サンズ・トーク

空襲の体験

昭和20年、戦争の末期、私は小学生だったが、家族とともに、東京を離れ、神奈川県平塚に疎開していた。
麦畑が広がり、南側に松林がある。東海道線の線路がはるか北を走っているのが見えていた。

敵機の動静がわかると、ラジオが警戒警報を発令する、もっと近づくと空襲警報になる。
東部軍管区情報、または東部軍情報である。
頭上を東京方面へB29の編隊が行く。

隣組では、防空訓練をしていた。
夜、灯火管制といって、戸外の電気を消す。室内の電気も暗くして、外に明かりが漏れぬよう黒いカーテンで遮断する。また、電気の傘に黒い覆いをつける。
防空班の人が巡回して、明かりが漏れていると注意される。敵機の標的になる明かりを無くするのだ。
窓ガラスには、障子紙を×じるしに貼る。爆弾の爆風でガラス片が飛び散るのを防ぐためだ。

そうするうち、平塚も敵の標的になった。海軍の航空廠があったためだ。
多分6月頃だったか、夜、大空襲を受けた。焼夷弾の六角形の筒が30個ぐらいだか、束になっているのをどんどん落とされる。空中で散開して無差別に落ちてくる。
人に直撃すれば文句なく即死。2軒となりのご主人が直撃された。
平屋建ての我が家にも同時に数発被弾した。
水をかけて消すのは母のみ。子供ら3人は竦んでみているだけ。
私のすぐ傍ら、ほんの30㌢ぐらい横のふすまの敷居が突然、スポッと穴が空いて、火を噴きはじめる。焼夷弾の火は、多少水を掛けたぐらいでは止まらない。
母の消火も成功せず、たちまち火に追われるように防空壕に避難した。私は、カバンと、なぜか醤油のビンをかかえて防空壕にはいった。
結局、全焼。翌日も翌々日も大気の焦げ臭さは取れなかった。
気丈な母は、皆怪我がなくて良かった。という。
松林のなかでは、死亡した人を荼毘に付する煙が立ち上っていたのだ。
そのあとも、学校の生徒幾人かは、不発弾の爆発で死んだり、怪我したりした。

しばらく経って、8月15日、私の家の焼け跡に隣組の人々が整列して、天皇の終戦の玉音放送を聴いた。暑い、かんかん照りの12時ごろだったと思う。

数ヵ月後、ある日、南支那へ出征していた父が、憔悴して、軍服で帰ってきた。

母も、父も、辛酸、苦難を舐めた戦争であった。

今でも、たまに空襲の夢を見ることがある。
私が、窓の隙間から恐る恐る空を見上げると、巨大な恐ろしげな敵機と目が合い、首を引っ込めても見つけられ、すかさず、こちらのほうへ進路をむけて急降下してくる夢。
私は、ああ、例の夢だとおもいながら夢を見るのだ。

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