恋はもうもく

はいあがってくるしずけさをうたでみたすー

0403.Specials

2021年04月04日 00時51分11秒 | 色恋沙汰α
 長男1歳9か月。どんどん言葉が増えている。「ねんね、あそぼ、あそぼ、ぱぱ、あそぼ。」とズボンのすそを引っ張って寝室に連れていく。布団にもぐって、ひょいと顔を出すだけで、大きな声を出して笑う。ベッドに横になると、隣に寝転がって私の両手の人差し指をつかんで持ち上げて、開いたり閉じたりしながら「はさみ、ちょきん、ちょきん」などという。やっぱりひたすらに笑っている。他人に話しても本当にどうしようもない日常の一コマなのだけれど、この瞬間だけを忘れずに生きていきたいと思った。

 仕事からの帰路、暗い公園を突っ切って歩きながら、人のいない夜の公園に、前日に子どもたちと遊んだ光景が重なった。不意に思考が止まり、次の瞬間に何かこみ上げるものがあり、もうしばらく経ってやっぱり「あの瞬間だけを忘れずに生きていきたい」と思った。ギターを握ったり書いたり本読んだりレコード聞いたり映画見たりする時間欲しいとも思うけど、当然ながら子どもたちは日一日と成長し、すぐに私たちを必要としなくなるのだろうし、どんなに言い尽くされたとしてもやっぱりこの時はかけがえがないのだと思った。これから15年、20年経って私はこの公園で何を思うのだろうかと思った。だけど20年経ったら、20年経った自分と20年経ったその時の子どもへの想いがあろうから、昨日のことを思い出したとしても、さして感傷的にもならないのかもしれないと思った。
 そう思うまでの間が立ち止まることもなく5、6歩で、夜の公園の視覚情報からこういうふうに風に考え至るというのはおもしろいなと思った。そして「視覚情報→思考停止→感傷→かけがえのない時→20年後の私の感傷」という思い至り方をしたのは、子どもたちの声と日の光のあふれる公園と夜の静けさに包まれた誰もいない公園という、重なり合うはずなのに全然質感の異なる視覚情報を隣接する時間で得て、まずぎょっとして、それでこういう(かけがえのない時という)物語によって私は無意識にそのギャップを埋めようとしているのかもしれないと思った。思いながら、客観的になりきれるわけでもなく、こみ上げてくる感傷はやっぱり感じ続けながら、公園を抜けた。

 自分の子が生まれて、彼らは圧倒的に特別な存在であり続けているし、おそらくはこれからもずっと圧倒的に特別な存在であり続けるのだろうと思う。それを実感として持つことで、すべての人が特別であるとか、尊重されるべきであるとか、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するとかいうことが、宙に浮いた言葉ではなくなった。自分の内側の感覚とつながって意味を持った。私の子は圧倒的に特別であって、同時に彼らだけが特別であるはずがない。今なら、確信をもって言える。「君たちは、一人ひとりが特別であり、尊重されなければならない」とか「私たちは健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とか。「誰かが生きる上で障害となる社会があるのなら、その社会は変えなければならない」とか。

0929.台風クラブ/火の玉ロック

2020年09月29日 23時27分52秒 | 色恋沙汰α
 君たちからすれば、出会った時からすでに私は30半ばで、君たちの倍ほど生きていて、君たちの「私たち」のうちには入らない隔たったものなのだろうけれど、実は私にもかつて君たちくらいの時があったし、それから17年、18年と生きて今があって、その時間はあの頃から今までずっと続いてきた。つながっている。あの頃の延長にいて、その延長にしかいられない私と、あの頃の私がいたところに立っている君たちとの間にある超えようのない隔たりは少し不思議な感じがします。
 この曲を聴いて、18歳の春、実家を離れる前の数日間のことを思い出した。隔たった遠さよ。

台風クラブ/火の玉ロック

0721.検察庁法改正と都知事選のこと(2020)

2020年07月24日 02時29分44秒 | 色恋沙汰α
 ツイッターで、「検察庁法改正案に抗議します」という投稿が爆発的に広がって、検察庁法改正案が一旦廃案となったのはいつのことだったか。そんなこともあった。遠い過去の話のようだ。もちろん、そんなはずはない。投稿の広がりは2020年5月8日~11日に900万件に上った。一旦廃案として通常国会を閉会するという報道が出たのが6月17日。今日は都知事選の投票日で2020年の7月5日。遠い過去のはずはないけれど、それくらい目まぐるしく「政治」に関わる報道が溢れ出る。本当か。それも違うのではないか。この遠さは、報道の量や速さの問題ではなくて、一つひとつの情報を、生身の現実とむすびつかないまま消費していることの証左なんじゃないか。
 数カ月前、敬愛する京都のドラマーが、ツイッターのアカウントに鍵をかけ、友人知人にしかその投稿が見えないようにした。「リツイートもしんとこ」と言って、他人の投稿を紹介することもやめてしまった。真意は定かでないけれど、アカウントに鍵をかけた時、彼は「バズる」ということとその周辺の価値観への違和感のようなことを投稿していて、私はそうだなあと漠然と同意していた。

 この数年、行政や立法に関わる意思決定の場面で、私が正しいと思うことは、何度も何度も政府や世論に打ち砕かれてきた。それは、戦争や兵器や社会的弱者への対応や原発をめぐるようなこと。国会中継を見れば、政権与党が議論を尽くすことなく多数決をとる場面が何度も映し出された。民主的とはまるで言い難い、少なくとも少数者や弱者や年少者やこれから生まれてくる人たちの不利益を考慮しない意思決定が続き、何度も何度も何度も、もううんざりだと思った。
 そんな中で「検察庁法改正案に抗議します」というツイッターの投稿をきっかけに、法改正案が取り下げられた。改正案は内容も手順もとても適正だとは思えないものだったので、喜ばしいことだと思った。国会の外から国会の内に影響力のある働きかけがなされたのだということも、一つ喜ばしいことだと思った。
 だけど同時にむずむずとした違和感もあった。一つには、その取り下げが数に影響された意思決定であったということ。数百万というツイッターの投稿の「数」をぶつけたら法改正案を取り下げられた、というだけで、結局は政権与党の土俵に登り、一手押し出したに過ぎない。つまり、不誠実であることとか知性を拒絶した態度だとか不正義であることとか、そういったことそのものに対しては、依然としてまったく抗うことができていない。そして、数で勝負するということについては、誠実さや正義や知性は(誠実さや正義や知性を求められるが故に)まったく分が悪い。「検察庁法改正案に抗議します」という文言が、丁寧調の言い回しにして攻撃性を弱めることで声の裾野を広げようと意識したものである、という話はそれを如実に物語っている。
 もう一つの違和感は、その多くが、不誠実であることに異を唱えようと意識されたそれらの投稿が、消費されるべき情報になったということ。私は私の言動を私のものとして捉まえたいと思うけれども、もはやそんなことは不可能なのかもしれない。あらゆる人のあらゆる言動は、既にその人のものではない。そして、私のものとして捉まえていたつもりのものは、ただ共有価値がなく、誰にも見向きもされていなかったものに過ぎないのかもしれない。

 つい先日、書店で目についた本の頁をぱらぱらとめくっていて、金子みすゞが自死したのだということを知った。そんなことは周知の事実なのかもしれないけれど、知らなかった。「みんな違ってみんないい」とか、今も我が家で三歳の娘が歌っている。「こだまでしょうか。いいえ…」とか何度もテレビで流れた。震災当時、うちにテレビはなかったけれど、自宅にテレビがなかった私も方々で聞いた。何か、合言葉かスローガンかのように、時には揶揄されるように、あるいは時には誰かを勇気づけている。だけど、「みんな違ってみんないい」とか言って、みんなに言わせて、金子みすゞその人は自死していたのだと知ると、ぼかっと殴られたような衝撃があった。「揶揄するように」にせよ、「勇気づけられた」にせよ、言葉に含意以外のいかにも有用な価値をつけて、その言葉を発した人や文脈と切り離して広げていくというのは、これが消費以外の何であるか。
 書店でぼかっと殴られたような衝撃を受けながら、「検察庁法改正案に抗議します」というツイッターの投稿のことと、それから京都のドラマーのことを思い出していた。「私」が情報となること、あるいは実体のない数に集約されうる存在になるということの耐えがたさ。底知れなさ。

 そうして、都知事選があった。20時、開票と同時に小池百合子の当確が出た。投票率は55%。これもすぐに過去の話だろう。小池圧勝の事実も、55%という投票率も、20時に当確が出るという暴力的な報道も、桜井誠の17万8000票も、憤懣やる方ないことだけれど、憤懣やる方ないことであればあるほど、それらがコンテンツとして消費されて、ほんの数日でいかにも過去の話のようになるであろうことのむなしさは増す。その「憤懣」とそれに比例する「むなしさ」を書き留めておこうという趣意で、7月5日にこの文章を書き始めた。日を重ねながらつらつらと書き加え、今夜7月21日には、なるほど当然のように、都知事選はもう遠い過去の話である。おそらく、それは私の受けとめだけではなくて、社会の雰囲気として。
 情報の消費の原因を一つに定めることはとても難しいし、一つに定まるようなものではない。狭義の政治(行政・立法・司法)の問題であり、メディア・報道の問題であり、それを享受し発信する個人の意識の問題なのだろう。だけど、そもそも現在の社会や政治のあり方が、もう無理なんじゃないか。成り立ちえない形になっているんじゃないか。ぬぐいがたい無力感もあるけれど、そこからスタートするほかないんじゃないか。そんなことをぼんやり考えている。ぼんやりしているわけにはいかないので、考えている。

 個人の集合として社会があって、だから個人の尊重と社会の存続は、表裏を成すものである。現在の日本など(世界経済の輪に入る国や地域)では、社会の存続の為に高度な分業が成り立っている。個人の生存の基盤にあるのは食糧生産で、高度な分業が成り立っているというのは、それ以外の業に携わる人がとても多いということ。もっとも離れた業が、社会の存続のための調整役で、行政・立法・司法(・儀礼祭祀)である。民主的な社会であるというのは、その調整の是非について、全ての構成員がジャッジする権限を持つ制度があるということであり、個人のジャッジは一定の条件を満たせば、社会の意思決定に直接的な力を持つ。
 だいたいそんな考え方を前提として、そうすると、民主的な政治制度を健全に維持するために求められる個人の能力は、現実からかけはなれた超人的なものになってしまう。食糧生産と原発の是非と税制と量子コンピューターの価値と少子化に起因する諸問題と国防と医療制度と…、それらを正しくジャッジする前提知識を持ち、現在情報を咀嚼するというのはとてもじゃないけれど無理がある。しかも私たちは、日々の糧を得るために多くの時間を割かなければならない。
 そしてもう一つの成り立ちえなさは、そのジャッジに参加できない人がいるということ。都知事選に福島県民は投票権を持たないし(どれだけ東京に電気を送り込んでも)、在日韓国・朝鮮人や永住外国人、長期在留外国人の政治参加には高いハードルがあるし、これから生まれてくる人たちはどうしたって参加できない(放射性廃棄物を10万年管理するなんていう狂気の計画が、生まれた時から始まっていたりする)。

 社会は、外や未来と緊密に繋がり、今、民主的とされる意思決定の方法によっては、もう立ち行かなくなっているんじゃないか。それで思いは諦観に向かうのではなくて、だけどそれでも、よりよい社会を目指すというのなら、そこまでスタートラインを後退させるべきなんじゃないか。それが誠実な在り方なんじゃないかと思う。誠実であるというのは、考えるということに対しての態度の話です。
 そうして考える先は、そう簡単に収斂されるものではない。ないけれど、諦観や傍観は最も忌むべきものであって、怒りや嘆きや悲しさの発露は、まずあるべきものだと思っている。そして正義はある。正義の反対は別の正義ではない。正義の反対は社会に対する不公正である。正義は、ある。それはまだ実現されていないし、実現される確証はないけれど、それを目指さなければならないと思っている。

 それから、もう一つ。
 「私」を情報にしているのは他でもない「私」自身で、つまり情報を消費するということは、ある出来事を今ここにいる「私」と切り離して、出来事を「私」と関係ない時間や距離を隔てたところに認識しているということに他ならない。検察庁法改正や辺野古や原発や特定秘密保護法や武器輸出の解禁やそういったこと、それについて誰かと話したことやツイッターやブログに投稿したことや国会議事堂前に行ったこと、それを安易に過去形(完了形)で語り認識することが、「私」の言動を消費対象となる情報としている。
 旧約聖書が書かれた古代ヘブライ語は過去形という語形変化を持たない。だからそこでは「天地創造というのも過去ではなく、いまだ終わっていない」し、「時間の遠近法がな」く、「『すべての時代』が同居している」と池澤夏樹は言った。日本中の高校生が勉強する漢文(漢語)だってそう。(今漢文を教えるのなら、そういう言語での世界の捉え方にこそ切り込むべきなのではないかと思う。数百年数千年の時間の捉え方とか過去や歴史をどれほど重視しているかとか、それは出来事を過去として完了させられない言語であるということと不可分のことだろうし、仁とか孝とかよりそれこそが思想なんじゃないかと思う。)
 辺野古も福島も東京も京都も尖閣も隔てなく重なり合っているし、検察庁法改正も集団的自衛権の行使に関わる政府の解釈変更も都知事選も今まさに行われているところ。それは言葉の綾だけれど、まさに述べ方の違いこそが私たちの認識する世界の本質に肉薄する。何も終わっていない。すべてが今ここで進行している。

0603.早稲田法学部2003

2020年06月04日 01時10分25秒 | 色恋沙汰α
 昨年度、大学入試を解き漁っている中で、衝撃を受けた問題があって、それは早稲田大学法学部2003の現代文で、鵜飼哲の文章から出題された問題です。
 基本的に、現代文や小論文は、論理的な枠組みで物事を考えられるかという「型」の理解を問う科目です。だから、満点がとれます。とれるはずです。そして極端に言えば、中学入試から大学入試まで、偏差値の高低に関わらず、論理の基本の型は同じです。それは当然のことで、そもそも同じものを共有しているから論理は論理たりえます。だけど、ほとんどの受験生は、現代文で満点をとれないし、早稲田大学や東京大学の入試問題を小学生は基本的に解けません。なぜかというと、素材となる本文が難しくなるからです。
 2003年の鵜飼の文章はカントの引用から始まるもので、決して易しい文章、あるいは問題ではありません。ですが、今の社会の課題に対して問題意識を持っていれば、とても読みやすい文章でもありました。(受験生は、全然解けなくてかまわないので、とりあえず過去問をいくつか読んでみることをお勧めします。どのような文章を問題文としてもってくるかというのは出題者からのメッセージです。問題意識を共有できる人の文章はとても読み解きやすい。だから、どのような問題意識を持つ学生を大学が欲しているかということが、そこに見えます。)

 乱暴に要約すると、鵜飼の文章は次のような趣旨でした。
「『地球の表面は球面であり、人間は有限の地表面を並存しなくてはならない。根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を持つ者ではない。』とカントは言う。歓待(hospitality)は、「歓び」という感情ではなく、普遍的義務である。『起源の歓待』を受けた後、他者を迎え入れるという権能によって、主権は主権たりうる。歓待の思考は、具体的な歴史的現実の中にその糧を見出さなくてはならない。」
 そして、本文の後半では「具体的な歴史的現実」として対処すべき「今や緊急の課題」を二つ挙げています。一つは、その多くが学歴の格差に起因する路上生活者の問題、二つ目は、「外国人」の権利(無権利)の問題です。

 昨年、何があったか。台風で暴風警報が出る中、台東区が避難所での路上生活者の受け入れを拒否しました。牛久入国管理センターで収容者の無権利状態が訴えられ、大村入国管理センターでは、収容者がハンストに踏み切り、そして餓死しました。大きなショックを受けたニュースです。愕然としました。これらのことに向き合わずに「おもてなし」などと口にすることは本当に愚かしいと思いました。2019年はそういう年です。鵜飼の文章は、もう15年以上前の入試問題ですが、「緊急の課題」はまったく解決されていないし、むしろグロテスクに露呈されています。
 おもてなしは本来「根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を持つ者ではないので、普遍的義務として他者を迎え入れる」という精神であるべきだし、彼ら(台東区の路上生活者や牛久入管の収容者)を社会で受け入れる覚悟も持たずに、外に向けて口にすべき言葉ではない。

 それで、2020年には何が起きているか。以下、鵜飼の引用です。
「『初めに』『客』であったことは、おそらく、死にも比すべき外傷でさえあるだろう。主権が主権である限りその核に持ち続ける残酷さ、かつての日本の外務官僚の、「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと主権国家の自由」という発言にみられるような恐るべき残酷さは、このような外傷に対する反動として考察したとき、はじめてその本質が垣間見えるのではないだろうか。」
 ここで「死にも比すべき外傷」とは何かということが設問になっています。解答としては、「自分の意思と無関係に、あるいはほとんど偶然に主権を持たされたことは望まぬことであり、また誰もその正当性を担保できない」というようなことでしょう。だからその反動として、主権を振りかざし他者を迫害することによってしか主権の正当性を主張できない。かなり幼稚な残酷性ですが、今まさに日本で、あるいはアメリカで可視化されていることだと思います。写真は昨日の朝日新聞2、3面です。2020年6月2日です。


 例えば、早稲田大学法学部はこういう問題意識の文章を読ませています。受験生諸君、勉強しましょう。そして今、この国や世界で何が起きているか、しっかりと見ましょう。重なり合うときがきっと来ますから。

0529.Don’t be silent about///

2020年05月30日 01時02分38秒 | 色恋沙汰α
 父に叱られたことが三度ある。たぶんもっとある。はっきりと覚えていることが三つある。
 一つは、こたつの周りを走り回って、寝ころんでいた父のお腹を踏んづけてしまったとき。あの頃和室にテレビがあったからJリーグ開幕前の事だ(兄の粘り強い交渉の末、Jリーグ開幕からしばらくしてテレビはリビングに移り、食事中のテレビ観戦が認められた)。就学前だったようにも思う。(こんなところで昼寝している方も悪い…)とあまり納得してはいなかったが、(確かに痛いだろう申し訳ない…)とも思っていた。「外に出とれ!」と家の外に追い出された。
 二つ目は、夕食で食べた魚から大きな骨を発掘して、それを刀に見立てて母に「死ねえ!」と言ったとき。たぶん、35になる今までで一番大きな声で怒られた。弧を描く大きな骨は美しかったし、冗談ですらなく、するりと漏れ出た一言だったので、父の「なんてこと言うんや!」という声にめちゃくちゃびっくりした。「なんかテレビの真似やんな?」と母がフォローしてくれたけど、何かの真似というわけではなかったので、そうではないと答えると、場の納めどころがなくなってしまった。自分でもなぜそんな言葉を発したのかと不思議に思いながら、母に謝罪した。
 三つめは中学生のころ。夕食前の準備をしながら、テレビを見るともなく見ていた。あれはたぶんもんじゅか六ヶ所村再処理工場の再稼働のことだと思うのだけれど、原子力に関わる何かをニュースで取り上げていた。父はそれを見て憤っていた。「そんなのは父が考えるべきことではないじゃないか。専門家や政府が考えることで、父が何か言ったってしょうがないじゃないか。」というようなことを言った。たぶん半ば笑いながら言った。斜に構えた中学生からすると、父の憤りは社会正義を為すための義憤でありそれはかっこ悪い格好つけと見えた。父はチェルノブイリのことと太平洋戦争のことを挙げて、政府や専門家に任せて市民が知ろうともしないまま委任してしまうことがいかに危険で、悪い意思決定であるかを話してくれた。はっきりと怒っていた。叱られるというと少し違うけれど、憤りを隠さない父に「そんなのはだめだ」と強くいさめられた。釈然とはしなかったけれど、まさに、ぐうの音も出なかった。むすっと押し黙ったままその話は終わり、ぐうの音も出ないがやっぱり釈然とはしないままだったので、頭の中に引っ掛かり続けた。頭の中に引っ掛かり続けたから、度々思い出す。

 それからもう一つ、これは怒られなかったことだけど、右手に青油性ペンで『ダイの大冒険』の龍の紋章を、左手に赤油性ペンで鍵十字を書いたことがある。『ダイの大冒険』のテレビアニメを放映していたころだから、小学校1年生だか2年生だかの時のこと。母は絶句し、父はそれは何かと尋ねた。ダイの大冒険とアンネの日記で出てきたマークでかっこいいと思ったから書いたと答えた。それが何か知っているかと問われた。知らなかった。完全に消えるまで絶対に家から出てはいけないと言われて、サラダ油と石鹸で必死に洗った。怒られたり叱られたりは全然しなかったけれど、これは絶対にだめなやつなのだとはっきり分かった。

 それが何か自分の原点だとか、考え方を改める契機になったとかそういうことではなくて、だけどこういうことの積み重ねの上に私はいる。Don’t be silent about///

0528.夏の前には梅雨が来る

2020年05月29日 23時34分45秒 | 色恋沙汰α
 毒性の強いウイルスは、感染を拡大させる前に宿主を殺してしまい、だから自分の強さゆえに死滅してしまう。聞くとなんとも皮肉な話だなと思ったけれど、自分でタイプして言葉にすると、それは他者を征服する毒性の強さと生命の強さとは同じではないという、ただそれだけのことだと妙に納得してしまった。
 感染源(感染者)に接触しなければ感染は防ぐことができる。それはまあ自明であるということで、電車には乗らず、小一時間自転車を漕いで出勤を試みる。帰るころになって丁度雨が降り出した。けれど、雨の中を駆け抜けたって、漕げば身体は熱を持つしどうということはなかろうと漕ぎ出だした。雨はすぐに激しさを増す。篠突く雨に撃たれ、ぼたぼたとしずくを垂らして漕ぎつつ、家の傍に来たところで雨は弱まった。その時になって太腿に疲労を感じ、同時に手に力が入らないことを感じた。雨が身体の熱を奪い、熱を奪われた身体は収縮して体幹を硬直させたから太腿ばかりが疲れるし、寒さは感じなかったが、末端に熱は運ばれていなかった。ブレーキもままならず、自転車を降りるとすぐに身体の芯も冷えてきた。
 マンションの階段を昇りながら虹が見えた。昨日、娘(3歳)に読み聞かせをする絵本の中で虹が出てきて、「虹を知っているか」と問うと「知らない」のだと言う。大きな虹がくっきりと空にあるので、娘に見せてやろうかと思った。だけど、玄関を開ける頃には身体は冷えきって、娘は丁度風呂上りであったので、断念する。
 風呂に入りがちがちに固まった身体を温めながら、考えるともなく考える。新型コロナウイルスの感染拡大によって私たちの生活は一変したけれど、雨は当然ながらそんなこととは一切、全く、関係なしに降る。そして猛烈に私の熱を奪う。毎週末、娘と定点観測をする紫陽花は、ようやくつぼみから白い顔をのぞかせていた。自分は世界の中心ではないのかもしれない。自分とは完全に別の、自分が感じるのとは全然違う、時間の流れがある。もうじき夏が来るだろう。当然のことではあるが、妙に感心してしまった。

0526.焚火 -BURN EVERYTHING

2020年05月26日 23時22分24秒 | 色恋沙汰α
 二カ月近くに及ぶ在宅勤務がおわり、出勤の目途がついた。
 通勤時間がなくなる、それだけでも一日に二時間あまりの時間が生まれる。だから読みたい本もたくさんあった、観たい映画もあった、数学も生物も歴史も勉強したい、ギターもピアノも触りたい、書きたい。などと考えたけれど、0歳と三歳の子がいる自宅でそんなことができるはずもなかった。とにかく洗濯と掃除をした二ヵ月だった。
 この二ヵ月は、ほぼ毎日娘と朝ごはんを食べた。毎日家族全員で晩ごはんを食べた。新型コロナウイルスの第二波、第三波がまた来るかもしれない。先の事はまるで見通しがたたないし、それ次第でなんとも言えないえないことではある。あるけれど、感染対策がうまく進めば、死ぬまでこんな日々はもう来ないのかと思うと、えもいわれぬ感慨があった。得も言われぬとは読んで字のごとく、言葉にはしがたいなんともそらむなしい寂しさがあった。感染拡大の現状、足元から崩れそうな経済社会(その影響を身に受けている友人知人)、もはや崩壊している国会(その影響をあまりに無自覚に身に受けている私たち)を見れば、能天気に過ぎることは承知の上、だけどこの五年の疲弊した日々からすれば、やっぱりその食卓は夢のような時間でした。(おかわりをねだって頑なにごちそうさまをしない娘にどんなに手を焼いたとしても)

 昨日録画していたテレビ番組でヤマザキマリがイタリアでは本当に人の距離が近くて…という話をしていた。毎日家族で食卓を囲むこと、リビングで共に過ごす時間があること、因果関係ははっきりとしていないけれど、もしかしたらそれが感染拡大を助長していたかもしれない。少なくとも子から祖父母へという感染が確かにあった。
 自分がコロナ禍で不意に手にした何物にも代えがたい時間があって、遠く離れたイタリアではその時間が感染拡大を助長していたのだとしたら、あんまりじゃないか。皮肉とかいう言葉で片付けるには手に余る。誰に何を言えばいいのか分からないけれど、あんまりじゃないか、ちょっと神様出て来いよ、と思った。

 「木曜日から出勤するわ。」と妻に言い、しばらくぼんやりしていたようで、不意に妻が「転職したい?」と尋ねてきた。昼間、今後の計画の立てようがなく煮詰まった現状を愚痴っぽく言葉にしたこともあってだとは思う。またしばらくぼんやりと逡巡して「転職したくは、ないな。」と答えた。この「は」は対比的なとりたてで、言外に「職」以外の希望がある。勉強したい。この二ヵ月今の仕事のことを考えて、それはつまり子どもたち(に遺す社会)のことを考えることであり、考えるほどに勉強しなければと思った。まずは、数学と歴史と文法の事。私たちから見えている論理とは何で、私たちはどのように過去を認識しうるものとして今ここにいるのか。考えよう。そしてやっぱり働こう。よりよい社会を作るのだ。

焚火 -BURN EVERYTHING

0408.BUSHBASHのこと

2020年04月08日 11時52分50秒 | 色恋沙汰α
TIALAのCDのインナーにこんなことばがある。「急な前向きな考えなんて根っこの無い作りものの木みたいなもんだ。そこから逃げてるだけだ。現実逃避して自分を甘やかしてるだけなんだ。好きなことに没頭するのはそこに意味があるから、自分が一歩進んでいるから、誰かの一言がすばらしいのは、その人がたくさんの経験をしてきてそして考えて思ってたくさんのちいさなモノが積み重なっているから、それはすばらしい。」
もう15年も前、TIALAのライブを観て、この音源を聴いて、言葉を読んで、それからずっと胸の中にある。TIALAのボーカルが柿沼さんで、柿沼さんは小岩BUSHBASHというライブスペースの代表をしている。小岩BUSHBASHを立ち上げた柿沼さんと秋葉君ときくりんさんは、もともと小岩eMSEVENで働いていた。
小岩eMSEVENは僕が初めてライブをやった場所で、だから小岩eMSEVENにも彼らが立ち上げたBUSHBASHにも強い思い入れがある。このコロナウイルスとそれをめぐる行政の不実の中で、とても苦しい状況を乗り越えてほしいと思っている。
まだ大学生の頃小岩eMSEVENの受付の階段で、よく柿沼さんや秋葉君と話をしていた。柿沼さんがこんなことを言っていた。「ここに来なくなる人も多いし、音楽をやらなくなる人も多い。また戻ってくる人もいるしそれはやっぱりうれしい。いろんな生き方があるべきだけれど、好きなことを仕事にするくらいの覚悟は持つべきだと思う。」今さらそんな昔の話を引っ張り出されても迷惑かもしれないけど、この二つの言葉はやっぱりずっと僕の中にある。こんな15年も前の話を引っ張り出すのは、僕がそこにあまり行かなくなった人間であるということにほかならない。だからBUSHBASHに対して「応援している」とか「乗り越えてほしい」とかどうしたって他人事のような言葉になってしまうことはすごくもどかしいけど、自覚しています。
だけど、今、自分の仕事に誇りを持ってやっているし、僕は僕で「たくさんの経験をしてきてそして考えて思ってたくさんのちいさなモノを積み重」ねているつもりです。胸はってやっている。
それで、柿沼さんは、BUSHBASHは、もっとずっとこの言葉を体現し続けている人であり、場所であるとリスペクトしています。(尊敬というより尊重に近く、やっぱりリスペクトという言葉が一番しっくりくる)

それで、今、そのリスペクトをどうにか形にしたいと思うけれど、自分の無力さ加減に愕然としながら、Tシャツといくつかの音源を買いました。

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Music Space&Bar located in Koiwa/TYO. 東京都江戸川区南小岩7-28-11-101Phone:0...

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今、自分にできることは何かって、まずはやっぱり声を挙げることだと思った。自分の事ではなくても、行政に対しておかしいと思うことを「おかしい」と言うこと。「自分は今こう考えている」と言ううこと。考えが変わることはあって当然だと思う。
二つ目に、僕の場合は、決して裕福ではないけれど、雇用や賃金が安定している立場なので、特に個人事業主のところでお金を使っていくこと。行政から出てくるのが、雇用者にたいする助成ばかりなので、おかしいだろと声あげながら、めちゃくちゃ微力だけれど金を使う。

自分が音楽をやるうえで、柿沼さんと西田さんには本当に感謝してもしきれないほど感謝しているし、BUSHBASHとSENSELESSRECORDSには(勝手に緩やかな連帯を感じるほどの)特別な思いがあるし、考えはまとまらないけど、BUSHBASHTシャツの受注生産がとりあえず今日までっていうから、思いがある人は買いませんかっていうお誘いです。

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納得のいく大きな流れがあればそれもよいし、けどまあ賃金の安定している被用者はそれぞれにメトロやベアーズやUPLINKや、それぞれ思いのあるところに出せるお金を使い続けませんかという話です。あと、こんな時はもちろん、こんな時になる前に、そもそもやっぱり顔見えるお店で買い物すべきだなって、岸野雄一さんいつもいつも言ってるもんなって、思う。よりよい社会をつくりましょう。はい。

0226.ホットペッパービューティ

2020年02月26日 02時15分48秒 | 色恋沙汰α
 東京スーパースターズの曲をホットペッパービューティーで使いたいって話があって、それはまあ喜んで!って、思って、再録して、提供した。
 それでいろいろ思うことも言いたいこともある。それは音楽のこととか、書いたり歌ったりする「仲野」のこととか(結婚して、仕事は新しい姓でやっている)、子育てのこととか(正確には育てるだなんて大それたものではなくて、子が育つことを真横で見ている刺激と喜びとか)、そういう生きていく前向きなポジティブなこととか、ある。あるけど、今はとにかく日本の民主主義が、もう、がらがらーと音を立てて壊れそうになっている所を目の当たりにして、今自分は何を語るべきかって立ち尽くして言葉を失くしそうになったりしている。
 とにかく政権が記録を残さない、書き換える、こういう風に国家は描かれ、言わば過去は変わりうるのだ、ということをまさに目の当たりにしている。歴史や過去はまったくもって確固としたものではないし、「歴史」を学ぶことは、客観的ではありえなくって「ある主体が歴史をどのように叙述しているか」を知ることに過ぎないということを身をもって感じている。20世紀の終わりごろに僕たち始まって、2020年にこんなこと信じられないけれど、目の当たりにしている。
 そして、この政権が30%とか40%の支持率を誇っている。恐怖の現実だ。子どもたちの未来とか、思ったことを表現して生きていくポジティブな生活が脅かされているという恐怖が目の前にある。毎日更新される。ホットペッパービューティーとかの話だけしたいけど、今何を語るべきなのかって突きつけられているかのように感じてしまう。

 現政権が民主主義を壊した、あるいは壊しているというのは不正確なんじゃないかと思っている。そうではなくて、ただただ民主主義とか民主政治とかの限界を明らかにしているんじゃないか。近代以降、多くの国家が採用する間接民主政治は、多分に、民を代弁する政治家たちの知性に頼っている。現政権は、知性に頼らない。全く重視しない。イメージと全体の雰囲気だけを操作する。そうするとどうなるか。こうなる。危機に対抗する力がなくなる。
 現政権は、代理で議を尽くすものたちの知性がこのシステムを担保しているということを明らかにし続けている。安倍内閣は、「知」もなく「徳」もないもの、だから小人とか愚者とか、言葉にするとそういう代議士の集まりだし、それを恥じも隠しもしない。(国会中継を10分でも見れば一目瞭然だし、その延長に足立とか丸山みたいな議員がいる。知性や誠実さを放棄すれば彼らみたいなものも議員でいられる。)そして堂々と、国家のど真ん中で、歴史を書き換え続けている。歴史は今と隔絶された遠い過去の話ではないし、歴史を書き換えることは、そこからつながる今を書き換えることでもある。にわかに信じがたいけれど、知性と恥を棄てれば(それで、いくつかの人事権と有能な広告代理店に手綱をつければ)、僕(ら)が無邪気に信じている民主主義の理念は、簡単にひっくり返せるということを現政権は証明し続けている。

 それで、恐怖と憤りを覚える。どうすべきなのかって考える。この期に及んで、中立であろうとするメディアに、いやもう本当にいい加減にしろよって思う。誠実と不誠実、知性と反知性、そんなものの中立に立つ言葉に何の意味があるか。マスにアプローチするメディアの存続の岐路だと思う。誠実に知性を保証することがマスメディアの生きる道だと思う。この国とか国民の生活を守るための、石を投げる以外の手段が君らの手にはあるじゃないか。まだそこにチャンネルあるんだから。だから誇り持ってやってくれよ(闘えNHK!)って思う。(政府が言わなかったこと。答えられなかったこと。やらなかったこと。それこそが伝えられるべきことでしょう)

 それで憤懣やる方ないって思うときもあるけれど、だけど、希望はある。
 カズキ君が夜開くパンクのレコード屋をやるとか、柿沼さんがDEMOCRACY REVENGEって書いたTシャツ着てマイクを握っているとか、イチカワ君が休日になるとスケボーやったり喫茶店でコーヒー飲んだりしているとか。国会前行ったら、シマ君とかシマ君とかユウマ君とかに会うとか。salt of lifeがテープを作ったとか、DAIEI SPRAYがアルバムを作ったとか。そうやって「私」の生活を作ったり、守ったりしようとしている友だちがいることは希望です。
 それで、僕は何やるかって、もう教育しかないと思っている。いや、教育しかないことないけど、とにかく今、それをやろうって。僕(ら)のポジティブな生活を守ろう、子どもたちへの負債を少しでも少なくしよう。そう思ったとき、メディアみたいな即効性はないけど、石投げる以外で僕にできることが教育だと思うから。知性とは何か。伝えたいし、考え続けている。藤江、松本、勉強しろ。自分が何者であるかをつかまえろ。死ぬまで勉強しろ。

0921.知ること

2019年09月22日 00時56分46秒 | 色恋沙汰α
 愛おしい我が子に搾乳をあげながら、普段見ないテレビをつける。チャンネルを回す。
 NHK Eテレ(NHK教育とは今は言わないのでしょうか)でETV特集「辺野古 基地に翻弄された戦後」という番組を放送していた。見た。辺野古のことをメディアで目にしたのは、いつぶりだろうか。それで、目にしなかった間、辺野古だとか基地だとかいうものがどれくらい意識に上っただろうか。怠慢だ。
 100万回言い古されたことだとは思うけれど、知ろうとし続けなければならないのだと思う。この数日、数カ月、数年、憤りを覚えたり、悲しいほどの無力感に襲われたりすることが多くあった。考えはまとまってはいないのだけれど、知ろうとし続けることが大事なのだろうと思った。
 地元が基地容認に傾くのはなぜか。地域振興という見返りがあって―、それを必要とする経済的貧困があって―。基地の見返りでなければそれを解消しないという政治は明らかに不正義であるけれど、私たちは知ろうとしなければ、そして彼らは私たちであるという意識を持たなければ、それを追及しようとも、すべきだとも思いもしない。知らないことが、当事者たちの分断を助長するし、基地を押し付けるし、そのメンタリティの延長で、基地が攻撃されれば見殺しにするだろう。沖縄戦で数万もの人を殺した。
 
 沖縄の事だけではない。福島のこともそう。東京電力旧経営陣は責任を負わないという判決が出た。これだけの大規模な事故を起こして、運転者が無罪という判決なら、予測できないリスクを内在しているすべての原発は停止されなければならない。地震だとか津波だとか火山噴火だとかにたいしてどんなに安全対策を講じても、どんなリスクがあるのか、予測すらできないというのだから、仕方がない。だけど原発は止まらない。今、福島はどうなっているか。今、どれだけの原発が動いているか。知ろうとし続けなければならないのだろう。
 先日の千葉の台風被害で痛感した。東京の真横で、こんなに復旧に手間取るし、被害の全容を把握すらできない。知ろうとしないことが、そのまま見殺しにすることなのだ。私たちが、そして政治が。

 「過ちは繰り返しませぬから」というのは本当にそうなのだと思う。知ろうとし続けること、そして正しく記憶し続けることが誠実であるという事なのだと思う。ではそれは何に対して誠実であるということで、あるいは何に対して誠実であるべきなのかというとまた考えは散る。