」俳句革新運動であったのである。           
 かって、子規は、明治二十九年に、「俳人ヲ戒メルノ書」を、同郷の伊予の、一舟という俳人に書きおくっている。その冒頭の書き出しは次のとおりである。

○俳句ハ人ニ向ツテ威張ルガタメニ作ルモノニ非ズ       

これこそ、子規の「俳句革新」の、その原点に位置するものではなかろうか。即ち、「俳句革新」の、その視点は、この「俳句ハ人ニ向ツテ威張ルガタメニ作ルモノニ非ズ」の、このアマチュアリズムこそ、その視点であったのではなかろうか。
 そして、子規の、そのアマチュアリズムの視点には、当時の、旧態然とした職業俳人(プロ)は鼻もちならぬものに映じたのであろう。そして、その職業俳人(プロ)の手から、芭蕉以来の燦然と輝く本当の俳句(連句・発句)を取り戻し、そして、それを、純粋に俳句を愛好する、いわば、純粋俳人(アマ)の手に委ねようとしたのであろう。

その「俳人ヲ戒メルノ書」は、次の子規の句で結んでいる。                      
○ 柿くふて文学論を草しけり


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