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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

誰も書かなかった台湾

2013年01月06日 | エッセー
 この本は、鈴木 明が「男性天国」の名に隠された真実と副題をつけて、1974年に出版したルポルタージュである。

 鈴木氏は最終章で「高雄で逢った少女」と題して台湾の思い出を書いている。その少女とは高雄の港町の屋台で出逢ったという。

 その少女を通して台湾を知り、忘れられない思い出をつくったのであろうが、はやい話が、台湾についてこのような本を書くにいたった動機がその少女にあったと思う。

 おそらく鈴木氏は日本では考えられないような安い金銭でその少女を買ったのであろうが、買った本人は、不覚にもその少女に恋をしてしまったのだ。
 
 日本人と同じ顔かたちの少女には、日本人が失くしてしまったような素朴さや純真さがあり、一夜を共にした18歳の少女の笑顔をみて、その少女の住む国に大いに興をそそられたのだと思う。

 その当時は、このような出合いは少なからずあったようで、私の知り合いがタイに行った時、チェンマイのホテルで寝食を共にした少女をいたく気に入り、嫁さんにするために日本へ連れて帰ろうかと真剣に考えたほどだったという。

 まさか鈴木氏がその少女を日本へ帰るほど若くはなかったと思うが、台湾のために何かをしてあげたいという強い欲求をもったに違いない。

 鈴木氏は帰国後、その少女に手紙を出したが、返事はなかったという。少女にしてみれば、自分の体を通り過ぎたたくさんの日本人のうちの一人でしかなかったはずだ。

 鈴木氏の恋心は、なおおさまらず、1年後くらいだろうか、高雄のその少女を訪ねている。しかし、少女は台北に行ったとかでそこにはいなかったという。

 出逢いは金であったにしても、鈴木 明がその少女に抱いた恋心は、少女以上に純真なものになったいたのだろう。その少女との交流から生まれた愛情と、そしてそれを失った寂寞感が「誰も書かなかった台湾」という一文に結実したのだと思う。

 高雄の街は、きれいで近代的な街に変貌を遂げていますが、その街の中央を流れる東京の墨田川のような大きな川の名前が「愛河」というのは、何ともロマンチックではないでしょうか。

 鈴木さん、お疲れさまでした。                      以上

水滸伝

2012年12月30日 | エッセー
一か月ほどかかって水滸伝を読み終えた。
以前、読もうとしたことがあったが、「林冲」が登場した部分くらいで中断しており、
その後、その先がどうなっているのか気になっていた。

こうして読み終えてみると、その内容の豊富さは群を抜いており、
一人の人間が書いたとは思えないが、事実、宋から明の時代、200年くらいかけて
つくられた芝居やエピソードをまとめ上げた長編小説のようだ。

物語の大雑把な流れはこうだ。
梁山泊に集まった108人の好漢たちは、宋の正規軍の攻撃を何度も撃退する。
やがて、宋の皇帝は梁山泊の攻撃を諦めて、梁山泊の山賊を宋の正規軍として認めてしまう。

その条件として、北方から宋を侵略する異民族の「遼」を撃退することを命令する。
領袖の「宋江」以下108人の好漢は従軍して、遼を撃退する。
しかし、そのあとに南方に生じた反乱を撃退する長征で、仲間のほとんどが討ち死にする。

残った梁山泊の仲間はばらばらになってしまい、
やがて「宋江」は宋の皇帝の取り巻きグループの策略にかかって、毒殺される。

宋江はその陰謀を知ったが、反抗して朝敵となり汚名を末代までも残すことを嫌い、
朝廷に反抗すること断念する。

その際、梁山泊随一の暴れん坊の「李逵」を道ずれにして、静かに死んでいく。
李逵が宋江の死を知って激怒し、皇帝に反抗することを恐れたためであった。

そのほか主だった好漢の最後を記しておこう。

梁山泊最強の武将「林沖」は、風病(おこりのような病)により全身不随になり死去。

残酷無比の僧侶「魯智深」は座禅したまま、円寂。生き仏になってしまう。

一見ニューハーフを思わせるような「燕青」は、栄華を求めず、山野に退去して一閑人として生きる。私にはこの「燕青」が大変に魅力的な好漢(おとこ)に思える。

梁山泊ナンバー2であり、文武両道の「蘆俊義」は姦計により毒殺される。

諸葛孔明を思わせる軍師の「呉用」、弓の名人「花栄」は、宋江を慕って殉死。

波乱万丈の好漢たちの物語は、このようにして完結します。         
                                   以上

映画「鉄道員」

2012年11月26日 | エッセー
NHKBSの映画「鉄道員」を観てやさしい気持ちになった。

名作といわれるこの古い映画は、何度かみているはずだが、
細かいところはほとんど覚えてないので新鮮な気がした。

見ていてやさしい気持ちになった理由を考えてみたが、うまく説明できない。
ストーリーは鉄道員の父親と子供たちが、それぞれの主張をしてぶつかり合い喧嘩をする。
それをみている幼い弟が、仲直りをすればいいのにと思いながら悲しい気持でいる。

かわいいその男の子を観ていて、ハッとひらめいた。
観客の気持ちはその男の子の気持であると思った。
つまらないことで喧嘩などしないで、仲良く暮らせばいいのにというわけだ。

そう考えると、自分の現実の生活のことを考え、
つまらないことで子供をつよく叱らなければよかった反省していると、
自分自身、やさしい気持ちに包まれていることを感じた。

クリスマスイブの夜は、友人たちが集まり、笑い声の中でパーティーが開かれ、
家族が仲直りして、目頭が熱くなった。

その晩、父は奥さんに「昔のように、きれいだよ。」とやさしい言葉をかけ、
幸せな気持ちで鉄道員の父は逝く。

最近あまり映画を見なくなったけど、
昔の映画にはいい作品がたくさんある。   

龍穴:日月潭の龍脈

2012年10月15日 | エッセー
 「日月潭に消えた故郷」という本を読みました。著者は坂野徳隆氏、台湾の少数民族の歴史や生活をあつかったルポルタージュです。この本を読んでいて気になったのが「風水」のことでした。タイトルにした「龍穴」はこの風水における特別な場所のことです。

 坂野氏は、日月潭を見下ろす湖畔にたつ文武廟を訪ねた時のことを書いています。文武廟とは孔子や関羽などを祭っている日本の神社のような場所です。その文武廟から湖に向かって下り林の抜けていくと、蒋介石の聖地という場所に出るといいます。そこは「中正広場」になっており日月潭を見渡すように蒋介石の像がたっているといいます。

 そのあたりを歩いていると、坂野氏の本からそのまま引用すれば、「今まで感じたことのない、手先がビリビリと痺れるような感覚に気がついた。」というのです。そのまま湖畔の松林を歩いて行くと、「はじめて感じる形容しがたい心地よい感覚と時間が飽和したような幸福な静寂につつまれていた。」という体験をしたといいます。

 つまり、そこが正に台湾の龍穴だというのです。風水学においては繁栄の源になる大きな運気の流れが「龍脈」であり、それは山脈を伝わって動き、地上に流れ出る特別な場所が「龍穴」だという。台湾の中央山脈には三千㍍を超す高山が連なっていますが、九つの龍脈がそこを南から北へ循環しているという。日月潭は台湾の中央にあり「龍気」が集まる地点なのだという。

 これを読んだ感想を率直にいえば、「本当かな?」という気持である。日月潭の文武廟には二度行っています。高台にある廟からの日月潭は確かにすばらしい。そこをちょっと下れば蒋介石の像のある「龍穴」近くに行けたので、今から考えると少し惜しい気がしていますが、しかし、本当に手がビリビリするような感覚に誰もがなるのでしょうか。

 坂野氏は、自分はけっして霊感が強い体質ではないとことわり、さらにその体験を聞いた知人がそこを訪ねると、同じような感覚を得たというのを聞いて唖然としたいう。

 気というものが存在することをけっして疑わないが、そのような大きな気の流れを誰もが感じられる場所が本当に存在するのであろうか。

 来春にはまた台湾行きを計画しているので、この「龍穴」の話が真実か否か確認してこようと思います。

台湾の中央山脈

2012年10月03日 | エッセー
台湾を南北にはしる中央山脈は、日本のアルプス山脈などよりはるかに雄大です。

富士山より高い玉山(3997m)をはじめとして、標高三千メートルを超える山が256峰あるのは驚きです。ちなみに、日本は三千メートルを超える山は21峰ですから、九州と同じ位の面積の台湾の山脈の規模の大きさが想像できます。

今年の夏、この中央山脈を縦断しました。
東西縦貫道路で東海岸の花蓮から埔里へ抜けるルートで、もちろん車です。

まず太魯閣峡谷から山へ登り始めました。舗装されており日光のいろは坂のような山岳道路です。2000mを超えるころからすこし道幅が狭くなったようですが、なかなか面白い行程です。途中、台中市に向かうわかれ道を過ぎて、埔里方面を目指します。

合歓山で小休止、駐車地点の標高は3150m、合歓山主峰は3416mです。冬は、雪も降り、台湾軍はここで雪訓をするそうです。駐車場のそばに登山者用の宿泊施設の合歓山荘があります。

そこから登山道が整備されていて楽に登れる石門山にのぼりました。駐車場から石門山頂上までは標高差が80mであり、30分くらいで山頂に登れました。乳飲み子を胸に抱いて山頂から下りてくる若いカップルがいるくらいなので、ほとんどハイキング感覚です。石門山は3237m、これまでに登った山の最高記録です。

雲を下に見て眺めは最高、晴れていれば、最高峰の玉山も見ることができるようです。緑の山肌や点在する池塘でスイスの山岳地帯のようです。また、霧が多いようで晴れていたかと思うと、あっという間に雲海で何も見えなくなり、それもつかの間、また日差しがもどり絶景が浮かび上がります。

そこを過ぎて東西縦貫道路の「武嶺」で車を降りました。標高は3275m、台湾で車で行ける最も標高の高い地点です。歩かずにこんな高山に登れてしまうのだから大変なものです。

宿泊は、青境農場という牧場より少し標高の高い地点にある民宿に泊まりました。民宿とはいっても日本の民宿とは違い、ホテルそのもので、そこにはSPA施設もあり水着で入浴も楽しめました。

翌日は青境農場で牧羊犬のショウを見た後、さらに下りはじめます。こんな山道なのに自転車で登頂を目指す若者が多いのに驚きました。若い学生風の女子に、チャーヨー(加油:頑張れの意味)と声をかけると、照れくさそうにこちらを見て笑っていました。台湾の若者は、やる気がありますね。さらに下り「霧社」という地点を通り過ぎ、埔里に到着です。

また行きたいルートです。