晴れているのに~ 大きく覆い被さってド~ンヨリの空です
TVは8時から、平和公園での慰霊祭を放映しています。
あの中に、祖母も母も伯母も入っています。
あの日、祖母はいつものように朝風呂に浸かっていたそうです。
すると突然ピカっと 光ったと思ったら 外だった と~。
手の皮をぶら下げた人たちがズラズラと引っ切り無しに通ります。
こうしちゃ居れん!と、着る物もとりあえず ドウいう訳か、空のやかんを提げ
母の名前を呼びながら 比治山下にあった疎開先の会社に行ったそうです。
母は爆風で2階の梁の上に吹き飛ばされ、腕にガラスが刺さったダケで済みました。
父の方は、お姉さんが勤労奉仕で市内に出掛けたまま帰らないので 至る所を
探し歩いたそうです。
何日かして、イヨイヨ焼却場へ運ばれる!という時に「お姉ちゃん?」と声を掛けられ
助かったンョ~と、伯母は言っていました。
あんなに焼けタダレ腫れ上がった顔なのに、よく見つけてくれたと
夏休みになる度に私たち姉妹を預かってくれたのは、その御恩返し?なのでしょう。
いつの日からか? そう思えるようになりました。
戸板をドコからか貰って来て、そこに寝かせ、少しづつ安芸津まで運んだそうです。
ソリャ~! お母さんは喜びましたが、ウジが這い出る傷口に薬など無いのです。
毎日毎晩、箸で取り除き、タダタダ消毒したそうです。
虫が刺さないように、いつも蚊帳を張って、必死に看病をされたそうです。
母は、そんな伯母が気味悪く ロクに看病してくれなかった!と~
思い出しては、聞かされたものです
焼けタダレタ顔は、口が開かず 歯医者にも掛かれず、ズイブン苦労したと。
身体中の汗の穴が無くなったので、夏場は身が燃えるように熱く シャワーなど
無い時代に、行水で身体を冷やすのが常でした。
そんな伯母を見ていても、ゼンゼン想像が付きませんでした。
お茶とお花の講師をして一人、生きていました。
高校に教えに行ったり、生徒さんが 来たりしていました。
部屋の真ん中には炉がきってあり、生徒さんのお手前を見て育ちました。
いつも立派な和服姿で、茶道具も超一流な器が揃えてありました。
道具が悪いと、生徒さんもソレナリだというのが信条だったようです。
苦労して来たからこその 知恵だったように思います。
中学に入った頃から、伯母の家に行くことは無くなりました。
でもネ、今でも伯母の声が聞こえるコトがあるんですよ
行儀作法は口やかましく お蔭で、恥ずかしい思いはセズに済みます。
今から思うと、孫のような姪たちをよく看てくれたものだと感謝でイッパイです
いつの間にか、伯母と同じ年頃? 孫にも同じ気持ちでいようと思います
67年目の8時15分の空です。
正直、原爆のことはよくわからない
それでもいろんな人の話を聞いておかないとと
思います
そして少しずつだけど黙祷する時の気持ちが
変わってきました
今年もやっぱり主語のない平和宣言でしたね
敗戦国。の宿命なのかな
苦労・苦痛を受けるのは、いつの時代もソレに遭った庶民だということ。
あんな顔になったのに、手術は自費でしたんだそうです。
『国の責任ではない!』というのが理由だったと~。
新聞に大きく載った時、声を荒げて言う伯母を哀しく思いました。
犠牲者はいつも、何も知らない人たち。
生きている間、母・祖母や伯母から「8月6日」が来る度に何度もイロイロ言葉を変えて、時には愚痴だったりして~
見て来た事を伝えてくれました。
小さい時から聞いていると、絵に描けそうに実感するのですョ。
ヤカンを抱えて、実演してくれた時は涙が出るほど笑いましたケドね・・・。
ノー天気な祖母も、それなりに苦労してきた時代でした。
それを、忘れたくない!!と思います。
みんな爆死したそうです(母はアッシがいたので疎開
していて助かったけど)ホント紙一重ですよね
祖父は仕入れで草津に行っていたので一人だけ
助かったんです。暑いのに毎年原爆の日には
参列していました。もう40年近くも前の事
私はお宮でお参りしてきました。
あの日を知らない子供時代のことです。
親たちは、水を欲しさに川に浮かんだ姿を思い
泳ぐのはやめるように言いました。
それからは学校にプールが出来たりして、水泳禁止になり、それは無くなりました。
戦後2年目に生まれたのに、まだ色濃く「原爆」が残っていましたネ~。
原爆記念館に一度だけ、行きました。
耐えられないので、それ以来行けません。