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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

モーナ・ルダオ(4)

2013年06月20日 | 歴史

 1920年 サラマオ事件後、

                                                                        

 

 モーナルダオは自分の村の悲惨な状況を打破することを考えていたようだが、日本の軍事力を知っているので、うかつに反抗はできない。むしろ、蜂起を叫ぶ血気盛んな若者を抑えるような立場になっていた。

 1925年(昭和元年 モーナ・ルダオ 43歳)、

  林えいだい著の「民衆側の証言」によれば、モーナ・ルダオは、霧社に行くとき、遊びがてら、ピッコタウレの家によく立ち寄ったという。ピッコタウレは下山治平の現地妻で、4人の子供をもうけていることはすでに書いた。

 ピッタコウレは、下山治平の妾であったが、治平は特別な愛情をもっていたようで、自分が日本に帰った後も、ピッコタウレと子供たちの生活が困らないように、生活費の面倒をみている。1914年生まれの長男下山 一(中国名 林光明)は、日本人とタイヤル族との混血になるが、台湾在住であり、存命とすれば、現在98歳くらいになる。

 この頃、原住民の女性にとって、日本人と結婚することは、ステイタスシンボルになっていたようで、少し偉くなったような気がしたようである。ピッコタウレのように日本人と結婚した原住民女性は、日本髪を結い、和服を着て、もちろん日本語を話し、日本女性のように振る舞っていたという。

 モーナ・ルダオがピッコタウレの家に行くと、出された塩鱒を肴にして米酒を飲み機嫌がよかったという。この時、夫の下山治平は日本に帰った後ではあったが、恐らくピッコタウレは、和服に日本髪を結っていたはずである。

 モーナ・ルダオはセーダッカ族の昔話を語り、酔いに任せて、13歳の時に首狩りをしたことを自慢したという。サラマオ蕃討伐の時には、下山治平と一緒に参加し、逆襲されて額に傷負ったことなども話したという。

とはいっても、 

 タイヤル族同士を戦わせた日本のやり方を非難して、それは大きな間違いであると怒った時の目が忘れられないと、ピッコタウレが言ったという。

 また、妹のテワス・ルダオを連れていくこともあったという。テワスもピッコタウレのように和服を着て、流暢な日本語を話したという。原住民の女性が和服を着て日本語を話している光景は、想像しにくいが、テワスのマヘボ社とピッコタウレのマレッパ社とは、同じタイヤル族だが、少し言葉が異なり、日本語の方が話しやすいとう状況もあったようである。

 テワス・ルダオは夫の近藤儀三郎に捨てられて、失意のうちに生れ故郷の「マヘボ社」に戻り、壮丁と再婚していたが、モーナ・ルダオは近藤のやり方を非常に怒っていたという。


モーナ・ルダオ(3)

2013年06月19日 | 歴史

 日本内地旅行をしたモーナ・ルダオのその後について。

                                           

 1920年(38歳)、「サラマオ事件」が起きている。原住民の反抗形態や日本軍の鎮圧したやり方が、霧社事件に似ている。

 サラマオ藩は、現在の台中県和平郷梨山にあった。梨山は台中から花蓮に抜ける東西横貫公路の中間点の山岳地帯で、山の斜面には果樹園が広がっていたという。その当時、梨山小さな街で、険しい山を行く人達にとっては、一息つける休憩地として栄えていた。現在は、「梨山賓館」という伝統的な中国様式の立派なホテルが建っているが、往時のような賑わいはなく、山間の静かな街という感じである。

 さて、アウイヘッパハが書いた「証言  霧社事件」によれば、1920年頃この地方にインフルエンザが流行、原住民から多数の死者がでて蕃情が悪化したという。原住民からすれば、このように多くの死者が出るのは、日本人が我々の土地に侵入して好き勝手なことをしているからであり、一刻も早く日本人を追い出せと、彼らの神「ウットフ」が怒っているということになる。

 この後、サラマオの藩人は、武装蜂起して、駐在所を襲撃、警部補の長久保栄左エ門以下、日本人19人を殺傷したというのが、「サラマオ事件」であった。

 サラマオ蕃が蜂起した時、当初モーナ・ルダオはサラマオと呼応して抗日蜂起をしようと計画したが、未然に発覚して、モーナ・ルダオは罪を問われそうになる。この時、日本は一計を案じて、モーナルダオを直接処罰しないで、サラマオ蕃討伐に加わるならば、その罪を免じようともちかけたらしい。このあたりの経緯は詳しい資料がないので不明だが、結局、モーナ・ルダオのマヘボ社は、日本軍と共にサラマオ討伐の奇襲隊として行動することに同意する。

 台中警部補の下山冶平は、サラマオ事件の討伐隊長として指揮をしている。下山冶平は、マレッパ族の頭目の娘「ピッコタウレ」を現地妻として4人の子供をもうけている。

  サラマオ事件については、「霧社の反乱 民衆側の証言」(林えいだい著)に詳しく書かれているが、息子の下山 一は、討伐成功後、父の治平が5個の首を下げて凱旋したのを見ている。女や子供の首もあり、首はあごの付け根から切り取り、麻縄で結んであり、半開きの目はどろんとして、思い出してもぞっとする光景だったという。

  モーナ・ルダオは、下山治平の指揮下でサラマオ討伐にあたり、戦闘のなかで逆襲され、額に傷を負ったという記述もある。

 「夷をもって夷を制す」という戦術は、山中の戦闘に優れた蕃人に対抗するには、同じ蕃人をもってするのを得策と考えたからだった。日本軍は蕃人を味方にするために、いろいろな便宜をあたえたりしたが、モーナ・ルダオの場合は、罪を免除するということで味方につけたようだ。

 このタイヤル族同士を戦わせるという戦術は、霧社事件が起きた時にも用いられ、モーナ・ルダオは同族サラマオ藩の首を切った報いを受けることになる。

サラマオ事件以後、モーナ・ルダオは要注意人物として、警察からマークされるようになる。

続                                        

 


モーナ・ルダオ(2)

2013年06月17日 | 歴史

  1910年(大正元年、モーナ・ルダオ 28歳)

                                                   

 この頃、時期は正確ではないが、日本は霧社一帯から、銃器を無条件で提出させ武装解除に成功している。ある意味では霧社は、蕃地政策の模範となったともいえるが、原住民からすれば、大事な武器を手放すことは屈辱であった。

 また、モーナ・ルダオは、それまで霧社蕃全体のリーダーであったホーゴ社のパワン・ノーカンの死後、彼に代わって、その後継者となった。

 武装解除に続いて、「出草(首狩りのこと)」を悪習として永遠に禁止し、また「どくろ架(さらし首を置いておく台)」を撤去させ、刺青を禁止した。

  1911年(29歳)、この年の4月、モーナ・ルダオは日本内地を旅行している。これは、台湾総督府が企画したもので、名目は観光であったが、その実体は台湾原住民の代表を日本に連れてゆき、日本の実力を誇示して、反抗心を失くさせようとしたものだった。

 この第1回日本内地旅行には、タイヤル、ブヌン、ツオウ、パイワンの4部族から13人が参加。訪問都市は、基隆港から、門司、神戸、名古屋、東京、横須賀、京都、大阪、広島、長崎など訪れている。モーナ・ルダオは「日本には、川原の砂のようにたくさんの人がいる」と感想を漏らしたという。大きな船や建物、それに軍隊、さらに人の多さなどを見て驚いたに違いない。参加した頭目は、天皇の意味を理解せず、部族の頭目と同じような存在と考えていたという。

 この時の内地旅行で4カ月ほど滞在したという。その間、日本女性を同伴させて、たいへん丁寧に取り扱ったという。モーナ・ルダオは、行く先々で出合う警官の態度がたいへん優しいことに感動したという。

 この内地旅行でモーナ・ルダオが得た実感は、自分たちの村が悲惨なのは、山地警官が悪いからであり、質の悪い警官を山にもってくる制度を変えなければならないと決心したという。

 原住民であるとはいえ、モーナ・ルダオは物事の本質は見抜いていた。


モーナ・ルダオ(1)

2013年06月14日 | 歴史

 モーナ・ルダオはセデック族、マへボ社の頭目、漢字で書くと、賽徳克(セデック)莫那魯道(モーナ・ルダオ)となる。

 2011年、モーナ・ルダオを描いた映画が台湾で公開された。タイトルは、「賽徳克 巴莱」(セデック バレ)であった。巴莱はモーナルダオのことであり、「霧社事件」を描いたものだ。モーナ・ルダオは、日本帝国主義に反抗して立ちあがった英雄として再認識され、仁愛郷には「霧社山胞抗日起義記念碑」を建設して、褒めたたえるとともに、かれの胸像をモチーフにした記念硬貨まで発行している。

 このモーナ・ルダオについて調べてみた。

 1882年(明治15年)生れ、マヘボ社の頭目であると同時に、霧社蕃全体のリーダーであり、「霧社事件」を起こした時は、48歳だった。気性は飄かん、体は大きく180cmを超えていたといい、少壮の頃より戦術に優れていた。勢力は霧社蕃中でずば抜けており、彼の右に出る者はなかったらしい。性格は朗らかで、酒が好きでよく飲み、笑い声も大きく、話をしていて楽しいので人気があったという。

 セーダッカ族生き残りのアウイヘパッハが書いた「証言 霧社事件」に、彼が座談会で話した「モーナ・ルダオ」の思い出があるので引用してみよう。

 ちなみに、アウイヘパッハは、1916年(大正5年)生まれ、ホーゴ社頭目の直径で、霧社事件が起きた時、14歳だった。セーダッカが蜂起した時、少年組として加わっている。その後、投降して日本人から尋問を受ける。蜂起に参加したかどうかについてだった。参加したとこたえた場合は、その場で銃殺。素直な山地族の少年たちは、ほとんど殺されたが、アウイは山に狩猟に行っていて加わっていないとこたえて、銃殺を免れている。必死の思いで、嘘をついたわけだが、これを責めることはできないであろう。さらにいえば、アウイが生き残ったおかげで、蜂起側からみた「霧社事件」の実態が明らかになったのでる。

 この本をまとめた「許介鱗」(1935年台湾生まれ、台湾大学政治系教授、東京大学法学博士)は、この資料を、霧社事件について書かれた本の中で、第一級の資料として高く評価している。

 アウイ自身の戦いの記録、思い出しながら描いた座談会の記録、さらに許介鱗の簡潔で核心を突いた解説は、植民地時代に日本が台湾の山地でしたことを、公平に分析してしており、わたしは読みながら、目から鱗が落ちる思いがした。「霧社事件」について知ろうと思うならば、避けてはならない本だろう。

 さて、アウイの思い出の中の「モーナ・ルダオ」にもどろう。

 霧社総頭目の「モーナ・ルダオ」は、一世一代の英雄であり、体も大きいし、鼻も高い、どうも西洋人の血が混じっているらしいという。父の「ルーダオ・ビーラッカ」が臆病で、人から馬鹿にされていたので、自ら奮発して勇敢になったという。

 13歳の時から首狩りに参加して、胆力を練る。15歳の時、北港渓で他部族と戦ったとき、敵の一人が対岸で撃たれて倒れたが、誰一人として首を取りに行く者がいない。少年のモーナ・ルダオは激流に飛び込み、皆が危ないあぶないと騒いでいる内に、川を渡りきり、首を取ってまた泳いで帰ってきたという。その時から、モーナ・ルダオの名は四方に響き渡り、英雄としてあがめられるようになったという。

 モーナは、首狩りに行く時は必ず名をあげ、首狩りが禁止される時までに、一人で30個の首を取ったという。戦いのたびに、こういったという。「誰も俺より先に進んではならない。戦いで俺より先に進む者がいたら、俺は必ず撃ち殺す。」と。

 1920年のサラマオ討伐の時、日本の味方藩として同族攻撃に参加しているが、壮丁の一人が勇敢さを示そうとして、先頭に立って前進した。モーナ・ルダオは怒って、直ちに射殺したという。その後は、誰もモーナ・ルダオの先に進む者はいなくなったという。

 

 


台湾原住民の宗教観

2013年06月10日 | 歴史

 台湾の原住民が独自の宗教をもつのは、他の民族と変わることがない。部族により信じる神も多少異なるが、共通しているのは、祖先崇拝、霊魂不滅を深く信じていることだ。

 祖先が自分たちの生活を見守り、自分たちも死後は、祖先のもとに行き、一緒に暮らすことになると信じており、死を超越した凛とした死生観をもつ。

 土地は神聖であり、大きく成長した老木は神の化身と考え、種族の土地は死をかけて守る。死後は生まれ変わって、土地の守護神になるともいう。霧社事件を起こした「セーダッカ族」はタイヤル族の流れをくむが、セーダッカは中央山脈の「プスカフニ」の大木から生まれた一対の男女から始まるという伝説がある。

 余談ではあるが、台湾中部の「阿里山」は台湾最高峰「玉山」への登山口でもあるが、海抜2,000m位の山頂付近には「神木」(北京語でシンムー)と呼ばれる巨木群が生育している。中でも圧巻は樹齢1万年を超える紅檜(ベニヒ)であり、「三代木」と名づけられている。第一代は、樹齢1万年、第二代は3千年、第3代は100年の巨幹が絡み合っている。「わがまま歩き台湾(ブルーガイド)」の言葉を借りれば、まことに神々しいばかりの存在である、といえる。わたし達日本人でも、巨木には「木霊」が宿ると信じる人が多いが、台湾の原住民でも同じこと、巨木には神の魂が宿っているし、神の化身であると考えていたのだ。その巨木を植民地時代の日本は、遠慮なく伐採していたのだから、原住民が怒らないわけがない。

 はなしを戻そう。

 タイヤル族の神は、「ウットフ」といい、自然や祖先崇拝が信仰の中心である。原住民は、「ウットフ」が人間を織り、人生を織ると考える。人間が生まれることを「ウットフが織る」という。 織布の縦糸、横糸に、人間とその人間が経験する出来事や喜怒哀楽を織り込むと考える。つまり、人生は神が決めたものであり、生きるも死ぬもウットフの御心のままということになる。

 何かわからないことが起きると、彼等はすぐに「ウットフ」にお伺いを立てる。これにより得た神の意志により行動することになる。では、どのように「お伺い」をたてるのかといえば、「首狩り」ということになる。「首狩り」は蕃人にとっては、神事であり、宗教行事なのである。

 たとえば、来年は豊作かどうかとか、どこの土地を開墾すれば収穫が多いかなどを神にうかがうとする。彼等は、儀式にのっとり「首狩り」の準備を始め、首尾よく首が得られれば、「ウットフ」がOKを出していると考える。首に、恨みはないので、偶然に旅人にでも出会えれば、その首をもらって一目散に引き揚げてしまう。神事であれば、金銭を盗るなどの略奪はしない、故に文明人にとっては、怖い話ではある。

以上