この本は、鈴木 明が「男性天国」の名に隠された真実と副題をつけて、1974年に出版したルポルタージュである。
鈴木氏は最終章で「高雄で逢った少女」と題して台湾の思い出を書いている。その少女とは高雄の港町の屋台で出逢ったという。
その少女を通して台湾を知り、忘れられない思い出をつくったのであろうが、はやい話が、台湾についてこのような本を書くにいたった動機がその少女にあったと思う。
おそらく鈴木氏は日本では考えられないような安い金銭でその少女を買ったのであろうが、買った本人は、不覚にもその少女に恋をしてしまったのだ。
日本人と同じ顔かたちの少女には、日本人が失くしてしまったような素朴さや純真さがあり、一夜を共にした18歳の少女の笑顔をみて、その少女の住む国に大いに興をそそられたのだと思う。
その当時は、このような出合いは少なからずあったようで、私の知り合いがタイに行った時、チェンマイのホテルで寝食を共にした少女をいたく気に入り、嫁さんにするために日本へ連れて帰ろうかと真剣に考えたほどだったという。
まさか鈴木氏がその少女を日本へ帰るほど若くはなかったと思うが、台湾のために何かをしてあげたいという強い欲求をもったに違いない。
鈴木氏は帰国後、その少女に手紙を出したが、返事はなかったという。少女にしてみれば、自分の体を通り過ぎたたくさんの日本人のうちの一人でしかなかったはずだ。
鈴木氏の恋心は、なおおさまらず、1年後くらいだろうか、高雄のその少女を訪ねている。しかし、少女は台北に行ったとかでそこにはいなかったという。
出逢いは金であったにしても、鈴木 明がその少女に抱いた恋心は、少女以上に純真なものになったいたのだろう。その少女との交流から生まれた愛情と、そしてそれを失った寂寞感が「誰も書かなかった台湾」という一文に結実したのだと思う。
高雄の街は、きれいで近代的な街に変貌を遂げていますが、その街の中央を流れる東京の墨田川のような大きな川の名前が「愛河」というのは、何ともロマンチックではないでしょうか。
鈴木さん、お疲れさまでした。 以上
鈴木氏は最終章で「高雄で逢った少女」と題して台湾の思い出を書いている。その少女とは高雄の港町の屋台で出逢ったという。
その少女を通して台湾を知り、忘れられない思い出をつくったのであろうが、はやい話が、台湾についてこのような本を書くにいたった動機がその少女にあったと思う。
おそらく鈴木氏は日本では考えられないような安い金銭でその少女を買ったのであろうが、買った本人は、不覚にもその少女に恋をしてしまったのだ。
日本人と同じ顔かたちの少女には、日本人が失くしてしまったような素朴さや純真さがあり、一夜を共にした18歳の少女の笑顔をみて、その少女の住む国に大いに興をそそられたのだと思う。
その当時は、このような出合いは少なからずあったようで、私の知り合いがタイに行った時、チェンマイのホテルで寝食を共にした少女をいたく気に入り、嫁さんにするために日本へ連れて帰ろうかと真剣に考えたほどだったという。
まさか鈴木氏がその少女を日本へ帰るほど若くはなかったと思うが、台湾のために何かをしてあげたいという強い欲求をもったに違いない。
鈴木氏は帰国後、その少女に手紙を出したが、返事はなかったという。少女にしてみれば、自分の体を通り過ぎたたくさんの日本人のうちの一人でしかなかったはずだ。
鈴木氏の恋心は、なおおさまらず、1年後くらいだろうか、高雄のその少女を訪ねている。しかし、少女は台北に行ったとかでそこにはいなかったという。
出逢いは金であったにしても、鈴木 明がその少女に抱いた恋心は、少女以上に純真なものになったいたのだろう。その少女との交流から生まれた愛情と、そしてそれを失った寂寞感が「誰も書かなかった台湾」という一文に結実したのだと思う。
高雄の街は、きれいで近代的な街に変貌を遂げていますが、その街の中央を流れる東京の墨田川のような大きな川の名前が「愛河」というのは、何ともロマンチックではないでしょうか。
鈴木さん、お疲れさまでした。 以上