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茅舎追想(その十五~その十七)

2010-07-26 08:17:40 | 川端茅舎周辺
(茅舎追想その十五)茅舎と龍子の「母恋い句」

○ 菩提寺のザボンとあるに母の慈味   龍子
○ 窄き門額しろじろと母を恋ひ     茅舎

 この龍子と茅舎の「母恋い句」は、『川端龍子(菊地芳一郎著)』(現代美術家シリーズ)からの抜粋である。この前後の文章は次のとおりである。

[「茅舎の母ゆきは昭和三年二月二十三日、六十二歳で、次いで龍子の母勢以は同五年一月二十日、七十三歳で、父信吉は同八年二月四日、八十歳で、それから異母弟の茅舎は、昭和十六年七月十七日、四十五歳で没して行った」と。そして最後に、龍子と異母弟と、それぞれが、共に母恋う姿を、それぞれの立場から、美しく次の様に書いて居る。
「このような不幸な環境の進行と共に、龍子はやがて一人の異母弟を持ったが、この異母弟は、昭和十六年他界したホトトギス派の俳人茅舎であった。龍子が父への非難とは逆に、母への思慕の情を愈々深く傾けて行ったことは、さもあり得べきことである。
龍子は慈愛にあふれた母亡き後、
菩提寺のザボンとあるに母の滋味
の句に、母への無限の思慕を現したが、茅舎はまた茅舎なりに、彼の母を深く愛した心情も極めて自然であった。茅舎は、
窄き門額しろじろと母を恋ひ
の一句を遺し、また死期を控えて、
  たらちねのつまめばゆがむ草の餅
と、今は亡き母への思慕を嘆誦したが、二人の兄弟が、たがいに異なった母を慕いながら別れて行った。疑いもなき事実は、二人の芸術世界に複雑多岐な明暗を形成したとはいえ、神の意思から見れば、取り返しのつかない悲劇であった。] 

 龍子は画家であると同時に戦後「ホトトギス」の同人となっており、『詠んで描いて 四国遍路(川端龍子著)』の句を見ても、丁度、墨絵でのスケッチ画(龍子は「草描画」と言っている)のような、あれこれと技巧に走らないで、的確な即興の写生句という雰囲気である。下五の「母の滋味」というところが、この句の眼目か。
 茅舎は、画家を志したが、病身のため断念し、句作一本槍という環境からして、龍子流の、即興的写生句を一歩進めて、丁度、龍子の一幅の小品の日本画という趣である。「額」は「額の花」で夏の季語。その額の花を擬人化して、同時に、その額の花に己の心情を託しての一句。「たらちね」の句も、「たらちね」という万葉集以来の枕詞からの「母」を暗示しての一句で、これまた、龍子流の「草描画」的なものを「一捻り」しているという雰囲気である。
 
 茅舎には、これらの句の他に、母や身内の方々を主題にした作句が多いが、龍子の画業の中には、こういう母や父、あるいは子などの家庭を素材としてのものは殆ど見られない。
そういう龍子の画業の中で、茅舎が亡くなる一年前の、昭和十五年(一九四〇)、五十五歳の時の大作「花摘雲」(大陸策連作の四)の、「雲」のような「四人の天女」に、何かしら、
龍子の「母」に通ずるものが、その底流に宿しているような、そんな印象を受けるのである。
 龍子は、明治期の封建下にあった家庭の女性・母親の悲劇(正妻・後妻・継母・庶子など)を目の当たりにしており、龍子の一生というのは、「妻や子らの幸せ」を第一とする志操堅固な「家族第一主義」という生涯を貫いた。
 その龍子の底流に迸っている、「女性愛」「家庭愛」という心情が、丁度、当時の「満州建国」の理念の「王道楽土・五族(日・満・漢・蒙・鮮)協和」と合致して、この大作が生まれたのであろうが、龍子の根底には、そして、それは、異母弟の茅舎にも、この「人間愛」「女性愛」「家庭愛」への切ないまでの思慕の念が、その底流に流れているということを実感するのである。

 この「花摘雲」は、龍子記念館蔵で、江戸東京記念館で開催されたときの、次のアドレスの鑑賞文に接することができる。

http://plaza.rakuten.co.jp/mashenka/diary/200511230001/

[「花摘雲」、これも意表をつかれる。
中国大陸のおおらかな草原の雲を、飛天に見立てたそうだ。
横に大きな作品で、地の緑と花に、空かける天女が4体、圧倒的な存在感だ。
天女の肌には金泥を下塗りしてあり、またさまざまに色を織り込んであり、
白といってもやわやわと明るく、翳りもある白だ。

その微妙な濃淡だけで横たわるような姿勢の、4体もの巨大な天女を、
やさしく生き生き描いている。
天女たちは地に咲く草花を摘み、花かごに盛ってかかげ、
左へとなだらかに流れていく図である。

豪快で大胆な絵が多い龍子だが、もちろんこの作品も非常に大胆だが、
繊細な、優美な感覚もいかんなく発揮していると思った。
こうした感受性はどこから来るのだろう?
大陸の風を感じた。
来年行く予定の、モンゴルの平原のことを想った。
こんなに穏やかでおおらかで優しい風土なのだろうか・・・]


(茅舎追想その十六)龍子の「花摘雲」周辺

 川端龍子の、昭和十五年(一九四〇)、五十五歳の時の大作「花摘雲」(大陸策連作の四)というのは、何とも魅力のある大作である。その「大陸策連作」というのは、当時の、日本の大陸(中国)進出の国策を背景にしての連作というような意味であろうか。
 その第一作は「朝陽来」で、南画風の画面に「万里長城」を描き、その「万里長城」の山脈に太陽が上ってくるという構図である。龍子は何度も現地を訪れて、この地方の「泣くなよ、泣くなよ、今に太陽が上って来るよ」という民謡を主題にしたという。単なる、当時の時代風潮に便乗したものでないことは、この一事を取っても明白である。
 第二作目の「源義経」(ジンギスカン)が、これまた、何とも奇抜な構想である。題名からして、「源義経」に振り仮名で「ジンギスカン」と書いてあるという。駱駝が四頭、白馬が一頭の中に、華やかな甲冑をまとった源義経が前方を見据えているというものである。これまた、当時(昭和十三年)の「徐州攻略」などを背景にしたものというよりも、史学界で話題になっていた「義経・成吉思汗(ジンギスカン)説」などを背景にしているのであろう。その龍子のロマン的心情が何とも痛快である。
 第三作目は、「香炉峯」で、「香炉峯」といえば、清少納言の『枕草子』ということになるが、龍子は、画面一杯に日の丸印の飛行機を描いて、そこから透かして、「香炉峯」の「芦山連峰」を描写しているという(この第三作は「美術全集」などには収録されていない)。
 そして、続く、第四作目が、「花摘雲」なのである。縦、二四四・〇センチ、横、七二六・〇センチの六面の大作である。題名は、「花摘雲」(「花摘む雲」、「花を摘む雲」の意か)で、
雲のような、四体の天女が、日本画の素材としてよく描かれる、牡丹・鈴蘭・芥子などの様々な千草が咲き乱れる大草原で、その草花を摘んでいて、その摘んだ草花が、空中の雲のような天女の手に握られていて、その天女のような雲が、流麗に舞うように流れて行くという、何とも、ロマンに充ち溢れた、美しい一篇の叙情詩のようなのである。ここにおいては、全く、戦争などとは関係ない、丁度、五十五歳の、未知なるものに挑戦する、画人・龍子の一大絵巻物の展開のような趣なのである。
 さらに、この雲のような天女の一体、一体を見て行くと、あろうことか、明治期の大画家・狩野芳崖の「悲母観音」の、その「慈母」・「悲母」の雰囲気すら漂わせている。とするならば、これは、まさしく、龍子の母の、「慈悲に充ちた、悲しくも、けなげな」、その母のイメージをも宿しているのではなかろうか。と同時に、龍子の母の対局にあった、茅舎の母の、これまた、「慈悲に充ちた・悲しくも、けなげな」、その母のイメージをも宿しているのではなかろうか。
 茅舎の母も、そして、龍子の母も、龍子がこれらの大作にかかる前の、昭和三年(一九二八)から昭和五年(一九三〇)にかけて他界している。そして、龍子と茅舎の父も、昭和八年(一九三三)に他界して、その父が没した年に、「大陸策連作」の前提となる「太平洋連作(第一作・「竜巻」、第二作「波切不動」、第三作「椰子の篝火」、第四作「海洋を制するもの)」に取り掛かっているの。そして、それらの、全てのその総仕上げの「大陸策連作の第四作」が、この「花摘雲」ということになろう。
 龍子の、かれこれ八年に及ぶ、これらの「太平洋連作」・「大陸策連作」の、これらの途轍もない偉業を、病身の異母弟の、俳人・茅舎も、その身辺にあって、陰に陽に、その全てを垣間見ていることであろう。
 そして、茅舎もまた、龍子のこれら八年に及ぶ間に、「ホトトギス」派の代表的な俳人として名を成して来るのである。

 ○ 花を手に浄光菩薩しぐれけり    (昭和八年)
 ○ 滝行者真言胸にしかと抱き     (昭和九年)
 ○ 笹鳴や茨の棘の真紅(まくれない) (昭和十年)
 ○ 月光に深雪の創(きず)のかくれなし(昭和十一年)
 ○ ぜんまいののの字ばかりの寂光土  (昭和十二年)
 ○ 青淵に砂にも白き落花かな     (昭和十三年)
 ○ 花杏受胎告知の翅音(はおと)びび (昭和十四年)
 ○ 柿を置き牧渓に神(しん)かよはする(昭和十五年)
 
 ここで、茅舎の異母兄の龍子もまた、これらの俳人・茅舎の、「茅舎浄土」ともいわれる俳句の世界について、陰に陽に、その全てを垣間見ているのではなかろうか。
 このような、龍子と茅舎との、龍子の「花摘雲」の周辺を探って来ると、この龍子の「花摘雲」には、茅舎の亡くなる年の、昭和十六年作の亡き母を追慕しての句、「たらちねのつまめばゆがむ草の餅」と同時の作と思われる、次の一句が、最も相応しいように思えて来るのである。

 ○ 草餅や御母(おんはは)マリヤ観世音 (昭和十六年)


(追記)狩野芳崖の「悲母観音」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1334927468

狩野芳崖の 「悲母観音」は明治21年(1888年)に芳崖が亡くなる直前まで描いていた作品です。
中国の明代の仏画を模範とし、西洋画の研究のあとを遺しています。(遠近空間が深い)
悲母観音は慈母観音と同じで、子供に対する母親の愛がこの作品のテーマです。

また、柳の枝を手にする観音は楊柳観音といい、病難救済を本願とします。
楊柳観音と善財童子という組み合わせの図も多いのですが
この悲母観音は、水瓶から浄水を落としており、それによって赤ちゃんの命が与えられ、地上に降りていくような図です。
これは芳崖の独創と言われています。

悲母観音(慈母観音)は中国で誕生した観音なので三十三(化身)観音のなかには数えられませんが、日本では広く流布し信仰されています。

この絵は日本美術を高く評価したフェノロサが、「聖母マリア図」に比肩する作品を描くように、芳崖に依頼した作品です。
完成後には岡倉天心が「近世にこの絵画に比べうる作品はない。過去の名画をはるかに超えている」と絶賛しました。


参考
古田亮「狩野芳崖・高橋由一 日本画も西洋画も帰する処は同一の処」ミネルヴァ書房 <ミネルヴァ日本評伝選>、2006年


(茅舎追想その十七)虚子・茅舎・龍子の「花鳥諷詠」

 茅舎の第二句集『華厳』は、昭和十四年(一九三句)、四十二歳のときに刊行された。この年は、龍子と茅舎の父の七回忌に当たる。言わば、この句集は、茅舎が亡き父に捧げたものとも解しても差し支えなかろう。
 この句集の「序」は、高浜虚子の夙に世に知られている「花鳥諷詠真骨頂漢」である。
虚子は、「花鳥諷詠」俳句の主唱者であり、そして、茅舎は、その「花鳥諷詠」の「真骨頂漢」(真の神髄を究めた俳人)だというのである。
 虚子の「花鳥諷詠」については、虚子自身、折りに触れて様々に言っているが、端的には、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)ということになろう。
 「花鳥」というのは、「花鳥風月」のことで、この「花鳥風月」が集体積されたものが、「季語・季題」であって、「俳句は花鳥風月(季語・季題)を諷詠する」こと、「諷詠」は「調子を整えて詠う」ことで、これらを要約すると、「俳句は花鳥諷詠詩」ということになる。
 ここから、「季語・季題重視」と「定型(五七五の調子を持つ十七音の俳句形式)重視」ということになる。
 川端茅舎は、この「花鳥諷詠」について、次のように述べている。

「俳句は花鳥を諷詠する以外の目的をば一切排撃することによつて、種々の雑多な目的を持つた他の芸術と毅然と対してゐる。又僕は斯様な啓蒙めく言葉を繰返して置きたい。/然し、時代の問題へ驀地(まっしぐら)に突進する事が勿論勇気を要する如く、花鳥を諷詠する以外の目的を一切排撃する事も亦聊か勇猛な精進を要求する。それゆゑ何か意味ありげな目的の偶像を破壊し得ぬ人達は花鳥諷詠の律法に得堪へず頻々この陣営から遁走した。僕は虚子先生の平明な花鳥諷詠の説話の底に常々斯様な峻厳さを発見する。さうして花鳥諷詠の存在の意義を確かにする。(「花鳥巡礼」第二回 「ホトトギス」昭和九年一月)

 茅舎の俳句が、「花鳥諷詠真骨頂漢」なのかどうか、これは、虚子の「ホトトギス」俳句との関連で、「茅舎の俳句が、『ホトトギス』俳句の、一つの目指す俳句」だと、虚子が考えているということにも換言できよう。
 そして、このことは、茅舎が登場する以前の、水原秋桜子が、「ホトトギス」派、即ち、「花鳥諷詠詩」のエースであったのだが、秋桜子が、脱「虚子・ホトトギス」して、その秋桜子に替わるエースが、茅舎であるということにもなろう。
 この茅舎が亡くなると、茅舎に替わって、「曩(さき)に茅舎を失ひ今朱鳥(注:野見山朱鳥)を得た」(野見山朱鳥の第一句集『曼珠沙華』「序」)と野見山朱鳥が登場して来る。
 この野見山朱鳥が、大の茅舎俳句の崇拝者で、後に、『川端茅舎の俳句』(昭和四十四年)を公刊している。しかし、朱鳥は、虚子の「花鳥諷詠詩」から「生命諷詠詩」という新しい世界を樹立していくことになる。
 虚子にとって、「花鳥諷詠」は、その悟道の「極楽の文学」のお題目であると共に、「ホトトギス」という組織を束ねていくための教典でもあった。

○ 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀    虚子

 それに比して、虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」とのお墨付きを頂戴した茅舎は、「花鳥を諷詠する以外の目的を一切排撃する事も亦聊か勇猛な精進を要求する」と、虚子の「花鳥諷詠」に基本を置きつつ、その虚子の「花鳥」(季語・季題)をより内面的な「季題・季語の深化」(それは朱鳥の「生命諷詠詩」の「生命」に近い)を図り、その虚子の「諷詠」をより自覚的に「諷詠詩」(朱鳥の「生命諷詠詩」の「諷詠詩」は茅舎により多く起因している)として、虚子の「花鳥諷詠」とは別次元の世界の飛翔をも匂わせったのであった。

○ 涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩    茅舎

 虚子は、「花鳥諷詠南無阿弥陀」とお題目を唱えるが、茅舎は、「花鳥諷詠」はお題目ではないのだ。「自分の心・魂」を詠むための「花鳥諷詠詩」なのである。涅槃会に際しても、お題目は唱えない。ただひたすら、「自分の心・魂」を詠出するための「花鳥諷詠詩」を吟じるのである。

 龍子の昭和二十九年(一九五四)作に、「花鳥諷詠」と題する絹本着色一面ものがある。
その解説記事(『現代日本の美術 川端龍子(村瀬雅夫稿)』)の全文は次のとおりである。

[俳人虚子像 一見和紙に水墨風の軽やかな画面だが、絹に描かれている。絹地の上に、自在に線描をふるえる画技の持主は近代日本画人ではむろん、過去の大家にもまれである。梅にウグイス、らんまんの春、黒アゲハに青梅の実る夏、黄ばむ山鳩の秋、雪の枝に雀の冬、四季のうつろいに想をよせる句境が梅の一樹にやさしく広げられる。龍子が国民新聞社に入社した明治の末年、虚子は学芸部長。虚子のもとで新人として新聞の仕事を受け持ち、感化も受けた。社会面に記事を漫画化した挿絵を龍子は毎日描き、ユニークなこの方式は当時の新聞の新企画と評判を集めた。明治四四年七月に、過去一年分を集録した『漫画・東京日記』が本になった。その序文も虚子が書いた。後、俳句雑誌の『ホトトギス』の表紙を一四年間担当、戦後にホトトギス同人になり、堅山南風、奥村土牛氏などと句会も催した。題名は虚子の信条「花鳥諷詠」をそのまま象徴させた。]

 この龍子の「花鳥諷詠」も、また、その解説記事(村瀬雅夫稿)も、非常に示唆に富んでいて面白い。
 まず、その龍子画の「花鳥諷詠」では、そのバックに、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象」(『虚子句集』)が、「梅の花にウグイス(春)、青梅に黒アゲハ(夏)、黄ばむ梅の葉と山鳩(秋)、梅の枝に雪と雀(冬)」と全部描かれている。そして、そこに、
「四季のうつろいに想をよせる」(村瀬雅夫稿)ところの一人の人物、これが高浜虚子なのである。
 虚子の「花鳥諷詠」は、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」の、その「人事界の現象を諷詠する」ことにおいて、「自然界の現象を諷詠する」ことが「主」とすると、「従」となることは、その特色でもあるし、また、それが限界となっていることは、誰しも、素直に肯定することが出来るところのものであろう。
 まさに、虚子の「花鳥諷詠」は、この龍子画のとおりのものと言っても、それほど誇張したものではなかろう。
 そして、この龍子画の解説記事で、日本俳壇の巨匠・高浜虚子と日本画壇の巨匠・川端龍子は、国民新聞社(読売新聞)で、「上司(虚子)と部下(龍子)」との関係にあり、龍子が社会人としてスタートする時点の頃(明治四十一年、龍子・二十三歳、虚子・三十五歳)からの付き合いだったということなのである。
 ともすると、俳人・高浜虚子と俳人・川端茅舎との二者の関係で論じたり見られたりもするが、そこに、画人・川端龍子をも加味して、この三者の関係で見ていくと、新しい「虚子像」、「新しい茅舎像」、そして、新しい「龍子像」が浮かび上がってくるのが、何とも興味深いのである。


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