風景居酒屋 ごじゃ満開

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759) 私的岩手通史の旅 第36回

2010年07月22日 | 私的岩手通史の旅
 北東北の短い夏を彩る様々なお祭り、主催する団体からは寄付の依頼が我が奉公先に舞い込んできます。些少な寄付がお祭りの盛り上がりに少しでもお役に立てばとは思いますが、どうなのでしょう?因みに何年経っても昔の社名で寄付を募ってくる団体の寄付依頼は、上長の目に留まった瞬間ゴミ箱行きです


第36回 東北38年戦争 23(奥州市水沢区 出羽神社と慰霊碑)

 794(延暦13)年の「第2回胆沢遠征」で朝廷軍はエミシ軍に大勝しました。しかし阿弖流為・母礼は降伏しておらず、胆沢も朝廷の支配下になっていませんでした。そこで2年後の796(延暦15)年、「第3回胆沢遠征」の準備が始まりました。前回は副官のひとりに過ぎなかった坂上田村麻呂ですが、第3回遠征にあたっては軍事・行政の全権を握ることになりました。

 巣伏の戦いから第2回遠征命令までは4年、そして第3回遠征は計画が始まってから遠征命令が出るまで約5年費やしています。その分エミシ軍にも準備する時間を与えてしまうことになりますが、それを差し引いても当時の戦には物資や兵士の移送等々で、それなりの時間が必要だったということでしょう。

 この準備の間、坂上田村麻呂は幾度も北東北と平安京を往復したのではないでしょうか?そしてその合間を縫い、勝利を願って寺社を北東北に勧請したのでしょう。そのひとつが、巣伏の戦いでエミシ軍が潜んでいたとされる羽黒山(東山)山頂に建てられた「出羽神社」です。


(羽黒山頂に建つ出羽神社本殿 -奥州市水沢区御山下 2010/02/13-)

 本殿脇の説明板には「延暦年間(797年頃)、坂上田村麻呂が阿弖流為を征伐するために山形の出羽三山、羽黒山大権現に立願し、征討の功を得たのでこの山に羽黒権現を勧請した」とありました。「阿弖流為征伐」とは判官びいきには面白くありませんが、出羽神社側からすればそうなのでしょう。

 一方で数10メートル西には「阿弖流為・母禮慰霊碑」が建っています。こちらの説明板には「胆沢の長アテルイと盤具長モレはこの侵略阻止に立ち上がり・・・」と書いてありました。

 ひとつの史実に対し、同じ山に異なる視点で見た物が建っている・・・、歴史の妙とでも言うのでしょうか?


(巣伏を見下ろす場所に建つ慰霊碑 -奥州市水沢区御山下 2010/02/13-)

 羽黒山神社はここです


 1年前の一品・・・お休みでした
 2年前の一品・・・「315)盛岡散歩 県営野球場」

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