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私の中国投資・出張・旅行日記

約30前に香港より当時広州への航空便が難しく、汽車にて中国本土広東省広州に入国し、光景にビックりしたのが始まりです。

中国のレストラン事情-108

2009-05-13 19:00:25 | Weblog

中国式食事事情     濰坊での食事写真に写るはレストランでの写真ですが、一般的にその当地で外人が食事する様なレストランは大きく、現地の人が日常食する処は一般的に日本の街角にあるような食堂の店構えで大きくはありません。大きなレストランは普通は写真の様な小部屋があります。この部屋の使用条件は色々ありますが、食事代はその部屋の最低限度額以上を食する事が条件の場合が多いです。レストランは大きいため喧しく、中国語のピンインの関係か声が大きくテーブルを囲んでいても騒音のため相手の声が聞こえない場合があります。そのような状況の為、数人の時はこの様な小部屋にて食事をします。小部屋には必ず専任の給仕が付きます(立って仕事をしている)。高級なレストランですと部屋の大きさに関わらず多くの専任給仕がつきます。当地は田舎ですからこの様な部屋です、この部屋で蝉の幼虫(原形をとどめた)のアンカケ料理を食べました。中国では一般的には上席の位置にお客、その隣は主招待者が座りそして通訳が近くに座ります(私の席は手前の空席)。食事前には遠路遥々当地においで頂き有難うに始まる挨拶が在り、それに対しお客は色々状況に応じ返答挨拶をするのが常です。同席の皆様は青島からの同伴役人と当地の役人さん達です。 

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済南滞在一路帰途へ-⑭ 106 

2009-04-30 22:14:38 | Weblog

済南滞在淄博・濰坊へ ⑭     愈々帰国の途へ済南から青島への膠済線の途中に位置し、距離的には淄博(ツーボー)濰坊(ウエイフアン)約1/3各等地点距離にあります。淄博は春秋戦国時代には斉の都城として栄えた古い町です。近年(1966年頃)発見された勝利油田があり、道路沿いに汲み取りの井戸が立ち並んで異国という感じがしました。ここは地下資源も豊富にあり伝統工芸も盛んです。 司馬遷の『史記』に既に記載があり姜・斉・田斉の都として繁栄した過去があり、市内には多くの古塚が残っています。又、斉国故城等には水路、道、住居跡などその当時の町作りの様子が残っています。斉の君主の墓と云われる墓があり数百頭の多くの馬の殉死体が発見されているそうです。この当時、私は当地にあまり関心が無くこれ等の写真が残っていません残念です。この地では菓子工場・靴下工場を見学し、菓子工場が印象に残り試食と製造工程を見学した時の写真です。衛生面はさておき全て手造りで大変美味しいクッキーでした。次回は濰坊(ウエイフアン)へ行き変わったものを食べました。    

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済南仕事・観光記 ⑬-105  

2009-04-23 23:00:48 | Weblog

済南滞在仕事・観光記 ⑬   日本ではあまり口にしないような物も中国で食べますが、基本的には人口が多く食べ物が不足気味の為、動物・昆虫類も生きている物は一応何でも食べる。植物は毒を持つと言われる物以外は食べる。遼寧省で聞いたところではつい最近まで北朝鮮近く吉林省の延吉では木の皮を食べていたと28歳の女性が言っておりました。10年程前まで木の皮を鹿の如く食べたのでしょう。因みにこの辺りは鹿の肉を水炊きにしてよく食べます。その当時済南で食べた名物料理とは一般的には砂漠に住み猛毒を持つサソリでした。サソリその物を油で揚げ、大皿に歩いているが如く円形に並べ、その外側には色々なゲテモノと言われる類の物が飾られて出された時はビックリしました。後日サソリを食する事について聞いたのでは24時間電灯を照らし、そして電気で高温を保ち養殖をして毒は取り出して薬とし、サソリその物は料理に使用するのだそうです。その後、気をつけて観察すればスープ等の出汁の具には多く使われております。しかし、スープに使用したサソリは形をなしていないので説明を受けるまで分かりません。その当時はビックリして食べられず中国人は生きている物は何でも食べるんだと思いました。残念ですがサソリ料理の写真はありません。写真はホウトウセン公園内です。   

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済南滞在観光 ⑫-104

2009-04-12 19:56:03 | Weblog

済南滞在仕事・観光記 ⑫    約15年前の上海・山東省の旅〝南郊賓館〟宿泊翌朝ホテル前の路は自転車で一杯で走れないくらいで迎えの車に乗り蜂蜜輸入・その他の打ち合わせの為、公司事務所に向かい山東省の蜂蜜の特徴等を聞き精製工場を訪れ製品精製過程を見学する。滞在期間が2泊の旅ゆえ昼から市内観光に通訳さんと出かけました。済南市街に点在する泉は殆んど公園になっており、其々独特な趣を持っておりました。黄河が近くを流れており河岸からは雄大な自然の風景が楽しめるそうです。その公園の幾つかを見学しましたが区別がおぼろげです。多分掲載写真は趵突泉公園の入り口近くにある詩を記載した石碑です。ここは市内72泉の王と呼ばれた名泉で園内には詩人の記念堂、古代の建築物・石碑等が多く在りました。しかし、その当時感じた事は多くの水を噴出していると言われた泉の水が汚れ、水量が少なかった事です。その当理由を尋ねれば多くの地下水の汲み上げで少し枯れてきている為と説明をうけました。この日の夜は名物料理を用意しますと言われ期待し出かけることにしました。追伸:私議ながら最近事務所の移転・研修生の問題・中国の要人の招聘等と多忙極め身を病みブログを書くことが出来ませんでした。     

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済南滞在記⑪-103

2009-03-17 23:14:23 | Weblog

済南滞在記 ⑪    済南は春秋戦国時代には櫟邑(らくゆう)という名称で呼ばれ斉の都として栄えていたそうです。その後、漢代になり済水の南に位置する事から済南と改名された地です。現在は山東省の省都で古くからの景勝地で市内には多くの名泉があり別名『泉城』と呼ばれています。その地の〝南郊賓館〟は市内南にその当時はありました。正面入り口には兵士が番人として駐在し、その兵士は銃剣を保持しており塀でめぐらした敷地正面入り口は閉ざされ横の小さな通用門より出入りしました。その門より30メーター程度入った本館前(⑩の写真)で写した写真です。本館の入口を入り右側にうす暗いフロントがありました。フロントより1F宿泊部屋に案内された時、最初にビックリしたのは一直線の廊下の広さと廊下に敷かれた真っ赤のカーペット、そして廊下には各所に詰め所が在り女性が監視して居りました。一般的にはこの当時廊下には詰め所は在りました(現在は特別な時以外は一般的にはありません)がこのホテルは特に多く在った事が記憶にあります。その館内には書・掛け軸・その他が展示され、当ホテルは政府最高要人も宿泊した事があると言われる格式高い館で、そして有名な書家・絵描きの作品が陳列されていると説明されました。私も陳列物を観て是非とも購入したいと思った掛け軸がありました。それは越冬中の“虎”で毛が茶色に変色した様子が大変細かく描かれた軸と“鯉”が一匹大きく書かれた軸でした。中国では鯉が一匹のみ描かれた絵は少なく、多くは中国の縁起で鯉の数が7~9匹描かれた絵が多いです。その当時として軸は大変高価で購入をためらい、私は何度も観て・考えトラを購入しました。その後色々な地域で鯉の絵を観ますが、今もあの鯉の絵を想い購入しておけば良かったと悔いています。明日は仕事・水の都の市内観光です。     

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