私の中国投資・出張・旅行日記

約30前に香港より当時広州への航空便が難しく、汽車にて中国本土広東省広州に入国し、光景にビックりしたのが始まりです。

水の都済南 ⑩-102

2009-02-28 10:49:43 | Weblog

水の都済南 ⑩    済南は『マルコ・ポーロの東方見聞録』にも水の美しさを称えられた景勝地ということで青島を朝早く一路出発しました。済南を訪れた目的はこの地の特産物である蜂蜜を輸出したいという先方の意向と研修生派遣の問題でした。この当時は固定電話も少なく、まして携帯電話が無い時代で連絡もままならなく、青島から済南まではかなりの道のりがありました。済南からの迎えの車で灘坊・溜博(帰途この地の見学をしました)をへて高速道路で目的地に向かいました。この当時の高速道路は車も少なく、郊外農村地帯にある中国の高速道路(土盛り)は一直線の路が多く道路を横切る農民が時には居り、そこを目的地まで決められた時間までに赴くことは大変でした。時速約150㎞高速道路といえども道は凹凸が多くバウンドすると大変で思わず吊革を持つ手に力が入りました。ここで事故があれば連絡の仕様もなく駄目だなと思いながら後部座席に乗車しておりました。その様な道を経て済南のホテルに到着しました。その当時のホテルの入り口の写真でこのホテルが問題でした。ホテルの名は〝南郊賓館〟済南市の南に位置したホテルで大きな敷地の中にあり、入口門には銃を構えた兵士が数人駐在しておりました。ビックリ仰天、次回はこのホテル等について書きたいです。      

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青島靴下工場見 ⑨ - 101

2009-02-22 00:22:10 | Weblog

青島靴下工場見学⑨    当ブログNo.93に記載しました如く、この写真も一連の約15年前に写したもので、当時靴下製造業者の方には参考になるのではないかと写した写真です。大変古い機械で修繕しながら使用していると言い、他の工場はもつと古い機械をも使用しておりました。広東省では数年前まで中古の印刷機械を欲しいとよく言われ、壊れた機械を如何するのか問えば、印刷機械を専門に修理復元する工場を見学しては如何かと聞かれ、その工場の見学に行きました。部品が既に調達出来ないため、小さな螺子1本まで手造りで製作し復元をしておりました。日本では危険と廃棄されていた随分古い型の紙裁断機等も現在よく使われています。この当時、製品製造機械は概ねこの様な状況下で靴下等の製品を製造しておりました。しかし、人口が多く労働力が豊富にあり、教えれば優秀な人材になる人も多く、其の内日本の布帛製品への影響を当時強く感じました。翌日早朝"水の都斉南"へ出発予定。         

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青島布帛工場見学 ⑧ -100

2009-02-17 21:35:42 | Weblog

デニム工場等事情 ⑧       当ブログNo.99の写真は前回紹介し落としました写真後方に写る立像は有名な魯迅像で皆様も当地を訪れご存じだと思います。その向こうは匯泉湾で、海水浴場もあり此の辺りは青島十景の一つで風光明媚な処です。この近くには旧国民党の蒋介石別荘もあり、満州国当時の日本人街も残り(最近の新聞報道では旧日本人街を取り崩し再開発するそうです)、往年は見晴らしの好い高級住宅街を思わせる佇まい残した地域でした。当地ではデニム工場・作業用綿の靴下工場等中心に視察見学しました。当時広東の公司との間で作業用綿の靴下を多量に輸入していた関係で、より一段輸入促進を図って欲しいと言う意向で工場を見学しました。当時中国青島地域では韓国等の繊維製品の下請けの仕事を多く受けており、直接の交易を望んでいました。当地での役人・工場関係者はその当時日本からの直接投資が少なく、美国等は多くの投資・合弁がある、何故日本は少ないかとよく聞かれました。私が考えますに政府挙げてその当時は旧満州国の影響が在ったのではないかと思います。政府関の事業を省き、民間での交流等は問題が無いように思いました。旧日本国の思想から一部の議員・役人に前の大戦への考え方に農耕民族である中国、実際は人口が多いため狩猟民族的な考え方が多く見られる中国民へ対応・考え方に問題が潜在するように何時も思います。   

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青島到着 ⑦ -99

2009-02-13 22:48:34 | Weblog

青島到着 ⑦   当ブログNo.93に記載しましたトラブルの後青島空港に夜遅く到着しました。その当時空港は修理改築中にて到着出口まで薄暗く、手探りのような雰囲気で進んだ事を思い出します。その時間にも関わらず迎えの人が待っていたのには驚きでした。前にも記載しておりますが電話・公衆電話が少ない時代に、今回のように不測の事態で遅くなっても相手への連絡が良くされている事に感心しました。中国人は一般的にはお客への歓迎の意の伝え方が上手です。何時も一応熱烈歓迎で、先ず遠方より萠友が訪ねてくれた事に感謝の意を表わし、滞在期間を有意義に過ごすための予定内容を確認する。その後、食事を始める前に改めて熱烈歓迎を申し述べ、今回の訪中の成果を祈念し、仕事・健康を祝わう詞等を述べます。それに対し訪問者はそれに感謝し、訪中の成果を達成する事を祈念・確信、健康を祝し今回の訪問を成功させましょうと、返答の言葉を申し述べ乾杯をして食事を始めます。この日は到着が遅く食事もキャンセルし、先ずホテルへと案内されました。宿泊したホテルも約20年間の合弁とか言っていました。写真は青島の黄海を見下ろす風光明媚な処で、次回皆様よくご存じの青島での工場見学等を紹介します。     

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ホテル事情 ⑥-98

2009-02-10 21:34:19 | Weblog

賓館事情 ⑥    写真ホテルはある東アジアの国との合弁にて建てられたホテルでした。当時は外人を迎えるホテルが少なく、色々な国の資本と合弁にてそのようなホテルが多く建てられておりました。一般的には中国側は人・土地等を提供し、相手方はお金・色々な運営ノウハウ等を提供していました。私がこのホテルでビックリした事は色々ありましたが、1階のトイレで大きい方に入った時隣との境壁に問題がありました。それは私には問題でその他の人には問題が無かったかもしれませんが、境壁の下部分が床より40~50センチ近く上がった部分から境壁があり、下よりの開口部分が大きかった事です。その当時公衆便所と言われる処では一般的に扉は勿論無く、溝に跨り前との隔たりは50センチ程度の高さの衝立がある程度にて、勿論その場に座れば肩から上は丸見えです。その場に立った状態は想像がつくと思います。今でも北国に行き公衆の市場・商店街等の便所には扉の無い所があります。それでも最近は改善されております。      

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