今だから話そう~障害者のきょうだいとして生きて~

自閉症で重度知的障害者の妹として経験した事、感じた事、そして今だから話せる亡き両親への思いを書いてゆきます。

時計草の想い出

2007-06-10 06:02:36 | 障害者の親

今日は母の17回忌にあたる命日です。
毎日、両親の眠る仏壇に手を合わせながらも、日常の出来事に紛れて過去の悲しみを忘れていくことが多いです。

そんな母が愛した花が時計草でした。
ふと母の眠る墓地に向かう途中のお宅の塀に溢れんばかりの時計草が咲いていました。
こんなたくさんの時計草は見たことはありません。
「母にも見せてあげたかったなあ。」
それで、撮ったのかこの写真です。

時計草を見ていると次々と母の入院したときのことを思い出します。

 

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *


今でも忘れられません。

母が亡くなる3年前の初詣の時に、母は言いました。
「もしかしたら、私、ガンかもしれない。」
当時、すでに母は再生不良性貧血の治療を受けていました。
でも、母は知人の医院で看護師としても働いていました。
勤めはじめた時期には対して病気もなかったのですが、いつのまにかそのような病気になっていたのです。
かつて大病院の外科病棟で婦長まで勤めた母でしたが、その職業意識が災いしたのでしょう。
医院に隠れてこっそり通っている病院で2週間の検査入院を言われていたのに、自分をもとめる患者さんのことや、医院のことを考えると、自分のための入院ができなかったようです。
本当に母はよくもわるくも患者さん思いの看護師でした。
患者さんの多くは老人で、独居老人も多く、福祉の相談員もしていた母は、その患者さんの自宅を訪問したり、話し相手になったり・・・と個人的にも親しくしていた人がたくさんいました。
そんな母ですから、お年寄りの悲しい顔を見るのがいやだったのでしょうね。
また、私も父と仲が悪くて母を介している状態でしたので、自分がいなくなったらどうなるのか心配だったのでしょうね。。。

そんなわけで、母は検査入院もせずに、頑張り続けてきました。

毎日、原付バイクに乗ってはあちこち精力的に動き回っていました。
家事も仕事も福祉ことも親の会の役員も次々とこなしていく母の姿に、「お宅のお母さんは、びっくりするくらいよう働きはるね」とよく言われたものです。
ですから、ガンで亡くなった時には、本当にびっくりされました。
見かけがとても元気そうな人でしたから、母の死には生前の母を知る人には衝撃的でした。

 

母の体調を考えて、仕事をやめて欲しいと何度も懇願しました。
父も仕事をやめろといいました。
それでも、母は仕事を辞められる環境ではありませんでした。
おそらく検査入院というのは、再生不良性貧血の件だったみたいですが、それがきっかけとなってガンになったようです。
実際、入院してからも医院のドクターがまた復帰してほしいと言いにお見舞いに来ましたし、医院に母を退職させてほしいと私から何度もお願いしましたけど、母が復帰できないとはっきりするまで受諾されなかったのです。
もしかしたら、医院のこの態度もいけなかったと思います。

 

腹痛。腹膜が破れた。それで入院してそして手術。。。
母は、もうあきらめたかのように、つぶやきました。
「いつも、悪いねえ~。お兄ちゃんが待っていると思うから面会に行ってあげてね。缶コーヒーが好きだから、お兄ちゃんに飲ませてあげてね。」
そんなことを話す母、実は“食事制限”を受けてほとんど食べていないんです。

そして、1ヶ月の入院に末、退院してきました。
今でも後悔している私のひと言があります。
「もう一度入院したらもう帰ってこられないよ」
本当になんとなく出た言葉でした。

しかし、それは現実のものとなってしまいました。
自宅での静養が1ヶ月。
そして、腹痛で再入院。

病院では腸閉塞の傾向があるので、再び母は“食事制限”状態に・・・・。
私は母のために、果物をしぼって飲ませたり、ジュースを飲ませたりしました。
固形物はだめで、流動食と点滴で栄養補給が続きました。

しだいに母の腸閉塞は悪化してゆきました、そして“絶食状態”の変わりました。
2ヶ月後のバレンタインデーの日に、腸のバイパス手術のために、手術を受けました。
医師は、開腹してすぐに閉じたそうです。

そう、すでに母の体内でガンは進行していたのです。
「末期の大腸ガン」
そう医師から告げられました。
ガンは大腸から胃や肺へと転移していたそうです。

それでも母は頑張りました。
母は自分でもガンだと気づいていたようですが、私も父も話せませんでした。
いつも、「もしガンだったら隠さないで話してね」と言っていた母に真実を告げられない私が悲しかったです。

まあ、母自身、姉が二人も同じ年齢の時に、ガンで亡くなりましたので、自分もそうかもしれないと思って覚悟していたのだと思いますが・・・。

母がガンと判明してから、私は母の好きだった花の写真を撮っては母に見せていました。
母はガンの痛みで苦しみながらもいつも笑顔で周囲の人を楽しませ続けました。
入院中もあちこちで友達がいました。
常に明るく生きる人でしたから、友達も多かったです。


5月になると、母のお気に入りの時計草が花を咲かせました。
植木鉢に2~3個しか咲いていないのですが、母はそれでも時計草を大切にしていました。
その前年、「おいで~時計草がきれいに咲いたよ。本当に時計にような形をしているね。来年も咲いてくれたらうれしいね~」と話して母でしたので、ぜひとも時計草だけは枯らさないように頑張ってきました。

幸い、今年も時計草は咲いてくれました。
私はそれを何枚も写真に撮り、母に見せてあげました。
それを見た母は、「きれいなあ~。今年も咲いたね。」
と、うれしそうな顔をしました。

しかし、すでに母の声は弱っていました。
笑顔からあの輝くようなエネルギーは消えていました。
私はもうだめだと思いました。
母もきっと覚悟を決めていたのでしょう。
「何がほしいものがある?」というと、「桃がほしい」といいます。
それで桃のジュースや桃の実を絞ったりしていました。
母は「おいしい」と幸せそうな顔をします。
その顔を見たくて私はもっと飲ませてあげます。
すると母の体が受け付けなくて、嘔吐します。
胃液が流れ、苦しみます。
そんなことが何度かあって、母に何もできない自分が悲しくなりました。

6月1日。この日は綺麗好きな母のために、行き着けの美容院の美容師さんに病院に出張してもらい、洗髪とカットをお願いしました。

入院で髪も伸びて気持ち悪いと母がよく言ってましたので、私が美容師さんに特別にお願いしたのです。
カットを済ませた母は、爽快だったのでしょう。
久しぶりに母の顔に生気が戻ったように見えました。
「ああ、すっきりした。気持ちよかった」
母はすごく満足してくれて本当にほっとしました。

何か喜びがあると、次には悲しみが待っているのでしょうか?
6月2日に母に会ったときには母は、ほとんど話せなくなっていました。
目もうつろで、ほぼ寝たきり状態になっていました。
そう、その日から何も話せなくなったです。
顔を上下左右にわずかに動かすことでしか、意志表示ができなくなりました。
そして、6月3日には危篤状態に陥ってしまいました。
父と私は何度か病院で夜を明かしました。

6月9日の晩、父が自分が付き添っているから今日は帰れといいます。
でも、私は母のそばにいたくて今日は一緒にいるといいました。
まさに“虫の知らせ”でした。翌朝、母は私と父に看取られて亡くなりました。
母が亡くなるまで、何度も何度も泣きましたけど、母が亡くなってみるともう流れる涙はありませんでした。
とにかく、母の生前私に託していたこと(葬儀関係)を実行するという使命感しかありませんでした。

葬儀の時、涙が止まりませんでした。
一回忌にも、三回忌にも・・・・・。
母を思うたびに、「もっと母に親孝行してあげたかった」と後悔の念にとらわれます。


それでも、母の眠る墓地には毎年サクラの花びらが舞い散ります。
いつかどこかで、母の大好きだった時計草も咲いています。

「私は大丈夫! お兄ちゃんを見守ってあげてくださいね。」