昨夜は会社の管理職の送別会でした。特別に私のためにというわけではなく、もともと2月末で退職する人の送別会が予定されていたところに異動が決まったので、乗っからせてもらったというところです。それでも、昨年の異動時は、所属部署が他部署と再編されたため、「解散式」と銘打ち、送別会をしてもらえなかったので、たった一年しかいなかったにもかかわらず、送別会をしてもらいとても嬉しかったです。
私がこの一年在籍した出向先は、正社員170名くらいのうち親会社からの出向者は10人に満たず、ほとんどが所謂「プロパー社員」です。そして、その大半は新卒ではなく、転職組なので、親会社しか知らず、いずれ親会社に戻っていく出向社員には、冷めた見方をしています。
そんな中でこの一年仕事をしてきて、自分なりにこの会社の中での「居場所」を確保しつつある実感がありましたが、それを周囲がどのように感じているかは分かりませんでした。しかし、昨日の送別会の中では、何人かから「もっと長くいてほしかった」とか、「何を相談した時にも逃げずに受け止めてもらった」とか、「誰も言えないことを上に言ってくれた」などの言葉をもらいました。
自分で言うもの何ですが、満更リップサービスとも思えず、たった一年しかいなかった私にとっては、何よりのはなむけの言葉となりました。
何のために仕事をするのか。もちろん、会社のために働かなければならないわけですが、人間ですから「自分の利益(地位、成績、評価など)」のために働く気持ちがまったく混じらないわけではありません。それは親会社でも、子会社でも同じことですが、出向社員が混じって働く子会社の社員は、そういうことを非常に敏感に感じ取っているのだと思います。
私自身が、聖人君子みたいな働き方をしていたというつもりは毛頭ありません。昨年、50歳を目前にして初めて出向することになった時に会社でのキャリアを気にすることがなくなったということと、親会社とは違い規模の小さな会社で権限を持っていろんなことが出来るという純粋な仕事の楽しさで働いていたというのが正直なところです。
しかし、そうして単純に自分に与えられた役目を愚直に務めていけば、それは出向社員だプロパー社員などという区別を越えて伝わるものだと思います。
本当はもっともっとやりたいことはあり、「もっといろいろやってほしかった」との言葉ももらいましたが、異動は宮仕えの常で、拒否権はありません。自分たちの会社をもっと良くしてほしいという思いから、私に期待をしてくれていた仲間には、「自分たちの会社は自分たちで良くしなければダメです」との言葉をかけて別れました。
久しぶりに飲みすぎました。
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