私の中国投資・出張・旅行日記

約30前に香港より当時広州への航空便が難しく、汽車にて中国本土広東省広州に入国し、光景にビックりしたのが始まりです。

上海市内泰康路芸術街(田子坊)-3

2019-06-07 11:25:58 | Weblog

上海市内泰康路芸術街(田子坊)223-3  前回2回に渡り記載しました田子坊については観光地でもあるため、訪問された人も多くありますがもう少し写真を掲載します。未開発の芸術家村路地が発展的にショッピングエリアとなったために、迷路のように店舗が入り組んでいます。物販・飲食店が軒を連ね日本の店らしき店舗もあります。レストランは中国料理以外の各国料理店も多い。現在では豫園や新天地に次ぐ上海の観光ショッピングエリアとなっています。

     

 


張府内部施設-2

2015-11-08 16:42:07 | Weblog

張府内部施設-2

軍閥と張学良-222   当ブログ221の続編。写真は張軍閥の居城のようなもので入口に建てられている銅像は息子の学良で彼の人生は「波乱万丈の人生100年」と言われています。内部は大変整理され見学しやすいようにされています。建物はその当時では様式でモダンな様式です。私が最初に瀋陽を訪れたと時には中華人民共和国内では評価に問題があったようで庁舎は整備されず見学が出来なかったと思います。

近年評価が変わったようです。最近の中国は豊かになり数年前より国内旅行が盛んになりました。私が中国人に交じり上海より十数年前(香港人以外。外国人は私1人)中国国内を旅行した時に驚いた事は、朝は8時出発帰りホテルに到着は午後8時以後、夜食は午後9時頃とハードな日程でした。そして各行先夫々は大変な人で施設に入場するには長い列の入場待ちでした。掲載の写真でも観光人数が多いのは感じられると思います。その頃の国内旅行者層がビサの緩和とともに日本に来ているのではないでしょうか。日本でラーメン店などに入るのに長者の列をなす中国人は行列に慣れているのではないかと思います。      

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広東省寺院風景-220

2015-01-12 18:48:26 | Weblog

広東省寺院風景

 

発想の転換‐220   永年中国に渡り合弁をして事業の展開を志してきました。相手方の一人の当事者が共産党党員の高級経済士(日本での国家公務員上級職合格者の名称)の資格がある為、資格社会の中国では地位の昇進が早く市・省の重要なポジションに次々に就きました。そこで当社は発想の転換をはかり、現在彼が出来うる事業の展開を志し、その為に当方の通訳を伴い指定の場所に赴きました。当方の通訳を同伴したのは中国では重要な仕事の打ち合わせは相手の通訳を通じては出来ない。それは利益の配分に関し特殊な打ち合わせが必要だからです。打ち合わせでは当時新規拡張空港の設備に関する発注・ゴミ処理に関する計画等の大規模な事業計画の一部への参画でした。その案件を持ち帰り日本の上場企業に問い合わせたところ日本の弱小企業の持ち込んだ案件には色好い返事がもらえなかった。このような大案件は商社を通じ来るものとゆわれました。中国では当時商社と言うもの否定しておりました。この事業案件はすでに完成をしております。又、上記人物は現在ある省の大幹部です。中国はこの十年GDP日本の数倍の勢いでのび、数年でアメリカを凌ぐ勢いは周知の事実です。掲載した写真はこの話をした際帰り路案内された寺院です。寺院は広東省内ですが名前・位置等の関係は不明です。     

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済南より淄博・濰坊へ

2014-05-05 22:50:53 | Weblog

斉南より淄博・濰坊へ

 

済南より淄博・濰坊市‐217    済南から出発し淄博では菓子工場等を見学し研修生の派遣に関連し会合を開きました。当淄博市は山東省中央部に位置し東に濰坊市に接します。陶磁器・絹織物の里とし有名で、春秋戦国時代の国家、斉の都とし有名な地方です。因みに友好都市とし新潟県加茂市があります。この地には釣り師の代名詞“太公望”という呼び名で知られている周の軍師、後の済の始祖である呂尚の出身地です。見学相談記念撮影後市の女性書記の方達と今後について相談をしながら食事をしました。そのおりに出された料理には驚きました。珍品との事ですが蝉の幼虫のアンカケ、サソリの揚げた品、サソリ入りのスープ等が出されビックリしました。その後思った事は中国では生きた物は基本的に全て食するということです。食事後一路青島市の西濰坊市へ向いました。濰坊市は歴史文化都市であり名所旧跡が多く観光資源が多くあります。その中でも“凧揚げの町”として世界にその名を知られています。濰坊市の人民政府はアメリカ人の提言に基づき濰坊国際凧揚げ大会を開催し、その後一年に一回世界凧揚げ大会が行われるようになりました。濰坊の民間工芸には長い歴史があり、凧・年画・切り紙細工・玩具等は数百年の歴史があるようです。其の中の凧博物館等を見学しました。此の頃の中国は発展する為に国家をあげ努力していたように感じられ、今日世界第二のGDPを有するようになり、中国流覇権主義が感じられるようになったようで残念です。      

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青島より済南-216

2014-03-05 11:16:46 | Weblog

青島より済南-216

青島より済南‐216      №.215より続き青島より済南への旅です。上海より青島へ飛行するにトラブルをへて、夜中に青島に到着し遅い夕食を終え翌日一路青島内の縫製工場等・旧日本人街を見学。写真の日本人街は海岸沿いの小高い処に位置し大変過っては風光明媚な処であったと思われます。近くには蒋介石の別邸が在り観光名所になっていました。因みに蒋介石の親衛隊は山東省民で後に台湾の外省人となったようです。日本人街の家に現在は中国人が住まいしているそうです。昼食をして一路高速道路等を経て済南へ向かいます。此の高速道路の乗車状況は過去に一部記載しております。この済南ご存知のごとく山東省の省都であり、古くは春秋戦国時代には濼邑と呼ばれ、済の国と都として栄えたところです。別名水の都と言われ水が豊富に湧き出ていたそうですが現在は工業用水確保の為公園の水を制限しているそうで有名な公園の庭の池も干上がったりし汚れていました。詳しくは当ブログ№99~105に過去に記載済みです。先日中国重慶での一大事件の裁判が行われた地方です。済南の有名な公園は写真にある趵突泉公園です。此の当時は中国も発展途上でこの地より研修生の派遣・蜂蜜の輸出を打診され当地を訪問しました。此の当時宿泊したホテルは過って毛沢東をも宿泊したと言われたホテルで、入口に銃剣をもったガードマンと思われる人物が監視をしたホテルで門の外は庶民が多く自転車(この当時は自転車が主流)で往来をしておりました。塀で囲われたホテルは低層階建てで長い広い赤絨毯敷きの廊下には所々詰め所が在り従業員が配されて監視をしていました。静寂で気持ちが悪いような雰囲気でした。この『南郊賓館』は現在改装改築変名されているようです。過ってはホテルの中に多くは外人向けの売店があり、此の当時は人民幣に比較し割高な『外換券』と称する貨幣に替えてのみ使用可能でした。その後、外人も『元』(人民幣)にても使用できように替わり『外換券』はなくなりました。私は其の売店での掛け軸を購入しましたが、其の購入した軸に描かれたのは虎です。虎の掛け軸は多く見られますが気に入るのはなかなかで此の軸は気に入り、帰国後日本式に表表装替えを致しました。中国の掛け軸は文化の違いで表装が違います。もう一方後方より描いた後ろ向きの虎は最近瀋陽で購入し表装替えをした物です。写真はアナログをスキャンしたものです。        

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