昨年度、大学入試を解き漁っている中で、衝撃を受けた問題があって、それは早稲田大学法学部2003の現代文で、鵜飼哲の文章から出題された問題です。
基本的に、現代文や小論文は、論理的な枠組みで物事を考えられるかという「型」の理解を問う科目です。だから、満点がとれます。とれるはずです。そして極端に言えば、中学入試から大学入試まで、偏差値の高低に関わらず、論理の基本の型は同じです。それは当然のことで、そもそも同じものを共有しているから論理は論理たりえます。だけど、ほとんどの受験生は、現代文で満点をとれないし、早稲田大学や東京大学の入試問題を小学生は基本的に解けません。なぜかというと、素材となる本文が難しくなるからです。
2003年の鵜飼の文章はカントの引用から始まるもので、決して易しい文章、あるいは問題ではありません。ですが、今の社会の課題に対して問題意識を持っていれば、とても読みやすい文章でもありました。(受験生は、全然解けなくてかまわないので、とりあえず過去問をいくつか読んでみることをお勧めします。どのような文章を問題文としてもってくるかというのは出題者からのメッセージです。問題意識を共有できる人の文章はとても読み解きやすい。だから、どのような問題意識を持つ学生を大学が欲しているかということが、そこに見えます。)
乱暴に要約すると、鵜飼の文章は次のような趣旨でした。
「『地球の表面は球面であり、人間は有限の地表面を並存しなくてはならない。根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を持つ者ではない。』とカントは言う。歓待(hospitality)は、「歓び」という感情ではなく、普遍的義務である。『起源の歓待』を受けた後、他者を迎え入れるという権能によって、主権は主権たりうる。歓待の思考は、具体的な歴史的現実の中にその糧を見出さなくてはならない。」
そして、本文の後半では「具体的な歴史的現実」として対処すべき「今や緊急の課題」を二つ挙げています。一つは、その多くが学歴の格差に起因する路上生活者の問題、二つ目は、「外国人」の権利(無権利)の問題です。
昨年、何があったか。台風で暴風警報が出る中、台東区が避難所での路上生活者の受け入れを拒否しました。牛久入国管理センターで収容者の無権利状態が訴えられ、大村入国管理センターでは、収容者がハンストに踏み切り、そして餓死しました。大きなショックを受けたニュースです。愕然としました。これらのことに向き合わずに「おもてなし」などと口にすることは本当に愚かしいと思いました。2019年はそういう年です。鵜飼の文章は、もう15年以上前の入試問題ですが、「緊急の課題」はまったく解決されていないし、むしろグロテスクに露呈されています。
おもてなしは本来「根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を持つ者ではないので、普遍的義務として他者を迎え入れる」という精神であるべきだし、彼ら(台東区の路上生活者や牛久入管の収容者)を社会で受け入れる覚悟も持たずに、外に向けて口にすべき言葉ではない。
それで、2020年には何が起きているか。以下、鵜飼の引用です。
「『初めに』『客』であったことは、おそらく、死にも比すべき外傷でさえあるだろう。主権が主権である限りその核に持ち続ける残酷さ、かつての日本の外務官僚の、「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと主権国家の自由」という発言にみられるような恐るべき残酷さは、このような外傷に対する反動として考察したとき、はじめてその本質が垣間見えるのではないだろうか。」
ここで「死にも比すべき外傷」とは何かということが設問になっています。解答としては、「自分の意思と無関係に、あるいはほとんど偶然に主権を持たされたことは望まぬことであり、また誰もその正当性を担保できない」というようなことでしょう。だからその反動として、主権を振りかざし他者を迫害することによってしか主権の正当性を主張できない。かなり幼稚な残酷性ですが、今まさに日本で、あるいはアメリカで可視化されていることだと思います。写真は昨日の朝日新聞2、3面です。2020年6月2日です。
例えば、早稲田大学法学部はこういう問題意識の文章を読ませています。受験生諸君、勉強しましょう。そして今、この国や世界で何が起きているか、しっかりと見ましょう。重なり合うときがきっと来ますから。