本日、地元神戸新聞に"姫路城に家紋の謎 「平成の大修理」で発見"というタイトルの姫路城ファンにとって大変興味深い記事が載っていました。全文を引用したいと思います。
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0004480195.shtml
「平成の大修理」で工事用建屋(素屋根)に覆われた姫路城大天守で、最上層北側の軒下にある家紋が、研究者の議論を呼んでいる。南側の家紋は城主・酒井家の常紋だが、この紋が何なのか分からないからだ。これまで望遠鏡でも使わないと観察できなかった場所が間近に見られるようになり、姫路城の新たな謎が見つかり始めた。(坂本 勝)
半世紀ぶりの大修理で、鉄骨の足場から観察できるようになった。家紋は最上層北側の軒唐破風の下にある「蟇股」という場所にある。「昭和の大修理」(1956~64年)前の写真記録にも残っていたが、何の紋かは分かっていない。
姫路市立城郭研究室の工藤茂博学芸員は、酒井家の別紋「沢瀉」ではないかと推測する。江戸時代の同家の記録「姫陽秘鑑」に、常紋の「剣酸漿草」とともに記されており、「古来は常紋とも申し伝え候」などのただし書きもあった。
工藤学芸員によると、安永年間の1770年代後半、落雷のため大天守を修理したとの記録があり、酒井家時代のこの時期に、常紋と別紋が飾られた可能性があるという。
大天守東側にある県立歴史博物館の堀田浩之学芸員は「紋の形からすると、雪をかたどった巌敷き雪の方が似ている」と指摘する。「日本家紋総鑑」(角川書店)に載っている巌敷き雪は北側の紋にそっくり。だが、姫路城に使われる理由は分からないという。
堀田学芸員は「望遠鏡か、すす払いの際に見るしかなかった紋が、間近で見られるようになった。工事が進むにつれ、姫路城についての謎が、まだまだ現れるのでは」と話している。

大天守北側の紋

池田家の別紋「沢瀉」

巌敷き雪

大天守南側の剣酸漿草
少し解説をしたいと思います。
大天守南側の剣酸漿草というのは矢印の部分です。

この個所にはその当時の城主の家紋が付けられていたと言われています。姫路城最後の城主は
酒井家だから当然酒井家の剣酸漿(けんかたばみ)の紋が型どられています。さて問題は北側です。

当然南側と同じ剣酸漿(けんかたばみ)だと思っていましたが、姫山原生林のため望遠レンズを使っても確認するのは容易ではありませんでした。けれど、今回の修理用建屋のおかげで間近で見る事ができたのです。そして、判ったのは不思議な紋。といっても三左衛門が見たわけではありません。神戸新聞の記者が写真を撮ったのですが
そのおかげでまたまた宿題ができました。
さて、最後におまけです。
大天守南側、2重目の唐破風の蟇股にも丸い意匠があります。

ここにはどんな紋があるかご存じですか?
実はここには紋がありません。
なんと丸いままでなんの紋もありません。不思議です。
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0004480195.shtml
「平成の大修理」で工事用建屋(素屋根)に覆われた姫路城大天守で、最上層北側の軒下にある家紋が、研究者の議論を呼んでいる。南側の家紋は城主・酒井家の常紋だが、この紋が何なのか分からないからだ。これまで望遠鏡でも使わないと観察できなかった場所が間近に見られるようになり、姫路城の新たな謎が見つかり始めた。(坂本 勝)
半世紀ぶりの大修理で、鉄骨の足場から観察できるようになった。家紋は最上層北側の軒唐破風の下にある「蟇股」という場所にある。「昭和の大修理」(1956~64年)前の写真記録にも残っていたが、何の紋かは分かっていない。
姫路市立城郭研究室の工藤茂博学芸員は、酒井家の別紋「沢瀉」ではないかと推測する。江戸時代の同家の記録「姫陽秘鑑」に、常紋の「剣酸漿草」とともに記されており、「古来は常紋とも申し伝え候」などのただし書きもあった。
工藤学芸員によると、安永年間の1770年代後半、落雷のため大天守を修理したとの記録があり、酒井家時代のこの時期に、常紋と別紋が飾られた可能性があるという。
大天守東側にある県立歴史博物館の堀田浩之学芸員は「紋の形からすると、雪をかたどった巌敷き雪の方が似ている」と指摘する。「日本家紋総鑑」(角川書店)に載っている巌敷き雪は北側の紋にそっくり。だが、姫路城に使われる理由は分からないという。
堀田学芸員は「望遠鏡か、すす払いの際に見るしかなかった紋が、間近で見られるようになった。工事が進むにつれ、姫路城についての謎が、まだまだ現れるのでは」と話している。

大天守北側の紋

池田家の別紋「沢瀉」

巌敷き雪

大天守南側の剣酸漿草
少し解説をしたいと思います。
大天守南側の剣酸漿草というのは矢印の部分です。

この個所にはその当時の城主の家紋が付けられていたと言われています。姫路城最後の城主は
酒井家だから当然酒井家の剣酸漿(けんかたばみ)の紋が型どられています。さて問題は北側です。

当然南側と同じ剣酸漿(けんかたばみ)だと思っていましたが、姫山原生林のため望遠レンズを使っても確認するのは容易ではありませんでした。けれど、今回の修理用建屋のおかげで間近で見る事ができたのです。そして、判ったのは不思議な紋。といっても三左衛門が見たわけではありません。神戸新聞の記者が写真を撮ったのですが

そのおかげでまたまた宿題ができました。
さて、最後におまけです。
大天守南側、2重目の唐破風の蟇股にも丸い意匠があります。

ここにはどんな紋があるかご存じですか?
実はここには紋がありません。
なんと丸いままでなんの紋もありません。不思議です。
上記、沢瀉の図のキャプションに「池田家の別紋」とありますので・・・。
それにしても、この北面の家紋(?)が沢瀉だ、というのには、個人的にはそもそも無理があるようにも思えます。(シンプルに見えがかり上の違い)
南面が定紋の剣酸漿草で北面が別紋の沢瀉だったら、話としてはきれいにまとまるのですが、どう見ても沢瀉には見えないので・・・・。
いったい何なんでしょうか? 謎は深まりますね。
(ほかのお城の天守でこんな意匠が施されているところはあるんでしょうかね?)