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目眩く思想世界擬きと言霊フロンティア
Depuis 2005/05/19

I師語録 12/21

2005年12月22日 01時02分48秒 | Idzutzu56
 しばらく電話はかかってこないかと思われたがそれも間違いだった。
 唯一暗黙の前提となっていたのは、I師の専門分野から僕が離れようとしているということだけだった。
 それはまぁそれで辛いものがあったけど、よく云われるように僕の人生は僕のモノだし、I師の心情は察するを得ない。一見そんなに落ち込んでいるようには聞こえなかったが。

 最近考えていること。仮に人工知能の方面に行くとするとどうも圏論が大なり小なり重要な地位をしめてくるということが最近(僕にとって)明らかになってきた。Maclaneと共に圏論を建設したEilenbergとかいう数学者が晩年にオートマトンの研究に走ったという事実からも、ある程度の説得力が伺える。だから今はとりあえず代数学だけは基礎に据えてしっかりやっていこうとぼんやり思っている。そのためにはまず可換環の理論が必須であるらしい。といってもそこらへんのことはさっぱりわからない。圏論やコホモロジーの文献を少々触ってみたが、だいたい雲を掴むようなちんぷんかんぷんな話だった。代数なんて解析や数論に比べると抽象的すぎて見栄えがしないように思われがちだが、まぁ僕はそのあたりはあまり気にしない。抽象的すぎようが一般的すぎようが自分の理解を助けるものなら何でも使うというのがポリシーだから。もし最先端の理論物理を全く勉強しないとしたら、寧ろ数論は必須科目からただの趣味に成り下がってしまう。もちろん暗号理論には数論や楕円曲線論が非常に役に立つが、今のところは暗号にはあまり関心がない。これも精々趣味で嗜むくらいになるだろう。解析も工学的には軽視できないのは云うまでもないが、別に解析を本命にして生きるわけでもないので(というかそんな遊牧的な生活を送る気も今のところない)適当に、人並みにやっていけばいいかな。

 物理はやはり基礎は抑えておくに越したことはないだろう(情報系に進むというのはあくまで仮定としての書き方ですが)。基礎が一体どこまでなのかは議論の余地もあろうが、量子力学まではまぁやるとして、場の理論をやるのかやらないのかというとやった方がいいとI師はのたまう。しかしそれも彼自身云う様にそれ程説得力のあるものではなく、量子力学を縦横に駆使するといわれる昨今の脳理論との関連からだという。そりゃあ脳科学だって突き詰めれば電子がどうとかこうとか結構重要になるんだろうけど、ノイマン型のコンピュータがいくら進化したところで脳の解明にはまだ数百年はかかると根拠もなく信じきっている僕は、悪いけどそんな『最先端』脳理論は胡散臭いと思っている。人間の脳は自分自身を知るために全く新しいパラダイムを必要としている。でもまぁ脳理論にしても何にしても四の五の云わずに勉強してみる方が先ですけどね。兎も角も、本当に場の理論って物理以外に役に立つのか?など考え出すと我が神聖なる書棚に祀ってあるPeskinが可哀想なのでやめておくが、少なくとも圏論を超える価値を発見して慰めてやることは未だできそうにない。あーあ。ほんと何やってんだろう。

 ひょっとすると有名な話なのかもしれないが、一つ興味深い話を聞いた。波動方程式で名高いSchrödinger(1887-1961)は波動力学以外には大して物理学上の業績がなくて、晩年(後期と云うべきか?)はどちらかというと物理はほっぽり出して東洋思想に浸ったり生物学に走ったと聞いている。ここにWatson(1916-)とCrick(1928-)というこれまた高名な生物学者がいる。彼らも実は初め物理を志していたのであるが、Schrödingerの書いた生物物理学に触発され、しかもその後に初めて知り合い、1962年にご存知の通りDNAの二重螺旋構造によってノーベル生理医学賞を受賞している。上の意味で物理学者Schrödingerは生物学においても多大過ぎる貢献をしているのである。ちょっと事実関係は定かではないが、伝記でも読んでみるかな。

 ナンデモ屋ってのも、なかなか魅力的なお仕事です。

【λ・ワタル両氏】ダブルバトン【一応読んでw】

2005年12月22日 01時02分00秒 | mixi
mixiから回ってきたバトンとかいうものがたまってしまった。
めんどくさいけど書くのが礼儀っぽいので適当に書いて回します。
わけわからんって人は無視してくださいね。

これって不幸の手紙とかスパムメールとやってること変わらないよな・・・まぁいいや。



【あだ名バトン】(けんちゃんより)
■Q1■あなたは親になんて呼ばれてますか?
「アキちゃん」:こ、個人情報やん・・・
■Q2■異性からは何と呼ばれてますか?
「サッちゃん」「アキちゃん」
■Q3■最近よく言われるあだ名
「さっつ」:まんまですね。ってか無理やり広めたし。
■Q4■友達につけられたあだ名を教えて下さい。
「サッちゃん」:ちなみにバナナは好きです。
■Q5■あなたが一番気にいってるあだ名は?
「さっつ」でいいけど、異性には「サッちゃん」が嬉しいかなぁ・・・。
■Q6■バトンを渡すつもりでいる人
mixiに返すとしたら上記の二人(λ・ワタル両氏)で。



【印象バトン】(hanakori氏より)
●回してくれた方に対しての印象をどうぞ!
医か理か工なのかと散々周りを振り回した挙句センター直前に文転して法学部に受かった彼は一語で云うとイレギュラー。二語で云うとマイペース。誰一人否定できるまい。
無尽蔵のガッツでどんどん新しいことに挑戦するあたり尊敬に値する。
弁護士になるとか云ってた癖に法律の勉強せずにコンピュータとか起業の勉強ばっかりしてるらしい。もうコメントのしようがない(プラスの意味でね)。
とにかく昔から何でも貪欲に吸収しようとするエネルギッシュな奴です。

●周りから見た自分はどんな子だと思われていますか?
賢いとか賢そうとかたまに云われるが、実はそうでもない。
別に積分とかできなくてもいいから頭がキレて状況を制御できる人が羨ましくてたまらない。
僕は下働きで気を利かせるのが精一杯。
まぁ、なんかぐちぐち悩んでるなーという目で見られてるのは確かかもね・・・w
よい知己に恵まれているのは少なくとも自分の長所だと思います。

●自分の好きな人間性について5つ述べてください
・天真爛漫で純情でロマンチスト
・忍耐力があっていつもにこにこしている
・リーダーシップがあって適材を適所に配することができる
・博愛的でかつ知性を悪用しようとはしない
・僕の話を楽しそうに聞いてくれる(w
あのーもっと述べたいんですけど・・・

●では反対に嫌いなタイプは?
・包容力がなく多様性を認めない
・不必要に徒党を組んで他人を蹴落とそうとする
・自分の思い通りに行かないと八つ当たりしだす
・やたら他人の悪口ばっかり云って満足している
・人間の能力を見くびっている
最後の以外は似たりよったりだね・・・

●自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?
『プラネテス』の星野九太郎君(主人公の弟)。海辺で一人ロケットを打ち上げて「対流圏突破!!」とか叫んでいる彼は正にカッコイイの一言に尽きる。クラフトマンの理想像。小型ロケット作ってみてぇ~~
ちょうど書きたかったところなので書いてしまいました。

●自分の事を慕ってくれる人に叫んでください
僕を慕っても何も出ないよ。(男性)
え?!いるんなら言ってくれよ!!(女性)w

●そんな大好きな人にバトンタッチ15名!(印象つき)
リクエストの意味がよくわからんがλ・ワタル両名!二人ともそれぞれ素晴らしい素質をもつ良きチームメイトだ!!

そーしゃる・ねっとわーきんぐ・こみゅにてぃーに友達15人もいねーよ!!

ことば

2005年12月22日 01時01分17秒 | Tzuredzure
 先日、ある友人が僕のブログを見て文章がうまいと云ってほめてくれた。すごく嬉しかったのだが、その翌日に野放図な日録を書いてしまったことを、同時に謝りたい。

 言葉に対する感性が鋭い、とまで云われたが、自分にはそんな確信はない。ただ、言葉を蔑ろにする人を見ると何だかなぁ、と思ってしまうのは確かだ。新聞やテレビなどの公のメディアでたまに「食べれる」「食べてる」などというラ抜き言葉やイ抜き言葉が地の文で登場するのを見るや、この国の将来は危ういなぁなどと真剣に受けとってしまう。理にかなった理由ではなくて、ただ単に保守的な性格によるのであろう。もともと言語とは流転するものだと云われたら、ごもっともと答えるより他にない。現代日本語だって明治の日本語から見れば眉をしかめるような言葉かもしれない。崩れてしまった日本語にもちゃんとそれなりに法則性があって、学術的に尊重すべき研究対象ではある。でも、話し言葉が段々略されて崩れていくからといって書き言葉も追随して適当になっていくのは少し寂しい。時代逆行とは知りながら、そのような意味で敢えて【言文不一致】をめざすことには意義があると思う。それは結局のところ僕個人にとっての価値観であるかもしれないということは否めないけれども、『死語』だろうが『文語』だろうが、せっかく伝統のある美しい国に生まれたのだから、せめて言葉だけでも大切に保存していきたい。テレビはともかく、新聞は幸いにもまだ語法に関しては保守的でいてくれているようで安心する。新聞を読むと何となく落ち着くのはそのせいもあるのだろうか。

 保存という観点で云えば、先述のことは僕が諸言語に関心があるのと無関係ではなかろう。一つの言語が忘れられることは、一つの世界が失われることに等しい。僕のような型の一部の人間にとっては言語の多様性は生物の多様性に匹敵するのだ。いや大げさな話ではなく。「世の中渡るのには英語さえできれば充分」とか身も蓋もないことを云う人がよくいるが、正直がっかりする。ちょっとひねくれたことを云っておくが、僕は現実主義という奴はもともと大嫌いなのである。「英語すらできないのに他の外国語ができるわけがない」というのもよく耳にするが、これも全くとんちんかんな話だ。毎日のように触れていれば(それが実行できれば苦はないわけだが)何語であろうが関係ない。会話もやたら重要視されているが、別に話せなくたってかまわない。今じゃ誰も話さないような言語もある。「英語すら」と云っている人自身英語が必ずしも英語がペラペラなわけではないし、そうやって足を引っ張りあっているのは時間の浪費だけでなく好奇心の抹殺である。そもそも、英語を完璧にしてから他言語の勉強を始めるという考え方自体がナンセンスだ。言語習得に終点など存在しない。まぁそこらへんの話は専門家に任せるとして、こっちとしては「日本語すらできないのに英語ができるわけがない」とでも云い返してやりたいところだ。とりあえず日本人は総出で国語教育から出直してくるべきではないか?

 本論に戻すと、自分が生きている間にできるだけ広い世界に触れてみたいという憧れがいつも僕の根底にあるのだ。目下英語が国際語であることに正統な理由はない。英語を利用するのは大いに結構だが、英語に媚びる義理はない。言語にも生存競争があるのかもしれないが、無意味だ。英語、英語と声を大にして叫んでいる間に他の言語が滅び去っていくのを横目で見ているのは、やはり寂しいことなのである。いっぱいあるから、いいのである。




 で、バランスもまとまりも悪いけどここから少し感傷的な話。どうも失恋以来感傷的になってしまっていけない。人に吹っ切れとか言っておきながら、自分もまだ引きずっている。この人類永遠のテーマにもそろそろ終止符、いやせめて読点くらいは打っとこう。ここでは僕はlernanto(学ぶ人)であってamanto(恋する人)ではないのだから。一応。

 作ることも楽しいし、調べることも学ぶことも楽しいけど、書くことも本当は楽しい。国語の代名詞である『読書感想文』が小学校のときから苦手な僕はそれに気付かなかった。多分、書くことを強制されていたからだ。好きなことさえ書いていれば、いくらでも書ける。

 たまに他人の文章を見ていいなぁ、と思うと、自分の文章は変わってしまう。元に戻るかどうかはいさ知らず、確固たる骨のない僕の文章は揺れてしまう。性格そのものが気まぐれで、流されやすい人間だから。その是非は、まだよくわからないけれど。

 どうやら、どんなにまとまりのない拙い言葉でも、誰かの心には響いてくれるようだ。ただ僕は、言葉だけで人の心を伝えるということにはもともと懐疑的だ。考えていることがちゃんと他の人に伝わっているかどうかという不安も常にある。


 でも、だからこそ、言葉を磨いていこう。