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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

福寿山農場(2)

2013年04月13日 | 旅行

 福寿山農場の朝の気温は10度位、昨夜から小雨が降っていて少し寒い。3月の下旬とはいえ、日本ならばこの標高なら雪が降ってもおかしくはないが、やはりそこは台湾、雪が降るのは一月か二月の気温が低い限られた時期だけのようだ。

 朝食のバイキングで粥を食べた後、二階の会議室で福寿山農場の簡単な映写会を観る。大きな会議室で、馬蹄形に並べられたテーブルにはそれぞれマイクが備わっており、確かに国際会議でも開けそうだ。映写は10分ほど、農産物の果樹や四季の移り変わりなどを扱っていた。

 桜の花が咲いているので、季節は日本と同じようなのだろう。午前9時過ぎ、この農場でボラティンアをしている台湾人(以前は教員だったという男性)が農場を案内してくれた。建物の裏には桜で囲まれた庭があり、そこに樹齢150年というの大きな松がある。「介寿松」というそうだ。「介寿」は蒋介石の号であり、そういえば「福寿山農場」の寿も「介寿」から取っているのだろう。

 その松の幹にある黒い線を指さしながら、あれは蒋介石が亡くなった時、激しい雷が落ちた時にできた焦げ跡だと、案内の男は、まことしやかに説明していた。その「介寿松」の前には、蒋介石と宋美齢が笑顔で写っている写真が大きな石に彫られている。どこまで行っても夫婦愛を強調することは忘れない。

 その近くには池があり、おしどりと白鳥が泳いでいる。白鳥は色は黒いので「黒鳥」とでもいうのだろうか。池の名前は「鴛鴦湖」、鴛鴦はおしどりの意味だから、これでもかという感じだ。その横には「藤棚」があり、そして桜木がありで、日本風味がそこかしこにある。

 福寿山農場は、高原のなだらかな斜面につくられた果樹園なのだ。リンゴがメインらしく43種類ほどが栽培されている。もちろん、果樹はそれだけではない。私は歩きながら、メモをとってみた。
  林檎(ジョナゴールド、1979年日本産)他多数
  水梨(1964年)
  小藍莓(ベリーの一種かな)
  西洋梨(1959年)
  ラ・フランス(1959年)
  キウイ・フルーツ
  桃(上海水密桃)
  胡桃(クルミ1963年)
  板栗(chest nut)
  梅          etc.

 リンゴの花が咲いているし、梅はもう小さな実をつけている。夏になればこれらの果実が一斉に実をつけるので、その時期に来るのはもっと楽しいだろう。

続  
 


福寿山農場(1)

2013年04月12日 | 旅行
 福寿山農場は高原に開発された果樹園だ。この農場が国民党により開発されたことは、すでに書いたが、当初は蒋介石一族の避暑地であったろうが、今は開放されて一般市民の憩いの場になっている。

 ふと考えたことだが、標高は2,000m、たとえば日本でこんな高地に農場をつくるとしたら、環境がどうだ、自然破壊だなどと反対意見がでてなかなか難しいことだと思うが、当時そこは一党独裁の台湾、鶴の一声で開発が始まったのだと思う。今は台湾人の絶好の避暑地になっていることを考えると、一党独裁の例外的なメリットかもしれない。

 宿泊施設は、受付やレストラン併設の管理棟の周囲に点在している。私たちは、管理棟から100mほど離れたコテージ風の宿舎、名前は「福寿館」に泊まった。四人部屋が二つテラスハウス風につながっている。建物は、新築間もないのだろうか、外装内装ともにきれいだ。部屋は、入り口そばに洗面室、バス・トイレがある。そこから階段を上がるとベッドルームになり、間取りは一階と中二階の段差がある造りになっている。一階にはシングルベット2つ、中二階にはダブルベッドが置いてある。テレビ冷蔵庫、テーブルセットがあり、ホテルと変わりはない。トイレが少し離れたところにあるのはいいことだ。あまり近いと排泄音が聞こえてしましい、いい感じではない。その点、この宿舎はスペース取りをうまく考えているようだ。

 さて、肝心の宿泊費だが、四人部屋でNT4,000(日本円12,000円位)朝食付きだ。宿舎の設備からして、一人当たり3,000円は高くはない。ちなみに、6人部屋はNT5,000でさらに割安になる。何度もいうようだが、台湾のホテルは、一部屋いくらの料金設定であることをあ忘れないでほしい。


台湾の杉並木(福寿山農場)

2013年04月11日 | 台湾の自然
 台湾に杉並木があるのを見て驚いたことを書いておこう。杉並木ですぐ思い出すのは、「日光の杉並木」であるが、台湾の杉並木も規模は小さいが、ほとんどそれに似た形でつくられている。距離は総延長で6~7Km位、紛れもない杉の並木が両側に並んでいる。道は舗装されており、車がすれ違うのがやっと位の道幅だ。

 その杉並木は「福寿山農場」への道筋にある。福寿山農場は、台中県和平郷、梨山という街の近郊にあるのだが、梨山の標高は1,700m位、福寿山農場はそこからさらに上を目指し、標高2,000m位の高原に広がっている。

 わたし達は車で福寿山農場を目指して急な山の斜面を上がっていると、その杉並木が突然現れてきた。誰かが、「これ日光の杉並木に似ているね。」いった。そう言われてみれば、日光の杉並木ほどは太くはないが、立派な杉が両側に並んで続いている。こんな山奥に、こんな並木をつくるとは、モノづきな奴もいるものだ、などと思いながら、この不思議な光景を眺めていた。

 一体誰が作ったのか?その疑問は農場に着くと解決した。この福寿山農場は、蒋介石の意志で国民党の兵士が開発したのだという。開発は1954年頃というが、1954年といえば、国民党が共産党との戦いに敗れて、台湾に逃げ込んでから間もない頃だ。蒋介石と共に台湾に転がり込んできた兵士は、100万人ほどもいたというが、戦争の危機はあったものの、その後は大規模な戦闘はなかったので、仕事のない兵士を使って開発したのだという。

 開発にあたったのは、息子の蒋経国、彼は父親の好みをよく理解していた。想像するに、蒋介石は日本に留学した時、日光などを訪れている。そこで見た杉並木、陽光を遮り日陰をつくり、そこを歩く人に癒しの空間を与えてくれる杉の並木をいたく気に入ったに違いない。暑い台湾にこんな並木があったらいいなと考えただろうことは容易に想像がつく。

 息子の蒋経国は、親父のご機嫌をとるべく杉並木をせっせとつくったらしいのだ。杉の種類は「柳杉」といい、一部は日本から輸入したともいう。

 福寿山農場の管理センターは一階にきれいなレストラン、二階には国際会議でもできそうな大きな会議室などがある二階建ての堅固な建物だ。その前には大きな駐車場、そしてその一角には杉の並木に隠れるようにして、伝統的な中山服姿の蒋介石の立像があった。
 その立像には、
         「永懐徳澤」

 という文字が彫ってある。建てたのは、蒋介石が亡くなった後だ。その意味は、「生前の徳を忘れないほしい」という意味らしい。国民のことはいざ知らず、蒋経国にとっては、やはり父親はいい親爺だったのである。

以上

合歓山

2013年04月10日 | 台湾の自然
 合歓山は、台中市と花蓮市を結ぶ東西横貫公路の中間点、中央山脈のなかに聳えている。車で行ける最高点「武嶺」から少し下った地点にその登り口がある。名前は北京語で「フーファンサン」というが、わたしは合歓木(ねむのき)に因んで「ねむさん」と呼んでいる。
 
 合歓山はいくつかの山の総称で、そのなかの最高峰(未確認だが)の合歓山北峰(3,422m)のほか合歓山東峰(3,417m)、合歓山西峰(3,145m)の群峰なのだ。わたしは、この山に来るのは二度目だが、山の名前がロマンチックであり、温かさを感じるので、誰がこんな名前を付けたのかと疑問に思っていた。その疑問が、今回の旅でとけた。

 付近に住む台湾人の話であるが、日本が植民地統治をはじめた頃、山地原住民との戦いの連続であった。特にタイヤル族やセーダッカ族の居住地であった合歓山地帯は、東西を結ぶ要路であり、その攻略は必須の目標であった。日本軍はいくつかの地方から山頂を目指して進撃した。一つは台中から、もう一つは花蓮から、さらにもう一方は埔里方面からであったという。それらの各軍が出逢ったところが、合歓山付近であり、出逢った喜びに因んで「合歓山」と名づけたという。

 したがって、合歓山の名付け親は日本人であるが、台湾には日本の地名に因んだ地名がたくさんある。たとえば、美濃(台南の東方50km位)は、陶器の産地で、日本の美濃焼の伝統がある。また、鶴岡は紅茶の産地、紅茶の箱に「鶴岡」と書いてあると、山形県の鶴岡市と勘違いしてしまいそうだ。そのほか、白川、豊原、板橋などがあるが、植民地時代、台湾に来た日本人が、自分の生れた地名に因んで名づけたのであろう。

以上
 

武嶺(車で行ける最高点)

2013年04月08日 | 台湾の自然
 武嶺(ウーリン北京語)は、台湾における車で行ける最高点である。標高3,275m、東西横貫公路、台中市から中央山脈を横切って、花蓮市につながる国道の最高地点の名前だ。雲上とはこういう場所をいうのであろう、きれいな青空が見えていたかと思うと、あっという間に雲が下から湧き、濃い霧の中で何も見えなくなる。ここへ来るのは、すべてマイカー族だ。

 ちなみに日本で一般車両で行ける最高点を調べてみた。いくつかあってどこが最高点かはっきりしないので、いくつかあげてみる。
 渋峠(草津志賀道路、群馬長野県境) 2,172m
 富士山五合目            2,300m位
 乗鞍岳(エコーライン)       2,702m(現在、通行禁止)

 最高点と思われる乗鞍岳エコーラインと比べても、500mも高いので、台湾の中央山脈の威容が想像できるだろう。
 
 武嶺には広めの駐車場があり、少し離れた崖のそばにトイレがある。トイレは水洗でありきれいで気持ちがよい。駐車場の一角に高台があり、そこから360度見渡すことができる。近くには合歓山東峰(3,417m)が雲間に見え隠れしており、登頂は難しくないようだ。三月の下旬で気温は昼で6度くらい、防寒着は必要だ。

 高台には、さくさんの人達が上り最高点を表す標識の前で記念写真を撮っている。近くにある説明書きには、日本植民地時代、ここで日本軍と山地原住民の激戦があったと書いてあった。日本は台湾中部をを東西に結ぶ道路の建設を目指したが、原住民は自分たちの聖地に侵入する異民族に激しく抵抗した。この時の部族は好戦的で、しかも首狩りで有名なタイヤル族や太魯閣族だった。しかし、近代兵器をもつ日本軍と鉄砲と弓矢しか持たない原住民との戦いの勝敗は明らかで、まもなく原住民は征服された。

 100年ほど前、徒歩で中央山脈を越えた日本人の苦労は如何ばかりかと考えながら、遥かな山並みを眺めていた。明治の人達は、すぐこの未開発の国が好きになり、自分たちの国、つまり日本と同じような国にするために努力したのだ。台湾の人達は、日本人のこの掛け値なしの国づくりの中でつくられた、鉄道、ダム、道路などを今でも高く評価してくれている。

以上