史書から読み解く日本史

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記紀神話:天孫降臨

2020-02-16 | 記紀神話
天孫降臨の地
葦原中国を平らげ終えたことで、天神は邇邇芸命(書紀では瓊瓊杵尊)を天降らせることにしました。
ニニギの父はスサノオの子のオシホミミであり、母はタカミムスビの娘の万幡姫なので、アマテラスにとってニニギは甥の子に当たり、タカミムスビにとっては外孫になります。
言わば次代のオシホミミを飛ばして次々代のニニギが天降ったために天子ではなく天孫降臨と呼ばれる訳です。
そのニニギが天降った地は、九州の日向の高千穂とされており、これは記紀の各書で共通しています。
ただ前述の通り、天孫降臨を主導した天神が誰であったかに関しては、これをタカミムスビとする書とアマテラスとする書があり、或いは両神の共和だったとする書もあるなど一定しません。
そして記紀共に天孫降臨を巡る描写については、ニニギに付き従ったという諸神の名跡や、ニニギ一行を先導したという国つ神の猿田彦、ニニギの正妻となる木花開耶姫とその子供達にまつわる逸話等が次々に語られて行くのですが、ここでは敢て割愛します。

国譲りから天孫降臨までを読み進めて行くと、誰しも必ず疑問を抱くことが二つあります。
まず一つは、国譲りの地と天孫降臨の地が余りに懸け離れていることで、高天原の使者がオオクニヌシに国譲りを迫ったのが山陰の出雲なのに対して、タカミムスビが孫のニニギを天降らせたのは九州の日向なのです。
無論これを垂直概念として捉えるならば、オオクニヌシは地上界そのものを天神に捧げたのであり、ニニギはその統治者として天上界から降臨しているので、どこに降り立とうと天神の勝手という理屈になるかも知れませんが、それはあくまで神話の中だけの話です。
まして記紀の記述を読む限り、恐らくオオクニヌシは国主の座を退くに当たって自ら命を絶っており、そうすることで両国間の無益な戦争を避けたのですから、出雲ではなく日向に天孫降臨ではオオクニヌシの行為が無意味なものになってしまいます。
逆に言えば、天神が西端の九州から事を始めようとするならば、何も取り急ぎ国を譲らせる必要はなかったでしょう。

出雲国造家
因みに古墳時代には代々国造として出雲を統治し、律令制に移行した後も郡司や出雲大社の神官として同地の重職を世襲してきた出雲国造家は、現代の日本に於いて皇室に次ぐ古い家系として知られます。
その出雲国造家について、『日本書紀』崇神紀では天穂日命(天菩比神)の十世の孫の阿多命を「出雲臣之遠祖」とし、『先代旧事本紀』では同じく崇神帝の治世にホヒの十一世の孫の宇賀都久怒(氏祖命)を出雲国造に定めたとします。
ただ前記の如く記紀によると、ホヒ自身は出雲との交渉を託されながら、現地に留まって復命しなかった天孫であり、十余世を隔てた子孫が国造に任ぜられるまでの経緯については不明な点が多いものです。
また第十代天皇である崇神帝は、(その間に兄弟相続がなかったと仮定すれば)ホヒの兄であるオシホミミの十三世の孫に当たり、西暦で言う三世紀の後半頃に在位したと考えられる帝王です。

天孫降臨と神々の不一致
もう一つの疑問というのは、国譲りから天孫降臨までに登場するタカミムスビ・アマテラス(スサノオ)・オオクニヌシという主要三神の世代が、全く一致しないことです。
例えば『古事記』によると、タカミムスビは別天つ神の二番目に現れる古い神であり、アマテラスは神世七代の最後を締めるイザナギの子なので、タカミムスビから数えてアマテラスは十世の孫ということになります。
同じくオオクニヌシついても、一方ではスサノオの娘婿としながら、一方ではスサノオの六世の孫とするなど、オオクニヌシ一人で既に世代が噛み合わないものとなっています。
無論これも神様の世界の話だからということで片付けてしまえば簡単な訳ですが、案外『日本書紀』本文が国常立尊以前の神々を外していたり(つまりタカミムスビを太古の祖神に入れない)、オオクニヌシを単にスサノオの子としているのは、こうした辻褄の合わない話を避けたかったのかも知れません。

そのため平安時代初期の成立とされる『先代旧事本紀』では、天御中主尊と可美葦牙彦舅尊を第一世代の天神、国常立尊と豊国主尊を第二世代の天神とし、タカミムスビをイザナギ・イザナミの同世代、カミムスビをその次世代(つまりアマテラスと同世代)としています。
確かにこの設定に従えば、アマテラスにとってタカミムスビは叔父のような存在となり、イザナギ亡き後に女帝のアマテラスを助けて高天原の経営に尽力したタカミムスビの姿を想像することができますし、アマテラスの養子のオシホミミがタカミムスビの娘を娶っているのも合点が行きます。
と言うよりアマテラスとスサノオを姉弟とし、オシホミミをスサノオの子とする限り、タカミムスビとアマテラスの続柄については、これ以外に解釈の仕様がないのも事実で、『先代旧事本紀』という書物の信憑性はともかくとして(偽書とも言われる)、この点ばかりは同書の説が支持されることも多いようです。

アマテラスとニニギの時代背景
一方で長年の既成事実化によって誰もが余り疑問視しないことですが、ニニギがアマテラスの孫という設定も決して確定史実とは言えません。
例えば第十代崇神帝が三世紀後半頃、第十四代仲哀帝や神功皇后が五世紀前半頃の人物だったとして、その後の皇家や諸豪族の系図から見て一世を約三十年とすると、崇神帝の九世の祖に当たる初代神武帝が一世紀の前半から中頃、つまり倭奴国王が後漢に遣使した頃の人物という推定に無理はありません。
しかしアマテラスは更に五世の祖になるので、普通に計算すると日神アマテラスの原型となった女性の在世は紀元前二世紀頃、つまり漢の武帝の治世とほぼ同年代ということになります。
従って武帝が衛氏を滅ぼして朝鮮四郡を設置した頃には、既に日本はアマテラスの子孫が王国を築いていたことになる訳ですが、流石にこれは無理があるでしょう。

実のところ記紀神話の舞台となった時代がいつ頃なのかというのは、その背景を解読することによってある程度の推測が可能です。
特に『古事記』などは個々の描写が詳細な分、むしろ語るに落ちているところはあって、例えばイザナミの殯、イザナギの服装、登場する神々と子孫との関係、諸神の容姿や使用している道具、祭具やウズメの舞に見る儀礼形式、オオクニヌシのために建てたという祭殿の建築様式など、そこに語られる世界は明らかに弥生時代末期から古墳時代初期のもので、とても武帝の時代の日本の姿とは思えません。
確かに神話の原型が古墳時代に作られたがために、その時代の常識を上古の世界に反映させてしまった可能性も否定はできませんが、それを言い出したらキリがないでしょう。



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