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758) 私的岩手通史の旅 第35回

2010年07月20日 | 私的岩手通史の旅
 猛暑続きの日本列島、我が岩手県も例外ではなく、口を開けば「暑い」が出てきます。昨年一昨年と床に就くときは窓を閉めていましたが、今年はそうもいきません。冬の寒さがちょっと恋しくなったりもします。


第35回 東北38年戦争 22(奥州市水沢区 物見櫓から)

 準備を進めていた「第2回胆沢遠征」ですが、794(延暦13)年正月に遠征命令が下りました。征夷将軍は大伴弟麻呂ですが、実質的な指揮官は坂上田村麻呂でした。率いる軍勢は約10万人、巣伏の戦いの約2倍が胆沢に押し寄せました。

 広々した胆沢平野全体を10万人の朝廷軍が埋め尽くした様とはどのようなものだったのでしょう?10万人が一堂に会するというものは、テレビを介しての某歌手の10万人コンサートでしか見たことがありません。

 戦いの詳細は明らかでありませんが、半年後に坂上田村麻呂から「勝利」の報が都に届きました。この時のエミシ軍は斬首457名、捕虜150人等、前回の巣伏の戦いに比べて大きな損害を受けました。

 北上川両岸が主戦場だった巣伏の戦いと異なり、第2回胆沢遠征は胆沢平野全体が戦火に覆われたといいます。物見櫓の上から胆沢平野を眺め、10万人の朝廷軍とそれを迎え撃つエミシ軍の衝突を想像してみましたが、脳みそのシワが少ないので中々想像が広がりません。


(巣伏の戦い跡に立つ物見櫓から見た胆沢平野 -奥州市水沢区佐倉河 2008/06/29-)

 この794年は、都が長岡京から平安京に移った年でもあります。「鳴くよ(794)ウグイス平安京」と暗記した平安京遷都です。桓武天皇にしてみればエミシ征討と遷都が成就した1年となりました。

 桓武天皇、坂上田村麻呂、そして阿弖流為と母禮、それぞれどのような気持ちで年の瀬を迎えたのでしょう?


1年前の一品・・・お休みでした
2年前の一品・・・「313)岩手散歩 釜石市(仙人峠越えのループ道)

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