昨日の映画のアントワーネットは14才で嫁入りした・・・
で、思い出した祖母のこと。
オカツばーさん=久保川カツ(勝)のことを話したいと思います。
祖母は明治28年9月18日、3男3女の2番目の長女として生まれました。
貧しい家で育ち、栄養不足の為か弱視だったようです。
勉学は新聞を読むことで我慢、下の弟妹の世話をして大きくなったそうです。
昔、油田家は古江一帯の広範囲にイチジク畑を持っていたとか?
余談ですが、草津の『いなり食堂』は親戚筋らしいです
勝さんは14才で「吉川」の背広職人と所帯を持った。
若くして嫁に行ったけれど、中々子供に恵まれなかった。
腕利きのご亭主に付いて色んな勤務地に暮らした。
極めて、門司は魚が美味いということで思いが深かったようです。
何しろ煮魚の汁や目玉まで飲み食べる程の「魚好き」だったのですから~。
優雅な暮らしの中で、子供を授かったのは33才ころ。
それは女の厄年。
その厄を落すには、一度「捨て子」をしなければならない。
それを身近な人に「拾って貰う」という儀式が必要だ!と、言われたそうな。
でも、ヤット授かった子供をどうしてそんな事が出来ようか
祖母は、誰の助言も無視してしまった!
すると偶然にも?旦那様が亡くなった
その時、日本初の生命保険を掛けていた祖母は途方もないお金を受け取った。
金額は定かでないが、相当贅沢を尽くしても使い果せない程だったらしい。
祖母は料理をしたことがない。
子供の弁当も作らない。
毎日、校門で子を待ち『何が食べたい?』と言ってはその店へ連れて行った。
ある時、先生に注意されたが改善される事は無かった。
お人好しの祖母は言い寄る人に店を持たせては、逃げられた・・・と。
それでも、浮かれた生活は華やかだったそうな。
夏と冬には人力車で湯治場に、避暑に行くのが恒例だったとか。
私が記憶している着物・帯・カンザシ・三味線はその名残だった。
そんなお勝ばーさんでも、一人娘の悪戯には手を焼いたそうだ。
番傘を作って乾している処をサクサクと穴を開けていくのだから・・・。
なんど謝った事かと、それは心底手こずった思いが伝わってきた話
生活が一変したのは『ピカ』が落ちてからだった。
優雅な生活の朝は、朝風呂に入ることから始まる。
あの日、いつものように湯船に浸かっていたら~気が付けば壁が無い
湯船の傍を、手から皮をぶら下げた人たちが通る
気が付くと何故か?自分も空のヤカンを持って娘の名を呼びながら~
比治山の勤務先へ行ったそうだ。
母は、N通寮の2F事務所でガリを切っていた時に『ピカ』に遭った。
床が落ちても、梁の上に立っていたから助かった!のだ。
窓のガラス片で腕をザックリ!と斬ったけれど・・・
目出度く、親子の対面が出来て良かった!!ということでした。
それからは、時代の流れで紙幣は紙切れと化し~ただの貧乏人になった
贅沢しか知らない、平民は生きるのに苦労したそうだ。
せめて、大金が入った時にでも家を持っていればと~悔やんでも後の祭り。
次から次へと、気軽な借家住まいが身に就いていたのかもしれません。
「3つ子の魂百まで」とはよく言った諺だと母を通して思う。
そうそう、私の知る祖母は~極近眼で、牛乳瓶の底のようなメガネでした。
頭の天辺は、丸髷にかんざしを挿していた名残りで禿ていました。
いつも、周りの毛で丸めて隠していました。
新聞も隅から角まで、鼻を擦り付けるようにして読んでいました。
家にTVが着いてからは、画面に食入る様に浄瑠璃を観ていましたねぇ。
何処にも行くことが無くなった祖母の、それが唯一の娯楽でした。
AB型の祖母の口から出る言葉は、おもしろい事ばかりだったァ。
頭が良くて、豪快な人でした。
そんな祖母が時々、懐かしくなる。
祖母はS53年に86才で逝きましたが、私の子(2人のひ孫)を抱けて
大変喜んでくれました。
波乱な人生を思いっきり上手に楽しんだ人だと思います。
2010年は33回忌をしようと思います。