恋はもうもく

はいあがってくるしずけさをうたでみたすー

0403.Specials

2021年04月04日 00時51分11秒 | 色恋沙汰α
 長男1歳9か月。どんどん言葉が増えている。「ねんね、あそぼ、あそぼ、ぱぱ、あそぼ。」とズボンのすそを引っ張って寝室に連れていく。布団にもぐって、ひょいと顔を出すだけで、大きな声を出して笑う。ベッドに横になると、隣に寝転がって私の両手の人差し指をつかんで持ち上げて、開いたり閉じたりしながら「はさみ、ちょきん、ちょきん」などという。やっぱりひたすらに笑っている。他人に話しても本当にどうしようもない日常の一コマなのだけれど、この瞬間だけを忘れずに生きていきたいと思った。

 仕事からの帰路、暗い公園を突っ切って歩きながら、人のいない夜の公園に、前日に子どもたちと遊んだ光景が重なった。不意に思考が止まり、次の瞬間に何かこみ上げるものがあり、もうしばらく経ってやっぱり「あの瞬間だけを忘れずに生きていきたい」と思った。ギターを握ったり書いたり本読んだりレコード聞いたり映画見たりする時間欲しいとも思うけど、当然ながら子どもたちは日一日と成長し、すぐに私たちを必要としなくなるのだろうし、どんなに言い尽くされたとしてもやっぱりこの時はかけがえがないのだと思った。これから15年、20年経って私はこの公園で何を思うのだろうかと思った。だけど20年経ったら、20年経った自分と20年経ったその時の子どもへの想いがあろうから、昨日のことを思い出したとしても、さして感傷的にもならないのかもしれないと思った。
 そう思うまでの間が立ち止まることもなく5、6歩で、夜の公園の視覚情報からこういうふうに風に考え至るというのはおもしろいなと思った。そして「視覚情報→思考停止→感傷→かけがえのない時→20年後の私の感傷」という思い至り方をしたのは、子どもたちの声と日の光のあふれる公園と夜の静けさに包まれた誰もいない公園という、重なり合うはずなのに全然質感の異なる視覚情報を隣接する時間で得て、まずぎょっとして、それでこういう(かけがえのない時という)物語によって私は無意識にそのギャップを埋めようとしているのかもしれないと思った。思いながら、客観的になりきれるわけでもなく、こみ上げてくる感傷はやっぱり感じ続けながら、公園を抜けた。

 自分の子が生まれて、彼らは圧倒的に特別な存在であり続けているし、おそらくはこれからもずっと圧倒的に特別な存在であり続けるのだろうと思う。それを実感として持つことで、すべての人が特別であるとか、尊重されるべきであるとか、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するとかいうことが、宙に浮いた言葉ではなくなった。自分の内側の感覚とつながって意味を持った。私の子は圧倒的に特別であって、同時に彼らだけが特別であるはずがない。今なら、確信をもって言える。「君たちは、一人ひとりが特別であり、尊重されなければならない」とか「私たちは健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とか。「誰かが生きる上で障害となる社会があるのなら、その社会は変えなければならない」とか。