サファイア

日記です。

67回目の原爆記念日

2012-08-06 19:32:59 | 思ったこと

晴れているのに~   大きく覆い被さってド~ンヨリの空です 
TVは8時から、平和公園での慰霊祭を放映しています。
あの中に、祖母も母も伯母も入っています。
あの日、祖母はいつものように朝風呂に浸かっていたそうです。
すると突然ピカっと   光ったと思ったら   外だった と~。 
手の皮をぶら下げた人たちがズラズラと引っ切り無しに通ります。
こうしちゃ居れん!と、着る物もとりあえず   ドウいう訳か、空のやかんを提げ
母の名前を呼びながら   比治山下にあった疎開先の会社に行ったそうです。
母は爆風で2階の梁の上に吹き飛ばされ、腕にガラスが刺さったダケで済みました。
父の方は、お姉さんが勤労奉仕で市内に出掛けたまま帰らないので   至る所を
探し歩いたそうです。
何日かして、イヨイヨ焼却場へ運ばれる!という時に「お姉ちゃん?」と声を掛けられ
助かったンョ~と、伯母は言っていました。
あんなに焼けタダレ腫れ上がった顔なのに、よく見つけてくれたと 
夏休みになる度に私たち姉妹を預かってくれたのは、その御恩返し?なのでしょう。
いつの日からか? そう思えるようになりました。
戸板をドコからか貰って来て、そこに寝かせ、少しづつ安芸津まで運んだそうです。
ソリャ~! お母さんは喜びましたが、ウジが這い出る傷口に薬など無いのです。
毎日毎晩、箸で取り除き、タダタダ消毒したそうです。
虫が刺さないように、いつも蚊帳を張って、必死に看病をされたそうです。
母は、そんな伯母が気味悪く   ロクに看病してくれなかった!と~ 
思い出しては、聞かされたものです 
焼けタダレタ顔は、口が開かず   歯医者にも掛かれず、ズイブン苦労したと。
身体中の汗の穴が無くなったので、夏場は身が燃えるように熱く   シャワーなど
無い時代に、行水で身体を冷やすのが常でした。
そんな伯母を見ていても、ゼンゼン想像が付きませんでした。
お茶とお花の講師をして一人、生きていました。
高校に教えに行ったり、生徒さんが   来たりしていました。
部屋の真ん中には炉がきってあり、生徒さんのお手前を見て育ちました。
いつも立派な和服姿で、茶道具も超一流な器が揃えてありました。
道具が悪いと、生徒さんもソレナリだというのが信条だったようです。
苦労して来たからこその   知恵だったように思います。
中学に入った頃から、伯母の家に行くことは無くなりました。
でもネ、今でも伯母の声が聞こえるコトがあるんですよ 
行儀作法は口やかましく   お蔭で、恥ずかしい思いはセズに済みます。
今から思うと、孫のような姪たちをよく看てくれたものだと感謝でイッパイです 
いつの間にか、伯母と同じ年頃? 孫にも同じ気持ちでいようと思います 



67年目の8時15分の空です。
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4 コメント

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いろんな (のりたま)
2012-08-07 11:27:16
私は広島人ではないから
正直、原爆のことはよくわからない

それでもいろんな人の話を聞いておかないとと
思います
そして少しずつだけど黙祷する時の気持ちが
変わってきました

今年もやっぱり主語のない平和宣言でしたね
敗戦国。の宿命なのかな
返信する
Unknown (のりたまさんへ)
2012-08-07 14:50:38
やはり、そういう想いをしたコトが無い!というのは”致命的”なことですね。
苦労・苦痛を受けるのは、いつの時代もソレに遭った庶民だということ。
あんな顔になったのに、手術は自費でしたんだそうです。
『国の責任ではない!』というのが理由だったと~。
新聞に大きく載った時、声を荒げて言う伯母を哀しく思いました。
犠牲者はいつも、何も知らない人たち。
生きている間、母・祖母や伯母から「8月6日」が来る度に何度もイロイロ言葉を変えて、時には愚痴だったりして~
見て来た事を伝えてくれました。
小さい時から聞いていると、絵に描けそうに実感するのですョ。
ヤカンを抱えて、実演してくれた時は涙が出るほど笑いましたケドね・・・。
ノー天気な祖母も、それなりに苦労してきた時代でした。
それを、忘れたくない!!と思います。

返信する
原爆の日 (yoshijii)
2012-08-07 19:06:55
 我が家の祖父達も市内で、店をしていたので
みんな爆死したそうです(母はアッシがいたので疎開
していて助かったけど)ホント紙一重ですよね
祖父は仕入れで草津に行っていたので一人だけ
助かったんです。暑いのに毎年原爆の日には
参列していました。もう40年近くも前の事
私はお宮でお参りしてきました。
返信する
Unknown (yoshijiiさまへ)
2012-08-07 21:26:09
まだ小さかった頃、平和公園傍のバラック小屋に友達が居て、よく一緒に川で泳いだものです。
あの日を知らない子供時代のことです。
親たちは、水を欲しさに川に浮かんだ姿を思い
泳ぐのはやめるように言いました。
それからは学校にプールが出来たりして、水泳禁止になり、それは無くなりました。
戦後2年目に生まれたのに、まだ色濃く「原爆」が残っていましたネ~。
原爆記念館に一度だけ、行きました。
耐えられないので、それ以来行けません。
返信する

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