史書から読み解く日本史

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天下統一(春秋の風景)

2019-03-22 | 始皇帝
呂不韋を排除したことで、いよいよ秦王政の親政が本格化し、長く続いた戦国の世も終焉に向けて動き始めることになります。
因みに呂不韋は丞相だった頃から、次々に訪れる他国の要人や使者と交わるのを好み、これは河南の食邑へ移ってからも変らなかったのですが、そもそも他国の方が競って呂不韋に接近したのは、何も彼の機嫌を取りたかったからでも、彼が優れた人物だったからでもありません。
要は商人上がりで浮世の栄誉しか考えていない呂不韋のような人物に、大国秦の実権を握ってもらっていた方が好都合だっただけの話であり、ましてや秦王と呂不韋の間で内紛など起きてくれれば、他国にとってはこの上ない幸運だったのです。
しかし呂不韋が秦王から死を賜ったことで、彼と太后の双頭時代には暫し秦の脅威から解放されていた諸国も、再び西方に神経を尖らせねばならなくなりました。

一般的な時代区分としては、晋の有力貴族だった韓・魏・趙の三氏が祖国を三分割して独立し、周王室から諸侯に列せられた一事(前四〇三年)を以て戦国時代の始まりとします。
確かにその通りで、河北の大国晋が健在であれば、その後も延々と続く戦乱や、秦による統一はなかったかも知れません。
実際に秦王政の統一事業は、韓魏趙の三国を併呑するところから始まっており、前二三〇年の韓の滅亡から数えて、最後まで残った斉が同二二一年に降伏して、天下が統一されるまでに要した時間は僅か十年であり、当時の行軍や通信の速度を考えれば、文字通り瞬く間の出来事だったと言えます。

もともと春秋戦国期の諸国の多くは、周王室によって封ぜられた諸侯に端を発しており、その領土の大半は周の武王が殷を滅ぼした後、旧殷領を分割して公子や重臣に与えたものでした。
従って首都を鎬京に置いていた頃の周の版図は、従来通り西の関中に周朝の本領があり、征服した東の中原に諸侯を配するというのが基本となっています。
これは周の故地を受け継ぐ形で建国した秦も同様で、秦王政が他国を全て滅ぼして始皇帝を称した後も、首都は決して帝国の中心ではない咸陽に据え置いており、まるで両手を広げて抱え込むかのように、西の関中から東方一面に広がる支那大陸を支配する図式が見て取れます。
言わば始皇もまた武王のやり方を踏襲した訳ですが、その秦に取って代った漢や、漢以来の大帝国を築き上げた唐もまた関中(長安)に首都を置いており、これが支那統治の一つの典型だったことが分かります。
因みに周の副都洛邑(洛陽)もまた中原の西端です。

殷は黄河文明の勝者として、黄河中下流域の最も肥沃な場所(河南省一体)を押さえていたので、当然ながらその故地は人口密度も高く物産も豊富でした。
従って周によって中原に封ぜられた諸侯の土地というのは、実のところ宗主である周王室の直領よりも先進地域だった訳です。
但しその分国土そのものは小さく、核となる領主の居館と市街地が一体となった城市を中心に、その周囲を農地と村落が取り囲む形で自己完結した、ちょうど一個の細胞のような都市国家でした。
言わば豊かな土地であるが故に、敢て細分化することで統治したのであり、もともと諸侯は周に対して叛乱など起こせぬ程度の国力に抑えられています。
しかし広大な旧殷領の大半を王族や臣下に分け与えてしまったため、中原には周王室の纏まった直轄領が殆どなく、関中を捨てて副都洛陽に遷ってからの周が、有力な諸侯に比べても弱小な存在となってしまったのは何とも無常なものです。

そうして中原一帯とその周辺に散らばった無数の小領主達は、幾代を経て自然淘汰を重ねるうち、次第に複数の強大な国家に集約されて行きました。
これが江戸時代の徳川将軍家ならば、御家断絶等で藩主不在となった土地は原則的に幕府直轄領として公収であり、御料地に組み入れるか更に細分化して旗本領にしてしまうので、年を経る毎に幕府が富強になることはあっても、戦国期のように諸大名の領地が増大することはありません。
現に徳川家が諸大名に対して最も力量差を誇っていたのは、始祖家康の時代でもなければ中興吉宗の時代でもなく、内戦を避けて大政奉還を英断した幕末なのです。
しかし遷都後の周王室には既にそれだけの力がなかったため、眼前で繰り広げられる諸侯間の弱肉強食を黙認せざるを得ず、弱小城主は次々と近隣の大国に併呑されて行きました。

春秋初期の頃に際立って国力を増加させていたのは、魯・衛・鄭・曹・蔡・陳・宋といった中原の諸国であり、彼等は競って周辺の小勢力を自領に取り込んでおり、やがてその影響力が周王を凌ぐほどの公候まで現れるようになりました。
ただ初めから先進地域だったこともあって、その対立は中原という(支那大陸全体から見れば)小範囲に止まっており、後の戦国期の諸国に比べると領土そのものは甚だ小規模なもので、未だ都市国家の域を出ていませんでした。
これを日本に譬えてみれば、首都平安京の西に広がる肥沃な畿内平野に、複数の小領主が乱立していたようなもので、要はそれ以上巨大になろうにも物理的に限界だった訳です。

やがて春秋中期になると、周の版図でも外縁に配置された幾つかの諸侯の力が、次第に中原の古豪を上回り始めました。
これは前に挙げた国々が旧殷領という限られた空間で城を取り合っていたのに対して、後に大国となる国々は無限に広がる海外へと領土を広げて行ったからです。
春秋後期の各国の配置を見てみると、秦・晋・燕・斉・呉・越・楚といった新興の大国が、中原の小国家群を取り囲む形で割拠しているのがよく分かります。
これが日本であれば周囲を海に囲まれているため、外へ向けて領土を拡大するにも限度がありますが、そうした地理的な制約の少なかった春秋戦国期の大国は、まさに際限なく国土を膨張させることも可能だった訳です。
これなどは新大陸・豪州・シベリア等へ進出して行った欧州人による近代の新興超大国ともよく似ていました。

これ等の諸国によって分割されていた天下を、その文化や人種構成によって区分してみると、大きく三つの地域に分けられます。
まず西方には周の故地である関中を引き継いだ秦があり、その秦の土地は古くから西の遊牧民文化と東の黄河文明が交差する場所で、そうした異文化の交流が周や秦の隆興に繋がっていたことは間違いなく、両者が首都を関中から移そうとしなかったのは、或いはそうしたところにも理由があったのでしょう。
建国間もない頃は、中原の諸侯から僻地の未開人という偏見を持たれていた秦でしたが、それこそ「秦は一日にして成らず」とばかりに、徐々にではあるが着実に国力を蓄積させて行き、周囲に蠢いていた遊牧民を駆逐して領土を拡大すると、西南の漢中を超えて遂には巴蜀にまで勢力を伸ばして行きました。
当然東の中原や楚領にも盛んに攻勢を仕掛けていましたが、逆に敵国から関中へ侵攻されたことは殆どなく、こうした堅牢な地形もまた周秦両国を天下の覇者にした所以でしょう。

その東の広大な華北平野には、洛陽に遷都した周王朝と、その周の公子や功臣が封ぜられた諸国があり、黄河流域の旧殷領に当たる先進地域を中心に、大国の晋と斉がその北と東を固めていました。
しかし秦が函谷関以西をほぼ制圧し、楚が長江以南で領土を巨大化させるようになると、分裂したままの東方諸侯では到底彼等に対抗できなくなります。
従って本来ならば中原もまた小国の分立状態に終止符を打ち、一人の王の下で一元的に統治する国家へ移行しなければ、やがて封建制そのものが瓦解してしまうのは自明の理でした。
そして自力で河北を統一できるだけの実力を有していたのは晋と斉の二国ですが、一方で両者は大国の責務として周王室と他の小国を守らねばならぬ立場にあり、また両国共に必ずしも国内が安定していた訳でもなかったため、調停者として諸侯の中の第一人者にはなっても、周朝に代って自ら王たらんとすることは終にありませんでした。

その南方の長江流域には、中原の真南に当たる中流域(湖北省一帯)に楚、下流域に呉と越があり、黄河流域とは異なる独自の文化を発展させていました。
北の殷が黄河文明の後継者であるならば、南の楚は長江文明の正統とも言うべき国で、楚一国で旧殷領にも匹敵するほどの勢力を張り、やがて戦国時代の中頃には下流の越(呉は越によって滅ぼされた)をも併呑して、江南をほぼ統一していました。
広大な平野部で大国の楚と国境を接していた中原の小国などは、早くから北方侵出を図る楚にとって格好の餌食となっており、例えば秦の宰相李斯と漢の高祖は、共に当時の国籍からすれば楚の出身となりますが、元来の李斯の故郷は蔡国、高祖の生誕地沛は宋国領です。
長江文明の研究が始まって日が浅いこともあり、楚人や呉人の起源については不明な点が多いものの、越人と共に北の諸国とは人種や文化の系統を全く異にする勢力だったことは間違いないでしょう。

後年諸葛亮孔明が提唱した「天下三分」はこれを示したもので、旧秦領の関中(漢中含む)と巴蜀を劉備の蜀漢が、旧諸侯圏を曹氏の魏が、旧楚領(呉越含む)を孫氏の呉が、それぞれ分割して統治すべきというものです。
しかし結局諸葛亮の説く天下三分は実現しなかった訳ですが、それは巴蜀の国力だけでは魏の守る関中を攻略できなかったからで、なればこそ劉備はその不足を補うため、関中を奪うまでは呉から荊州の半分を借りたままにしておきたかったのですが、その荊州を預かる関羽が呉と揉めたことで水泡に帰してしまっています。
一方戦国期に天下を三分できなかったのは、前述の通り河北を統一できなかったからで、もし日本の京都やイタリアのバチカンのように、周王の居城である洛陽だけを残して河北が統一され、秦と楚を加えた三者による分立が実現していたら、後々まで支那大陸は三国鼎立が基本形となっていたかも知れません。

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