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茅舎追想(その十八~その十九)

2010-07-26 08:30:14 | 夜半亭レポート
(茅舎追想その十八)龍子・茅舎と秋桜子

 『日本の名画第十六巻川端龍子』(中央公論社刊)に水原秋桜子の長文の「創意あふるる画家」が収載されている。
 虚子と龍子とが知己の関係にあったということは知られているが、秋桜子と龍子とが知己の関係にあったとは、この長文に接して始めて知った。と同時に、ここには、秋桜子と茅舎との関係なども詳細に記されている。
 ここで、秋桜子と龍子、そして、茅舎の、この三人のことなどについて、その秋桜子のものから、これはと思うようなことを抜粋して置きたい(併せて、簡単なメモを括弧書きで記して置きたい)。

[この第一回展(注・龍子が「青龍社」起こしての第一回展、昭和四年、龍子、四十四歳)に出陳された龍子の「鳴門」は、おそらく龍子全生涯の作のうち随一に推すべきものであろう。(中略) 要するに龍子の「鳴門」は、自然そのものの上につよい感激がかさなり、それが純粋の芸術にまで昇華してものにちがいないと、改めて感心した(注・秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の主張の骨子の要約のような記載である)。

 昭和五年頃であったろうか。俳句雑誌『ホトトギス』の選句欄に川端茅舎という名を見かけるようになった。(中略) 普通の写生仕立てでなく空想力のつよいもので、主として京都あたりの僧房生活が詠まれ、時には東京の市井風俗も扱われていた(注・虚子の「客観写生」ではなく秋桜子の「主観写生」の俳句であるというニュアンスである)。

 ある日『ホトトギス』発行所に顔を見せた中村秀好という作者が、自分は茅舎を知っている。あれは川端龍子の弟であると言った。龍子はそれまでに『ホトトギス』の表紙絵や挿絵を描いていたので、その人の弟が知られていなかったのは不思議だと思ったが、後になって茅舎は龍子の異母弟であり、早くから独り離れて暮らしているということもわかって来た(注・茅舎は龍子の手引きで『ホトトギス』に入ったのではなく、また、龍子の弟であるということは当初の頃は虚子も知らなかったのではないか?)。

 その後茅舎は身体の調子がわるく、僧房の独居に耐えがたくなったので上京した。大森区の桐里町という静かなところに、龍子が父のために建てた家があったが、茅舎はそこに父と住むことになった。新井宿の龍子の画室とは四、五町を距てているだけであるが、茅舎が兄の家を訪れるのは月に一、二回のことであるらしかった(注・茅舎が龍子の建ててくれた家に父と共に移るのは、昭和三年、三十一歳のときであった。二月に茅舎らの母が亡くなり、四月にこの青露庵に転居し、父共々龍子の庇護の下に暮らすこととなる。茅舎が龍子のところに訪れるのは月一、二回程度ということだが、龍子の妻夏子夫人などが茅舎らの日常の世話をしたということだろう)。

「僕のところへ送っていただく『馬酔木』を、兄貴がいつも読んでいましてね、『馬酔木』の表紙ならいつでも描くと言っていますよ。頼んで置きましょうか・・・」。私は喜んで、それでは七年度の新年号からのものを描いていただきたいと言って別れた。その表紙絵は十月の末になって龍子から届けられた。期日より五、六日も早めなのである。その上に画が二枚、青獅子と孔雀とが描かれてあり、どちらを使ってもよいという手紙を添えてあった(注・龍子は茅舎の所にある本などには目をとおしていて、秋桜子の『馬酔木』なども読んでいた。そして、虚子の『ホトトギス』だけではなく、その虚子から独立していく秋桜子の『馬酔木』の表紙絵も描いている。龍子には虚子への遠慮とかそういう気配は感じられない)。

 十一月の末になって、茅舎を伴った龍子夫人が、荏原区の中延にあった昭和医学専門学校に私を訪ねて来た。この学校は私の友達の四、五人が集まって建てたもので、私は依頼を断ることが出来ず、忙しい中を一週に一回講義と診療のためにかよっていたのだ。来意をきくと、この頃茅舎は身体の調子がわるく、頸部の後方に大きな腫瘤が出来たので、専門の科で診療を受けたいとのことであった(注・昭和六年、茅舎が「頸椎カリエス」で昭和医学専門学校の病院に入院するのは、龍子の夏子夫人と一緒に秋桜子のところに来て、その病院の専門医の診察を受けてのものである。ここでも龍子の夏子夫人の茅舎への日常の介護振りが察知される)。 

 茅舎は寒い間つづけて入院することになり、私の周一回の通勤日を待ち通しく思っているらしかった。私も時間の許すかぎり病室にいて話し相手になった。『ホトトギス』と『馬酔木』との間は、もはやどうにも仕方のない状態になり、『馬酔木』は一本立ちすることに決まった。そのことを茅舎に告げると、「それはどうも困ったね」と言っていたが、眼はすこし笑っているようであった。茅舎は深い事情は知らなかったのだが、勘の鋭さでもはやどうにも方法のないことを知っていたのであろう(注・秋桜子の『ホトトギス』からの独立に関しての秋桜子と茅舎とのやり取りに関してのものである。茅舎ならずも、虚子と秋桜子との関係が抜き差しならないところで来てしまったということを承知していたのであろう)。

 二月に入って茅舎は退院したが、私は時折桐里町へ見舞に行った。医専としてもその後の容態を知って置く必要があったわけである。茅舎はたいてい病院で作ったギプスベッドに入っていて、「いまお涅槃の最中さ」と、いかにも坊さんめいた冗談を言いながら、ひとりで巧くベッドを抜け、日当たりのよい縁側へ出てきた(注・「青露庵」での茅舎の日常というのは、ギプスベットに入ったりしての極めて不自由なものであったのだろう。「涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩」などの句も、こうしたギプスベットなどに入っての自嘲的な句とも取れなくもない)。

 その翌々年あたりであったろうか。私は龍門会に入会することをすすめられた。この龍門会というのは大森区と荏原とに住む医師だけで成り立った会で、御形塾を後援するのが目的であった。毎年歳晩になると十五、六人の会員が集合し、塾員の作品を分け合うのである(注・「御形(ごぎょう)塾」は龍子の内弟子の集まりの画塾で、「青龍社」はこの御形塾の塾員が中心になる。この「御形(ごぎょう)」の由来は、龍子が住んでいる地区の「子母沢」の逆さ詠みの「母子」から「母子草」の別称の「御形(ごぎょう)」とがその由来らしいが、龍子の「母」のイメージもあるのかも知れない。そして、秋桜子は、その「御形塾」を後援する「龍門会」のメンバーの一人で、言わば、龍子の後援者の一人でもあったのである)。

 昭和二十一年の初夏であったと記憶する。久しく打ち絶えていた龍門会を開くという通知が、当時八王子に住んでいた私の家に来た。(中略) 私が着いたときは午後の日が傾きかけていたが、前に住居のあったところには何もなく、大きな池ほどもある穴が出来ていた。これは戦の終わる二日前、大型爆弾の落ちた跡で、住居は一瞬に微塵となったが、龍子と家人に怪我はなく、画室は少し離れていたため殆ど無疵のままであった。会員が揃うまでに私は画室の前庭を歩いていた。羊歯の葉が揺れたかと思うと、大きな蟇が貌を出したので、蟇嫌いの私はびっくりして立ち止まった。龍子がそれを笑いながら画室で見ていた。
「蟇はわるいことをしませんし、愛嬌がありますが嫌いですか?」
「どうもこれは苦手ですね。しかし蛇よりはいい。蛇だったら画室へ飛び上がりますよ」
(注・終戦二日目の龍子邸に大型爆弾が落ちたことが記されている。また、「蟇ないて唐招提寺春いづこ」の名句を遺している秋桜子が蟇嫌いというのは面白い)。

 四十一年一月に池上本門寺の天井に「龍」を描いたが、二月に入って臥床する日が多く、遂に四月十日安らかにその生を了えた。告別式は龍子記念館で行われ、参加した人の列は長くつづいた。館の短い階段を登ると、そこに御形塾の塾員達が静かに立並び、師と今生の別れを告げる悲しみに耐えているようであった。思えば私がはじめてこの新井宿を訪ねてから、すでに四十余年の歳月が流れているのであった(注・龍子の告別式の様子である。そして、龍子と秋桜子とは四十余年という長い付き合いがあったのである)。]


(茅舎追想その十九)龍子の建てた「茅舎句碑」と「芭蕉翁」(龍子画)

 昭和十六年(一九四一)七月十七日、川端茅舎は「青露庵」にて永眠した。四十三歳十一ヶ月。「青露院茅舎居士」と異母兄の龍子が戒名を付け、伊豆修善寺の龍子の墓域の一角に埋葬された。そして、龍子は、「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の茅舎句碑を建立した。
 また、龍子は、戦後、高浜虚子と「ホトトギス」同人の深川正一郎の手を煩わせて、『定本川端茅舎句集』を刊行した。その装幀は、龍子自らの手で施し、その表紙絵に、「芭蕉の花」を描いた。
 龍子が、茅舎の母亡き後、父と茅舎のために建てた青露庵の庭には、芭蕉が植えられていた。この『定本川端茅舎句集』の表紙絵の芭蕉の花は、その青露庵の庭に咲いていたものであろう。
この句集には、虚子の「庭の花」という一文が収載されていて、茅舎が亡くなったときのことが詳細に綴られている。その中に、龍子が、青露庵の庭の芭蕉の花を手折って、茅舎の棺に入れる場面が、「芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ」とリアルに記述している。
青露庵の庭の植物などは、水原秋桜子の「創意あふるる画家」によると、龍子の作庭との茅舎の伝言が記されており、茅舎が句材にしている「朴・芭蕉・羊歯・蕨・ぜんまい・土筆」等々は、全て、その庭に植えられたものなのであろう。鳶は、その垣根の向う側は池上本門寺の境内で、そこから飛んで来るのだろう。土竜はその作庭の石の下からよく貌を出したという。
龍子には、大正十二年(一九二三)の、紙本着彩の「芭蕉翁」という絵がある。その解説記事(『日本の名画第十六巻川端茅舎(佐々木直比古稿)』は次のとおりである。

[大正十一年に入ると龍子は大和絵の構成に心をひかれだした。在来の日本画の技法そのものにも漠然ながら疑問を持つようになり、このような懐疑的な過程を切抜ける道は、もっと日本画の伝統的な技法を積極的に考究する以外にないことに気づいた。古土佐の芸術にそれを求めた「つのづきの巻」は上越線小千谷に近い山中で行われた牛の角突きの行事を扱った作品で、大正十一年院展に出品したが、龍子の期待を裏切って批評家の評判はあまりよくなかった。同時に出品した「庭上印象」の方が無難だったのか評判はよかった。「つのづきの巻」は現在ではあまりに有名だし、大きさの都合もあって割愛したが、「芭蕉翁」は「つのづきの巻」の翌年、第九回院展試作展に出品された作品で、かつて霊泉由来を求めて、鹿沢から草津へ歩き、また「神戦の巻」の際に日光湯本の旅から得たものを、白雲流水の東洋的自然観にしたがって、絵巻的表現と金泥多用の描法で描いている。後年奥の細道行脚に赴くが、すでに古くから旅の思想が頭の中にあったようである。]

 この「芭蕉翁」を制作した大正十二年の九月一日は、関東大地震があった日で、龍子は三十七歳、茅舎は二十六歳であった。この頃、茅舎は異母兄・龍子の家にも出入りして、洋画家・岸田劉生に師事していた。劉生は京都に避難していて、茅舎も京都の正覚寺に滞在し、劉生の指導を受け、十一月には、芸術院展に「静物」が入選している。
 当時の龍子は、洋画家から日本画家に転身して、その地位を着実に確保しつつあったが、茅舎は、未だ、一所不在の画学生という趣で、異母兄の龍子が日本画なら洋画家でという感じでなくもない。
龍子と茅舎が師事した劉生とは未知の関係で、後に、茅舎の縁で龍子は劉生とも知己になるが、劉生は、昭和四年(一九二九)に満州旅行の帰途、山口県徳山で急逝してしまった。この劉生の急逝と相俟って、茅舎は病弱が激しくなり、劉生亡き後の画業はなく、失意のまま「ホトトギス」一辺倒となる。
ここで、興味深いことは、芭蕉翁のように、一所不在で青春彷徨を繰り返していた茅舎と同じように、一家を支えるために若くして洋画家(挿絵画家)として定住・自立しつつ、龍子もまた、「白雲流水の東洋的自然観」に惹かれて、その放浪の詩人、俳聖・芭蕉翁を憧憬していたということなのである。
この「芭蕉翁」の前年作の、「角突(つのづき)之巻」(越後二十村行事)は、横山大観の「生々流転」と同じように絵巻物一巻で、縦四五・五センチ、横七七四・三センチという大作である。これらの作品は、日本の伝統的なもの、風土的なものへの執拗的な取り組みで、それを如何に、「現代的な構成の中へ再現させるか」という、西洋画から日本画へと転向した、当時の龍子の格好なテーマでもあった。
この龍子の「芭蕉翁」というのは、そういう「日本の伝統的なもの、風土的なもの」への回帰を求めての、その一環にあるものであって、単なる思いつきや、単なる要望に添って描いたものではなく、龍子の内なる創作姿勢と密接に絡み合ってのものであった。
その意味では、龍子というのは、当時の画家の中で、「芭蕉翁」に対する崇敬の念とその理解度はずば抜けたものがあったと推測することもあながち無理なことではなかろう。
と同時に、戦後、晩年の龍子は「奥の細道」行脚を決行することになるが、それは、龍子が洋画家から日本画家に転身して、そのスタートの時点から、龍子の胸中にあったものと理解して差し支えなかろう。
即ち、画人・龍子には、その本質的なところに、俳聖・芭蕉翁らの系譜の、「白雲流水の東洋的自然観」への憧憬がある。そして、俳人・茅舎には、直接的な俳聖・芭蕉翁とのかかわりは感知されないが、その根っ子のところに、異母兄の画人・龍子と同じように、「白雲流水の東洋的自然観」への憧憬が滲み出た生涯であっという思いを深くする。
そして、その画人・龍子が、俳句を無上のものとしてそれを嗜んでいた父と、その俳句に生涯をかけたところの異母弟の茅舎の「終の棲家」として「青露庵」を建て、その庭に芭蕉を植えたということも、これは単なる偶然ではないように思われるのである。
さらに、その茅舎が亡くなったときに、龍子は、その最期の別れに際して、その芭蕉の花をその茅舎の亡骸の側に供花するということは、単なる偶然ではなく、亡き俳人・茅舎には、俳聖・芭蕉翁に通ずる芭蕉の花こそ相応しいと、そういう思いが龍子の胸中にあり、それが、最期の瞬間に結実したのではなかろうか。
そして、それだけではない。龍子は、茅舎の墓の一角に、茅舎の異名の「露の茅舎」とその露を宿すところの「芭蕉の葉」の句碑を建立するのである。

ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな   茅舎

この茅舎句碑と、そして、龍子の洋画家から日本画家へと転身した頃の紙本着彩画「芭蕉翁」とは、何故か相互に響き合っているような、そんな思いがしてくるのである。



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