なぜ、セデック族が蜂起したかについては、日本統治時代の山地行政、つまり未開の土地に暮らす原住民の取り扱いについての背景を知らなければならない。
まず大きな歴史の流れからいえば、17世紀はじめ頃、異民族の満州族に追われた漢人が大陸から台湾に入植するようになる。鄭成功がオランダ人を台湾から追い払った頃のことだ。文明化された漢人の流入により、未開の原住民は山地に追いやられる。何千年も住み続けてきた祖先の土地が、少しずつ漢人により奪い取られてきたわけである。
1895年、日清戦争後の下関条約により、台湾は日本に割譲され、日本の植民地としての時代が始まる。それまでは、原住民は山地に追いやられてはいたが、漢人との住み分けはできており、それなりの自主的な生活はできていたが、日本統治時代が始まると、原住民の自治はなくなり、何をするにも日本人の命令のもとでしか行えなくなった。日本は植民地経営として、山林資源を重要視し、大規模な開発を始める。交通を円滑するために鉄道や道路を整備し、西から中央山脈を超えて太平洋に達する東西横断道路の建設などをはじめた。
この時、現住民を指揮命令するのは、台湾総督府の出先機関である警察官であった。いたるところに駐在所を置き、植民地経営を円滑にするために原住民を統治した。野蛮な「首狩り」の風習は厳禁し、銃などの武器は取り上げ、狩猟で使うときは警察の許可が必要であった。そ代わりに、小学校や病院をつくり、また日本語という共通語を与えて、彼らの生活を文化的なものにした。大ざっぱにいえば、植民地経営という目的のもとではあったが、台湾を模範的な国にするために日本人は大いに努力したといえる。
さて、事件の原因だが、その第一は原住民を人間としてみなかったからだろう。当時は、原住民を蕃人と呼び、動物に近い劣った存在と見ていた。蕃人の中で、文明化したものは「熟蕃」と呼び、一方昔からの狩猟生活中心の原住民を「生蕃」と呼んだ。山奥で生活していたのは、この「生蕃」であり、首狩りの風習などをもっていたので、人間らしい道徳などはもち合わせていないと考え、動物並みに扱ったからだった。
蛇足になるが、原住民には道徳などがないという判断は間違いであり、原住民は宗教、道徳などをもち、文明人とかわらない規律をもっていた。ちなみに、「首狩り」は、原住民の宗教行事であり、日本人が何かの願い事をするとき、滝にうたれたり、髪を切ったりすることと同じなのだ。ただし、文明人には、受け入れられない風習ではあるが。
つぎは警察官の質の問題であろう。警察官は、台湾総督府の名のもとに、行政権と司法権をもち原住民を酷使した。山地における絶対的な権力者で、すべてを取り仕切り、道路や建物の建設を実行した。正義感のある警察官が多かったが、なかには、日本でまともな仕事ができない男が、台湾で一旗揚げようと巡査になり、私利を肥やして不正をはたらく者もいたようで、原住民の反感をかった。
山地行政について、具体的な例でいえば、駐在所を建設するために、出役義務を課し、山奥から材木を切り出して、運び出させる。切り出した木材は、引きずることを許さず、肩に担がせたため、峻険な山道では命をかけるような労役になった。理由なく休めば、暴力をふるい牢屋に閉じ込めたため、声にならない憎しみが生まれた。
警察官はよく原住民を殴ったようである。何かにつけて殴る。規則を破ったとか、命令に従わなかったとかで、大人でも子供でも無差別に殴る。すべての警察官がそうであったわけではないが、霧社には原住民を人間扱いしない暴力主義の警察官が多かったようである。このことが、原住民の自尊心を傷つけた。
さらに、出役義務に対して、わずかな日当を支払うが、警官はその日当をピンはねして全額を渡さないとか、支払いを遅らせるなどの不正するが、それを咎めることができない。このような行為に対する恨みがつもり積もっていた。
もう一つは、女性問題があった。この当時、赴任した巡査は原住民のリーダーの娘などと結婚することがよく行われた。いわゆる「現地妻」だが、原住民を支配する方法としては効果があった。台湾総督府もそれを暗に奨励し、3年くらい一緒にいれば、後は別かれるなり、捨てるなり、好きにしてよいというような態度であったらしい。
この方針により、リーダー「モーナ・ルダオ」の妹「テワス・ルダオ」は日本人の巡査と結婚をした。彼の名は「近藤儀三郎」、彼はその後花蓮に転勤になったが、理由もなく行方をくらましてしまう。捨てられたテワス・ルダオは村に戻ったが、兄のモーナ・ルダオは、自分の妹を捨てた官憲に恨みをもった。
このような警察官の不正と横暴に、原住民の怒りが爆発したのが「霧社事件」であった。
以上