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2011年03月11日14時46分、東日本大震災発生
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763) 私的岩手通史の旅 第38回

2010年07月29日 | 私的岩手通史の旅
 夏の高校野球甲子園大会の各地代表校がほぼ出揃いましたね。我が岩手県は8年ぶりの一関学院ですが、他県には何十年ぶり出場といった学校もあります。それを聞くと、その高校が前回甲子園に出場した時の自分を思い出してしまいます。これも歳をとった証でしょうか?


第38回 東北38年戦争 25(奥州市水沢区 胆沢城跡)

 坂上田村麻呂率いる朝廷軍による794(延暦13)年と801(延暦20)年の2度にわたる「胆沢遠征」に阿弖流為率いるエミシ軍は破れ、胆沢地方は古代国家の一部に組み込まれました。

 第3回胆沢遠征の翌年(802(延暦21))年正月、坂上田村麻呂は北東北支配の拠点として、胆沢八幡宮の南側に「胆沢城」を築きました。北東北支配の拠点として現在の宮城県に多賀城が築かれたのが724(神亀元)年、それから約80年費やして拠点が100キロ北に移ったことになります。エミシ軍の抵抗がいかに大きかったかということでしょうか。


(だだっ広い胆沢城跡 奥州市水沢区佐倉河 2008/06/29-)

 胆沢城跡は水沢市街地から北に延びる県道270号線(旧奥州街道)が胆沢川を渡る手前一帯とされ、1954(昭和29)年から継続的に発掘調査が行われました。その結果、約44万8900平方メートルの広さの中に、政庁(政務を取り扱う官庁)や官衙(役所)等があったとされています。

 多賀城のように政庁土台等の復元物はありませんが、若干の起伏のある土地にのあちこちに立つ○○跡と記された札と政庁復元イメージのイラストが置かれていることが、ここが城跡であることをうかがわせてくれます。この下には様々な遺跡が二度と人目に触れることなく眠っているのでしょう。


(空から胆沢城跡を観てみれば・・・ -パンフレットより-)

 胆沢城が築かれたこの年、阿弖流為達は遂に降伏しました。「巣伏の戦いの跡」に建つ石碑に刻まれたその様子を引用します。「延暦21年、阿弖流為を始め多くのエミシ達は、胆沢の肥沃な大地で平穏に暮らせることを願い坂上田村麻呂に降伏するが、阿弖流為と母禮は河内国椙山で処刑された」


 1年前の一品・・・お休みでした
 2年前の一品・・・「321)盛岡散歩 酒買地蔵尊例大祭

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