サンズ・トーク

佐倉市の臼井城址

佐倉で城といえば、当ブログでも取り上げた佐倉城址が有名である。
http://blog.goo.ne.jp/san-gblog/e/168d9542b195c3e76a4261d2d99f5d28
佐倉城は、徳川幕府の治下、江戸の東の固めとして幕末まで重視され、日米修好通商条約を結んだ幕府の堀田正睦老中の居城だった。
今は国立歴史民俗博物館がある。

今回紹介する臼井城は、平安時代も末期の永久2年(1114)、千葉常康が臼井氏を名乗って、この地に城館を構えたのがはじまり。
その後、暦応元年(1338)、臼井興胤が本格築城し、以後、千葉氏、臼井氏、原氏など下総の豪族、武将の居城となっていたが、今では、本丸跡と二の丸跡が遺構として残っている。

下総でも有数の堅城だったが、室町時代、足利氏の古河公方と上杉氏の関東騒乱に巻き込まれた。
すなわち、文明11年(1479)、臼井氏は大田道灌の軍勢に攻められ、篭城に続く激戦で、道灌の弟の太田資忠(図書)を討ち取ったが、落城してしまう。

豊臣秀吉の時代は、千葉氏は小田原の北条氏に加担していたために、敗戦し、徳川家康に接収されてしまう。
徳川氏の江戸入部ののちは、譜代親藩の酒井氏が居城としたが、その後は、本佐倉城、および佐倉城を江戸の東の固めとして重視されるようになり、臼井城は火災で焼失してしまった。


本丸の跡であるが、城郭の東に張り出している。


本丸からは眼下に臼井の城下の町なみが見える。
江戸時代は臼井宿が設けられ、成田街道の要衝だった。
孫が通っている幼稚園も見える。


印旛沼を見下ろせる。昔は、沼は、城の下まであって、堅固な守りを支えていたが、今では干拓されて、水面は遠くなった。


二の丸と本丸の間にある空堀と土橋。

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