加古川市野口町水足に大正4年(1915年)9月に建設された水路橋である。
石と煉瓦を組み合わせたアーチ橋は近代土木遺産として歴史的価値あるため
東播磨南北道路の建設に伴い移設保存工事が行われた。
本来の場所にあった平木橋・・・
東播磨南北道路の建設に伴い元の場所から1.1km西の「前の池」に移設された平木橋・・・
加古川市内にもこう言った水路橋があったんですねぇ~
しかし移設場所は立入禁止になっているので近くで見られないのが残念・・・
<平木橋の概要>
平木橋のある水足地域は、古来より農業用水の確保に苦労してきた地域のため、明治44年に印南野大地への灌漑対策として着手した山田川疏水事業に参加した。平木橋は、この疏水の最末端地域の一つである新田(約20ha)への導水のため建造され、江戸時代に建設された高堀溝(注)を跨ぎ、平木池(昭和41年埋立て)に送水していた。しかし、平木池は疏水事業の末端に位置するため、貯水池としての機能は発揮できず、昭和24年頃には平木橋も放置されていた。
特色は花崗岩の輪石を長手、小口と交互に積み重ねたアーチと、煉瓦を長手と小口に交互に組み合わせたイギリス積で橋壁を形成し、その上に通水路がある水路橋だ。水路側壁には、石の銘板が嵌め込まれており、北側には「平木橋 大正四年九月架之」、南側には当時では珍しく「HIRAKI AQUEDUCT BUILD SEPT 1915」と陰刻されている。設計者、使用材料の産地等は不明だが、輪石下面に工事請負者の陰刻があり、周辺地域の人々が建設に携わっていた事が分かる。
(注)高堀溝とは、村の取れ高に応じ人手を出して掘られた溝のことです。「水足史誌」より
石と煉瓦を組み合わせたアーチ橋は近代土木遺産として歴史的価値あるため
東播磨南北道路の建設に伴い移設保存工事が行われた。
本来の場所にあった平木橋・・・
東播磨南北道路の建設に伴い元の場所から1.1km西の「前の池」に移設された平木橋・・・
加古川市内にもこう言った水路橋があったんですねぇ~
しかし移設場所は立入禁止になっているので近くで見られないのが残念・・・
<平木橋の概要>
平木橋のある水足地域は、古来より農業用水の確保に苦労してきた地域のため、明治44年に印南野大地への灌漑対策として着手した山田川疏水事業に参加した。平木橋は、この疏水の最末端地域の一つである新田(約20ha)への導水のため建造され、江戸時代に建設された高堀溝(注)を跨ぎ、平木池(昭和41年埋立て)に送水していた。しかし、平木池は疏水事業の末端に位置するため、貯水池としての機能は発揮できず、昭和24年頃には平木橋も放置されていた。
特色は花崗岩の輪石を長手、小口と交互に積み重ねたアーチと、煉瓦を長手と小口に交互に組み合わせたイギリス積で橋壁を形成し、その上に通水路がある水路橋だ。水路側壁には、石の銘板が嵌め込まれており、北側には「平木橋 大正四年九月架之」、南側には当時では珍しく「HIRAKI AQUEDUCT BUILD SEPT 1915」と陰刻されている。設計者、使用材料の産地等は不明だが、輪石下面に工事請負者の陰刻があり、周辺地域の人々が建設に携わっていた事が分かる。
(注)高堀溝とは、村の取れ高に応じ人手を出して掘られた溝のことです。「水足史誌」より
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