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750) 私的岩手通史の旅 第29回

2010年07月08日 | 私的岩手通史の旅
 東京の方との電話で東北夏祭りの話になったのですが、先方曰く「東北は4大祭りで賑わいますよね」。電話の後周囲にこの話をしたのですが、「この4大祭りに岩手の「さんさ踊り」は入っていないね」というのが全員一致した意見でした。恐らく「竿灯(秋田)・ねぶた(青森)・花笠(山形)・七夕(宮城)」なのでしょう。


第29回 東北38年戦争 16 (奥州市水沢区 再び北上川)

 巣伏の戦いの続きです。789(延暦8)年、紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍約5万2千人は衣川(現奥州市衣川区)に陣を張りました。眼前の胆沢平野を拠点とするエミシ軍の様子見をすることしばし、桓武天皇に叱責されてようやく北上川両岸を北上しながら征討を進めてきましたが、左岸を進んできた4千人の朝廷軍は前後をエミシ軍に挟まれてしまいました。

 北と南にエミシ軍、東には山並みが連なり西側には北上川、四面楚歌となった朝廷軍が選んだのは北上川を渡って退却することでした。

 ところがこの付近の北上川は川幅が広く流れも早く、川を渡ってエミシ軍の攻撃から逃れようとした兵の多くが溺死するという事態に陥りました。その数は戦死者よりも多く、続日本紀には「戦死25人、矢に当たった者245人、溺死1036人、裸で泳ぎ着いた者1257人」と書いてあります。朝廷側に都合良く書くはずの記録ですらここまで記述しているのですから、実際はもっと多数の犠牲者が損害を受けているかもしれません。


(朝廷軍が逃げ込んだ北上川 -奥州市水沢区上小谷木 2010/02/13-)

 前々回にご覧いただいた小谷木橋からは、巣伏の戦いの舞台となった一帯を望むことができます。巣伏の戦いから1200年以上の間に上流にダムが造られたり河川改修されており、当時の眺めとは違うと思いますが、阿弖流為率いるエミシ軍から逃れようとする朝廷軍の兵士で川面が埋まる様を想像してみました。きっと目を背けたくなるような光景が広がっていたことでしょう。

 朝廷軍はかような大敗北を喫し、その長だった紀古佐美らは都(長岡京)に戻りましたが、斬首等の厳罰は受けずに済んだといいます。いつの世も同じですね。

小谷木橋はコチラです。



1年前の一品・・・お休みでした
2年前の一品・・・「304)盛岡散歩 仙北町界隈4(長松寺)」

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