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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

霧社事件(2)

2013年06月08日 | 歴史

 なぜ、セデック族が蜂起したかについては、日本統治時代の山地行政、つまり未開の土地に暮らす原住民の取り扱いについての背景を知らなければならない。

 まず大きな歴史の流れからいえば、17世紀はじめ頃、異民族の満州族に追われた漢人が大陸から台湾に入植するようになる。鄭成功がオランダ人を台湾から追い払った頃のことだ。文明化された漢人の流入により、未開の原住民は山地に追いやられる。何千年も住み続けてきた祖先の土地が、少しずつ漢人により奪い取られてきたわけである。

 1895年、日清戦争後の下関条約により、台湾は日本に割譲され、日本の植民地としての時代が始まる。それまでは、原住民は山地に追いやられてはいたが、漢人との住み分けはできており、それなりの自主的な生活はできていたが、日本統治時代が始まると、原住民の自治はなくなり、何をするにも日本人の命令のもとでしか行えなくなった。日本は植民地経営として、山林資源を重要視し、大規模な開発を始める。交通を円滑するために鉄道や道路を整備し、西から中央山脈を超えて太平洋に達する東西横断道路の建設などをはじめた。

 この時、現住民を指揮命令するのは、台湾総督府の出先機関である警察官であった。いたるところに駐在所を置き、植民地経営を円滑にするために原住民を統治した。野蛮な「首狩り」の風習は厳禁し、銃などの武器は取り上げ、狩猟で使うときは警察の許可が必要であった。そ代わりに、小学校や病院をつくり、また日本語という共通語を与えて、彼らの生活を文化的なものにした。大ざっぱにいえば、植民地経営という目的のもとではあったが、台湾を模範的な国にするために日本人は大いに努力したといえる。

 さて、事件の原因だが、その第一は原住民を人間としてみなかったからだろう。当時は、原住民を蕃人と呼び、動物に近い劣った存在と見ていた。蕃人の中で、文明化したものは「熟蕃」と呼び、一方昔からの狩猟生活中心の原住民を「生蕃」と呼んだ。山奥で生活していたのは、この「生蕃」であり、首狩りの風習などをもっていたので、人間らしい道徳などはもち合わせていないと考え、動物並みに扱ったからだった。

 蛇足になるが、原住民には道徳などがないという判断は間違いであり、原住民は宗教、道徳などをもち、文明人とかわらない規律をもっていた。ちなみに、「首狩り」は、原住民の宗教行事であり、日本人が何かの願い事をするとき、滝にうたれたり、髪を切ったりすることと同じなのだ。ただし、文明人には、受け入れられない風習ではあるが。

 つぎは警察官の質の問題であろう。警察官は、台湾総督府の名のもとに、行政権と司法権をもち原住民を酷使した。山地における絶対的な権力者で、すべてを取り仕切り、道路や建物の建設を実行した。正義感のある警察官が多かったが、なかには、日本でまともな仕事ができない男が、台湾で一旗揚げようと巡査になり、私利を肥やして不正をはたらく者もいたようで、原住民の反感をかった。

 山地行政について、具体的な例でいえば、駐在所を建設するために、出役義務を課し、山奥から材木を切り出して、運び出させる。切り出した木材は、引きずることを許さず、肩に担がせたため、峻険な山道では命をかけるような労役になった。理由なく休めば、暴力をふるい牢屋に閉じ込めたため、声にならない憎しみが生まれた。

 警察官はよく原住民を殴ったようである。何かにつけて殴る。規則を破ったとか、命令に従わなかったとかで、大人でも子供でも無差別に殴る。すべての警察官がそうであったわけではないが、霧社には原住民を人間扱いしない暴力主義の警察官が多かったようである。このことが、原住民の自尊心を傷つけた。

 さらに、出役義務に対して、わずかな日当を支払うが、警官はその日当をピンはねして全額を渡さないとか、支払いを遅らせるなどの不正するが、それを咎めることができない。このような行為に対する恨みがつもり積もっていた。

 もう一つは、女性問題があった。この当時、赴任した巡査は原住民のリーダーの娘などと結婚することがよく行われた。いわゆる「現地妻」だが、原住民を支配する方法としては効果があった。台湾総督府もそれを暗に奨励し、3年くらい一緒にいれば、後は別かれるなり、捨てるなり、好きにしてよいというような態度であったらしい。

 この方針により、リーダー「モーナ・ルダオ」の妹「テワス・ルダオ」は日本人の巡査と結婚をした。彼の名は「近藤儀三郎」、彼はその後花蓮に転勤になったが、理由もなく行方をくらましてしまう。捨てられたテワス・ルダオは村に戻ったが、兄のモーナ・ルダオは、自分の妹を捨てた官憲に恨みをもった。

 このような警察官の不正と横暴に、原住民の怒りが爆発したのが「霧社事件」であった。

以上


霧社事件(1)

2013年06月06日 | 歴史

 台湾原住民を理解するうえで忘れてはならない事件だ。霧社は(ムシャ、北京語ではウサ)と呼び、山地原住民の居住地を意味する。所在地は、台中県仁愛郷、標高1,100mくらいの山地であり、名前の通り「霧」が多い。

 日本統治時代、入植した日本人がそこに町をつくり、食料品や雑貨などの店のほか、郵便局や駐在所などがならび、小学校などもできていた。埔里から来れば、途中までは軽便鉄道を利用できたが、そこを過ぎれば、険しい山道であり霧社に辿りつくにはたいへんな道のりであった。

 事件は1930年(昭和5年)10月27日の朝、公学校で起きた。公学校とは、現地人の子供たちが通う小学校のことである。その日は秋の運動会、日本人のほかに原住民の子供やその家族が集まっていた。そこへ突然蜂起原住民約300名が襲いかかり、日本人だけを標的にして、あっという間に男女年齢を問わず、104人の日本人の首を斬ってしまった。襲ったのは。セデック族、タイヤル族の流れをくむが、言語などが違い、独立した民族ともいえるようだ。

 日本は報復として、襲撃に参加した原住民の徹底的なせん滅作戦で応じた。警察のほかに、軍隊が参戦し、航空機による爆撃や毒ガスなども使用した。セデック族の戦死者は、おおよそ160名、自殺者、140名、その他蜂起した原住民の家族など、数百名の行方不明者がいたという。事件の首謀者は「モーナ・ルダオ」、セデック族のリーダーでもあるが、事件後、日本軍の反撃が始まると、一人で山奥に分け入り自殺している。

 2013年3月の下旬に霧社を訪れたが、事件のあった公学校は、今は台湾電力公司の管理所になっており、敷地内の桜は散っていた。この桜は、「霧社の緋桜」といい、この地方特有の種で、赤みがかった花びらをもつという。事件で生き残ったセデック族のピホワリスは、「霧社緋桜狂い咲き」という本を出版して、事件の記録を残している。

 霧社公学校の跡地をを見た後、事件で亡くなった日本人の慰霊碑を探してみた。さして広くない地域なので、すぐに見つけられたが、慰霊碑の周辺は荒れ放題、雑草が生い茂り、空き缶などのゴミが捨てられており、慰霊碑のすぐ前には、犬のような動物の頭蓋骨があった。植民地時代は、清掃されていたと思うし、弔問に訪れる人達も多かったに違いないが、今は、時折わたし達のような日本人が訪問するくらいのようだ。

 気になったのは、日本人慰霊碑のすぐ側には、「仁愛郷清潔隊」という管理事務所があり、数人の事務職員が働いていた。慰霊碑はその事務所の庭のような場所に立っているのに、掃除くらいしないのだろうかと思ったことだ。しかし、彼らが清潔にすべき場所は、山地原住民の居住地であり、日本人に反抗して立ちあがったセデック族の慰霊碑であり、そのリーダーである「モーナ・ルダオ」の墓であるらしく、日本人慰霊碑を清掃する気は全くないようだった。

 しかし、それを責めることはできないだろう。なぜなら、中華民国に復帰した後は、漢人も原住民もすべて中華民国の国民になったわけだし、かつての敵国人の墓を清掃でもしたら、それこそ「漢奸」とでも言われかねないからだ。しかし、心底日本人が嫌いで掃除すらしないわけではないことは、台湾を知る人には理解できることであり、管理事務所で働く人の気持ちは複雑であろう。というのも、そこは歴史的な事件があった場所ではあるが、現在は風光明媚な観光地でもある。避暑に訪れた人達が、空き缶などのゴミだらけの慰霊碑を見てよい印象をもたないことは充分感じていることだろう。

 では、なぜこの事件が起きたのか。事件の生き残った人達の記録を読んでいくうちに、原住民についての興味深い事実がわかってきた。

 (続)

 


台湾原住民(首狩り)

2013年01月19日 | 歴史
台湾原住民はどのような目的で首狩りを行ったのだろうか?

 そのこたえは「台湾蕃族風俗誌」という明治時代に出版された本の中にある。著者の「鈴木 質」は、植民地時代の台北に住んでおり、原住民の生活や習慣などを研究している。その本によれば首狩りの目的はつぎのように説明されている。

 首狩りは宗教的行事であり、まず吉凶を判断するときに行うとある。たとえば、新しい開拓した土地での農作業が豊作か否かを占うためとか、また流行性感冒で多くの死者が出たような場合、それは祖霊の怒りのためと考え、その怒りを鎮めるために行う場合などもある。また、一人前の男と認められるために行うこともあるし、ある女性と結婚を望んで張り合う男がいる場合、はやく首を獲った者がその女を得るというようなこともあるらしい。

 首狩りは、数人がグループになり、綿密な計画をたてて行うこともあれば、単独で行うこともあるという。馘首する首は、異民族とか敵対者であり、その行為は単純で、縁もゆかりもない人を襲う。恨みや強奪が目的ではないので、何の防備もない第三者、たとえば旅人や女性などを狙うのを得策とし、多くの場合、被害者は蕃人とはまったく面識のない人が多いという。首狩りに成功すると、蕃人は山地の動物のように、一目散に山奥に姿を消してしまう。

 首狩りは文明人からみれば、人道上許すことのできない残忍な行為だが、山地原住民にとっては祖先の遺風であり、かつ至上の道徳として神聖視し、無上の栄光と信じているという。

「出草」とは、首狩りの別語であり、首狩りという言葉は現在でも通用する言葉だが、この「出草」だけは、「生蕃の首狩り」以外には使われないと、「台湾蕃人風俗誌」に書かれている。

 パイワン族は「首狩り」に成功し、凱旋して社(蕃人の村をこう呼ぶ)に帰り、酒宴で歌う歌は、「首を獲られた汝の両親は鳶にヒナをさらわれた雌のごとく、心配しているだろう。汝が馘首されたのは不運として諦めよ、わが社の名誉である。」として、犠牲者の家族を思いやり、悲しむという細やかな感情をもつ場合もある。

 一方、首狩りの盛んなタイヤル像の場合は、馘首した首の口の中に食物を含ませ、ひもじさを感じさせないようにして、その家族をも呼び寄せて首狩りができるように願う。そこには犠牲者の家族を思いやる姿はない。部族により、首狩りに対する考え方は異なるようだ。  以上

台湾原住民(2)

2013年01月18日 | 歴史
 台湾の原住民は通常、熟蕃と生蕃の二つに分類されている。「熟蕃」とは、海岸地方に住み大陸から移住してきた漢人と融合し、文明化されている部族をいい、「生蕃」は、侵入者との混在を拒否し、山地で昔ながらの生活をしている部族のことういう。

 ここでとりあげるのは、この生蕃であり、日本が植民地政策をはじめた当初、頑強に抵抗した原住民のことである。

 生蕃である原住民の男子は七歳ころから、木登り、水泳、射撃、首狩り等の教育を受け、好戦的なタイヤル族などにおいては、先輩から戦いの武勇談を聞かされて育つという。

 首狩りの教育というのも物騒なはなしだが、原住民にとっては伝統の神事であり、私たち日本人が神社に行ってお賽銭をあげて願い事をするのとあまり変わりがない。

 この蕃人特有の「首狩り」の習慣を特に「出草」と呼ぶが、1895年にはじまる台湾の植民地政策をはじめたころ、現地の人々が恐れてのは、この生蕃による「出草」であった。

 ついでではあるが、出草で馘首した首をもちかえると、の女たちは狂喜して歓迎し、酒宴を開き勇士の武勇をほめたたえたという。男子は、異民族の首を獲ってはじめて一人前と認められるし、何個も馘首した男となれば、その名声は中に広まることになる。

 しかし、この「首狩り」の習慣は日本の領有以後は禁止され、熊や猪などを狩って満足するようになったが、首狩りの行為が全面的になくなるのには、かなりの年月を要している。   以上

台湾原住民

2013年01月17日 | 歴史
 昭和5年(1930年)、台湾中部の山岳地帯、霧社(現在は仁愛郷という)で日本人殺傷事件が起こった時、蕃人鎮圧のため作戦参謀として戦いの現場にいた台湾軍歩兵大佐の服部兵次郎は、蕃人の行動が日本人に似ているとの感想をもったことは前項で述べた。

 服部大佐が驚いたのはそれだけではなく、蜂起した原住民の強靭な体力についても報告している。事件後、司令部あてに提出した「霧社事件について」という報告書のことばを借りれば、「蕃人の身長は左程偉大というほどではないが、筋肉の締まった、比較的手足の長い、丁度ランニングの選手のような体格であった。」という。

 日常、彼等は裸足で生活しているが、足の裏の強靭なことは靴の裏と同じであり、葦の鋭い刈株を自由に踏んで走りまわるのはもちろん、有刺鉄線の鉄条網を平気で踏み越えることができたという。また、足の親指は内側に彎曲していて、斜面を踏ん張るのに適していたという。

 あるとき、日本軍の将校が高さ50メートルほどの削ったような岩壁を指さして、あれを登った者には「酒一升」あげようと冗談半分に言ったところ、即座に数名の男が猿のごとくすらすらと上まで登ってしまい、なみいる日本兵を驚かせたという笑い話まで報告している。

 この身体能力に関しての話だが、台湾ではじめて野球をやったのは、アミ族であり1923年(大正12年)ことであったという。花蓮港の丘にある花岡山グラウンドでアミ族を中心にした少年チームと地元の日本チームが対戦したが、アミ族エースの好投によりアミ族チームが勝ったという。

 さらに、このチームのメンバーが中心になり「能高団」という野球チームを結成、1925年日本遠征をしているという。日本各地を転戦して、なかなかの戦績を残したようであり、当時の朝日新聞は、訓練された立派なチームであり、あなどりがたい実力をもっていると評価した。
 
 この伝統は現在も受け継がれているようで、プロ野球の中日ドラゴンズで活躍した「郭源治」やローマオリンピックの十種競技で銀メダルを獲得したアジアの鉄人「楊伝広」は台湾原住民であり、二人ともアミ族出身であった。台湾原住民の驚異的な身体能力は現在も生きている。  以上