1920年 サラマオ事件後、
モーナルダオは自分の村の悲惨な状況を打破することを考えていたようだが、日本の軍事力を知っているので、うかつに反抗はできない。むしろ、蜂起を叫ぶ血気盛んな若者を抑えるような立場になっていた。
1925年(昭和元年 モーナ・ルダオ 43歳)、
林えいだい著の「民衆側の証言」によれば、モーナ・ルダオは、霧社に行くとき、遊びがてら、ピッコタウレの家によく立ち寄ったという。ピッコタウレは下山治平の現地妻で、4人の子供をもうけていることはすでに書いた。
ピッタコウレは、下山治平の妾であったが、治平は特別な愛情をもっていたようで、自分が日本に帰った後も、ピッコタウレと子供たちの生活が困らないように、生活費の面倒をみている。1914年生まれの長男下山 一(中国名 林光明)は、日本人とタイヤル族との混血になるが、台湾在住であり、存命とすれば、現在98歳くらいになる。
この頃、原住民の女性にとって、日本人と結婚することは、ステイタスシンボルになっていたようで、少し偉くなったような気がしたようである。ピッコタウレのように日本人と結婚した原住民女性は、日本髪を結い、和服を着て、もちろん日本語を話し、日本女性のように振る舞っていたという。
モーナ・ルダオがピッコタウレの家に行くと、出された塩鱒を肴にして米酒を飲み機嫌がよかったという。この時、夫の下山治平は日本に帰った後ではあったが、恐らくピッコタウレは、和服に日本髪を結っていたはずである。
モーナ・ルダオはセーダッカ族の昔話を語り、酔いに任せて、13歳の時に首狩りをしたことを自慢したという。サラマオ蕃討伐の時には、下山治平と一緒に参加し、逆襲されて額に傷負ったことなども話したという。
とはいっても、
タイヤル族同士を戦わせた日本のやり方を非難して、それは大きな間違いであると怒った時の目が忘れられないと、ピッコタウレが言ったという。
また、妹のテワス・ルダオを連れていくこともあったという。テワスもピッコタウレのように和服を着て、流暢な日本語を話したという。原住民の女性が和服を着て日本語を話している光景は、想像しにくいが、テワスのマヘボ社とピッコタウレのマレッパ社とは、同じタイヤル族だが、少し言葉が異なり、日本語の方が話しやすいとう状況もあったようである。
テワス・ルダオは夫の近藤儀三郎に捨てられて、失意のうちに生れ故郷の「マヘボ社」に戻り、壮丁と再婚していたが、モーナ・ルダオは近藤のやり方を非常に怒っていたという。
続