風景居酒屋 ごじゃ満開

2011年03月11日14時46分、東日本大震災発生
(since 2007/8/15)。

762) 私的岩手通史の旅 第37回

2010年07月27日 | 私的岩手通史の旅
 おりに触れてこの前菜の欄で、普段何気なく口にする言葉の由来や意味に触れています。先日も「とんぼ返り」が話題になりました。読んで字の如く、とんぼが急に方向転換することが由来なのですが、「とんぼ帰り」でなく「とんぼ返り」だったのですね。またひとつ利口になりました。


第37回 東北38年戦争 24(奥州市水沢区 胆沢八幡宮)

 計画が始まって5年経った801(延暦20)年2月、征夷大将軍坂上田村麻呂に「第3回胆沢遠征」の命令が発せられました。率いた軍勢は約4万人で第2回の約10万人に比べれば半分以下ですが、「阿弖流為らは二度の合戦でエミシ戦士の大半を失い、加えて胆沢平野も荒廃し食糧難に陥り、疲弊の度を極めていた(岩手県の歴史より)」ので、半分以下の兵力で十分と判断したのでしょう。

 この時勝利を祈願して坂上田村麻呂が創建したとされるのが本日ご覧いただく「胆沢八幡宮」です。八幡宮の起こりである大分県宇佐市の「宇佐八幡宮」を勧請し、北東北を治めるための守護神として祀りました。


(鎮守府八幡宮本殿 -奥州市水沢区佐倉河 2008/06/29-)

 胆沢八幡宮は西から流れてくる胆沢川と北から流れてくる北上川が合流する地を見下ろすように建っています。その南側には次回ご覧いただく胆沢城が築かれるのですが、胆沢城から見ると鬼門(忌み避けるべき方向)を守る存在として建っていることになります。攻め込んできておきながら鬼門云々というのは矛盾している気もしますが・・・。


(冬の八幡宮本殿 -奥州市水沢区佐倉河 2010/02/13-)

 神仏の効果はいかほどか分かりませぬが、同年9月、勝利の報告が京に届きました。この第3回胆沢遠征では胆沢はもとより閉伊地方(現在の三陸沿岸中部から内陸)まで攻撃したそうです。それでもまだ阿弖流為や母禮は降伏していません。

 鎮守府八幡宮はココです。




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