りりあんのめーぷるしろっぷ

季節感あふれる身辺雑記。

彼の気持ち

2016-12-03 | Weblog
「大丈夫だ。俺一人でできるよ!」
大量の箱とともに取り残された倉庫の中から、外の世界に叫び返した彼の気持ちに
とりとめのない思いを巡らせていたある時、記憶の底に沈めたまま、すっかり忘れていた
数十年前の出来事がふいに記憶の表面に浮かび上がってきました。
ひとしきり賑やかに過ごしたあと、ひとり取り残されて、はっとした一瞬。
狂ったように外に出て、人影ひとつない路上でうずくまった自分の姿は、
もうどういう経緯でそうなったかも思い出せないほど遠い日の出来事でしたが、
個人的な経験としては、正気と狂気の境界をもっとも強く意識した瞬間ではありました。

のっけから「なんだか暗い話ですみませんでした」(コメントのパクリ、ごめんなさい)。

「ろくに世間も知らない頃から」閉鎖的な倉庫の中を生活の場としてきた男ふたり。
ひとりは与えられた空間を、たぶん時間をかけて、こつこつと、彼にとっての幸せな場所へと構築してきた。
もうひとりは、適当に外の世界と交わりつつ、「ふつうの」男へと成長していった。
舞台上に作られた倉庫の中には、彼のためて、ためて、ためた感情がいろんな濃淡をともなって、
終始、漂い流れているような感じがしました。その彼の感情は舞台上の時間が進むにつれて、
観ている私が受け取ろうと意識する間もないうちに、胸の奥へなだれ込んできて、
涙腺の決壊ポイントは、「俺一人でできるよ!」でした。
彼の思いに共感したのは、閉塞感でどうにもならないとき、自分が動かなければ何も変わらないと思う一方で、
「・・・宇宙は巨大な倉庫なんだよ・・・」に始まる彼の考え方を否定できない部分が
私の中にもあるからだと思いました。現在の世界情勢を考えても、世界のさまざまな国で、ふつうの人々の中に
閉塞感や不満、底知れない不安などがたまっていることが目に見える形で出てきていますから。

何十年も誠実にやり遂げてきたことに「何の意味もないかもしれない」と疑うことほど怖いことがあるでしょうか。
でも彼は「それでも生きていく」と決めたのですよね。今まで信じてきたとおりに。
それには、彼の中に兆した疑いを無視するしかないとしても。彼の気持ちを思うと、悲しく切なかったです。

今回のパンフレットの木場さんとの対談は内容も深く、おもしろく読みました。
木場さんのアドリブに関する話は、常々考えていたことを演者の方が過不足なく言い表してくださっていて、
僭越ながら、うれしかったです。最初に、アドリブに関して感じたのは、大河の総司のセリフでした。
平助に悩みを打ち明けられて、総司が答えるシーン。
う~~ん、とか、ああ、俺にだって・・・とか、何かつなぎのひとことがあれば言いやすいだろうに、
絶妙の間で、ぽんとひとこと「悩みはあるよ」と返す演技でした。
戯曲を大切にした、今は亡き師匠ゆずりなのでしょうか。

すでに撮影中のドラマはどんな作品でしょうね。公式の発表が待たれます。


8 コメント

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舞台の感想 (RUMI)
2016-12-17 00:26:54
ありがとうございました♪
「彼の気持ち」、りりあんさんはあの最後に、それでも生きていく、今まで信じてきたとおりに、という思いを感じられたでしょうか。今度の舞台、東京から始まって、実は大楽の静岡(清水)まで4度観ることができました。そのたびに、この最後から彼は、この倉庫の中で今までのように生きていくことができるんだろうか、と、自分の中で問い続けていました。ある時は、きっとこの後に孤独と絶望のあまり死んでしまう、と思い、ある時には、いや、大丈夫なのかもしれない、と思い、そして大楽の日には、とりあえず今日はこれで生きていかなければならない、でもその後は、、、というような思いで終わったのですね。。。演じられたご本人に、本当は一番聞いてみたいところなのです。
静岡はA席を取ったので(しかも大きな劇場でしたので)、遙か2階後方から舞台セットを見下ろして、だったのですが、それだけに「宇宙は巨大な倉庫、、、その中の数知れないちっぽけな倉庫の一つ」というセリフが本当に実感できて、舞台床に走る十字の照明も良く見えました。2度目の観劇の時に思ったのは、宗教的な背景でした。劇作家のお国はクリスチャンの方が多いそうなのですが、彼もそうですよね。彼が求めている「間違った自分を罰してくれる存在」というのは、絶対者であり(これは最初の時の手紙のシーンで、「父親」のような存在と思ったのですが)、要は、神さまということなのだと。どんなに嘆いても求めても、神さまは何も答えてくれない、ただ沈黙している(遠藤周作の『沈黙』をここで思い出しました)。ここを出ることにも、ここに残ることにも、神さまは是非を明らかにしない、、、それでも信じるのか。

木場さんとの対談は、本当に素敵でした♪セリフをいじる、ということに対するお考えも。

りりあんさんの挙げられた「組!」のあの平助との別れのシーン(涙)、何度繰り返し繰り返しビデオを見たことか。ただ、アドリブ、ということまでも思いもしませんでした。あれから12年、三谷さんの筆は素晴らしく冴えてますよね。
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>RUMIさん (りりあん)
2016-12-17 05:21:38
コメントありがとうございます。感想が遅くなってしまって、すみませんでした。
彼の最後の独白、突然ひとり取り残された精神状態では、正しい考えは導き出せないと、今までどおりに仕事にかかりますよね。なので、とりあえず今はそうするしかないとぎりぎりのところで思ったのではないかと感じました。
でも、最後の彼の姿には、孤独はあるのですが、絶望はあまり感じませんでした。どこか静かなあきらめ、諦念というのでしょうか、それを強く感じました。
で、彼の「その後」ですが、ずっとひとりでいるのか、それとも新しいパートナーがやって来るのか、どうなっていくのかはわかりませんが、何があっても静かに受け入れていくような気がします。

ともかく、この役を演じる、この役の感情を体現するのは大変だろうな、精神的にしんどいだろうな、と思いました。その理由を突き詰めては考えていなかったのですが、RUMIさんのキリスト教徒の信条に関するご意見をうかがって、私の感じ方にかなり説明がついて、納得した部分がありました。ありがとうございます。

RUMIさんは舞台を俯瞰でご覧になられたんですね。わたしは地元公演の初日と楽を観たのですが、どちらも舞台に近い席だったので、十字の照明はわかりませんでした。贅沢は承知で言わせてもらうと、一度は俯瞰でも観てみたかったです。テレビで栗山さん演出の『あわれ、彼女の名は娼婦』(ちょっとタイトルがあやふやで・・・すみません)の舞台も、十字の照明が効果的に使われていて、舞台装置もすてきでしたので、そのあたりも楽しみにしていたのです。

『沈黙』は重いテーマの小説でしたね。それで思い出しましたが、BSアーカイブだったかで、秋頃に再放送を観たのですが、留学時代の遠藤周作の足跡をたどるドキュメンタリーがたいへん面白かったです。監督が源さん、出演が長塚圭史さんでした。遠藤氏と親しくされていた修道士の方にも取材されていて、チャンネルを回したのは偶然でしたが、最初に映像にひきつけられて見始めた番組でした。話は少しずれますが、スコセッシ監督の映画はもう撮影終了したのでしょうか。延び延びになっていた企画でしたが、今度こそは公開までこぎつけられそうですね。
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孤独はあるけれど絶望はない (RUMI)
2016-12-18 23:53:30
なるほど、、、
孤独と絶望のあまり死んでしまうかも、、、と思ったのは初見の時で、それは、ジャーンのキームへの切ないまでの「愛情」が濃く感じられたからなのでした。舞台発表があったときの宣伝文句(?)とは異なって、「同性愛」という要素は決して強調されることなく、それでも、さりげない言動に込められた「思い」はしっかりと伝わるように演じられていて、二人の別れのシーンでは肩を抱いて抱きしめ、泣くように彼を止めたのですね。そしてそれを遮る木場さんの運転手の冷たい言葉。なのですが、その後の観劇では、ジャーンの左手はキームを抱きしめることなく右手でそっとつかむだけ。止められないことは分かっている。一人になって改めて箱を積み直していく姿には、それでもちゃんと生きて行かなくては、というような思いがこもっているように見えてきたのです。ただ、最終日、あまりに不自然に張り上げられた「大丈夫!、一人でできるよ!」だったり、最後の独白とその後の動きだったり、何だかとても微妙な感じ方なのですが、また揺れてしまったりして。
彼の「孤独」については、以前、東京の舞台後にお話した時に少し話題にしましたが、りりあんさんは、例えば、俊徳やトレープレフと比べてどのように感じられましたか?(それにしても、彼の君にはどうしてこれほど「孤独」が似合うのでしょう、、、)
俯瞰で見たのは本当に最後だけで、それまでは比較的前方の良いお席でした。床の十字の照明は最後しか見られなかったのですが、舞台上、下手のジャーンのベッドの後ろに走る垂直の強い光と、下手から上手にかけて舞台を横切ってベッドやテーブルの少し上を水平に走る太い光との対比も、ある種の宗教性を感じさせるものだったように思います。

遠藤周作の足跡をたどるドキュメンタリー!見たかったです!BSって、なかなか付けないので、いろいろ見そびれてしまうんですよね~。源さん、やはり良いお仕事されてるんですね。お教えいただきありがとうございます。スコセッシの『沈黙』。はい、浅野さん・窪塚さんと並んでのコメントなど拝見しました。来年公開ですよね。
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>RUMIさん (りりあん)
2016-12-21 07:09:54
「終始、漂い流れていた感情」というのは、彼の同性に対する報われない愛でした。彼にとって唯ひとりの愛する対象だったがけに、壊れないように大事に、大事に胸の奥にしまっていた思い。本心であっても「愛しているよ」は冗談っぽくしか言えない、そんな繊細な感情をさまざまな場面で控えめに表現されていたなと思います。

「孤独」については、ジャーンのそれが「孤独と諦念」と言いましたが、トレープレフは「孤独と絶望」(彼の感情の振れ幅の大きさは、生と死の狭間で揺れているような、生きるうえでのバランス感覚が壊れているような感じを受けました)。俊徳は「孤独と矜持」(彼は誇りをもって、自ら孤独を選んだのだろうと)。
あくまで、舞台をみたうえで、私が感じたことですが、RUMIさんはどのように感じられましたか?
「孤独が似合う」は本当にそう思います。なんなんでしょう・・・最期の時に近づいていく総司にも、深い孤独を感じました。
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前回の記事の (RUMI)
2016-12-22 00:34:52
コメントで、私、俊徳には「怖ろしいまでの孤独の美しさ」、トレープレフには「自意識の過剰さと相関する純粋さ」という言い方をしたのですよね。
りりあんさんのおっしゃる俊徳の「孤独と矜持」は、確かにわかります。彼のあの誇り高さ、むしろ傲慢さ。「僕ってね、、、」のラストのあの笑みが、18歳の初演時、美しくもひたすら怖かったのですが、5年後、今度は美しく哀しかったのですね。自ら選んだ孤独、そこに絶望はありませんが、あの「弱法師」舞台の時、底の知れない(そして、ひょっとすると自覚していないかもしれない)哀しさがあると感じられました。
トレープレフの「孤独と絶望」。7年も前のりりあんさんの記事と私のコメントをまた読み返し、やはり「孤独と絶望」と言ってらしたのを思い出しました。自意識の過剰、と言ったのは、戦争孤児(本当は実の両親がいたのですが)として自らを恃まざるを得なかった、それ故の自尊心を持っていた俊徳とは違って(もちろん彼には、強烈な自意識があるのですが、そこには本能的・野生的な感覚があるように思うのです)、母親という大きな存在への依存とそこからの自立を過剰に意識せざるを得ないトレープレフに、ある種の頭でっかち的な、純粋である故の脆さ・ひ弱さを感じてしまったということなのだと思います。トレープレフの「絶望」は自分への「絶望」ですよね、、、

最期に近づいていく総司の「絶対的な孤独」。あの時の最終回を観ながら、私は、「どうして総司だけが、たった一人で死んでいかなくてはならないのか」と涙ながらに怒っていたのでした。
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>RUMIさん (りりあん)
2016-12-29 09:11:42
返信遅くなってすみません。
しかも、私の前回の返信で失礼な質問をしてしまい、重ねて申し訳ありませんでした。
でも、その失礼な質問に対して、詳しく答えていただいて、ありがとうございました。
初演の俊徳については、舞台を観ていないので、ドキュメンタリーなどで一部の演技を観たりした感想でしかないのですが、表情からも傲慢さがもっとも印象に残っています。再演の俊徳は、級子の中に束の間、理解者の可能性を見たからなのか、少し感情の揺らぎがあったあと、自分ひとりの閉ざされた世界に戻ったように感じられました。RUMIさんと同じように、椅子に座り、少し体を傾げ、微笑んだ彼に哀しさを感じたのは、そういうことだったのかなあ、と思い返したりしました。

トレープレフについての記事、読み返していただいたのですね。ありがとうございます。恥ずかしいことに、当の本人はすっかり忘れていました。あと、我ながら驚いたのは、重要であるはずの、トレープレフと母親との関係をすっかり忘れていたこと・・・私の感じたトレープレフの「ある種の頭でっかち的な、純粋である故の脆さ・ひ弱さ」は、彼の小説家としての資質からきているとばかり思っていたことに、RUMIさんのご意見から気づかされました。考えてみると、私のトレープレフ観は、学生の頃に読んだドストエフスキーの小説や、ロシアの映画などから拾い集めたロシアの風土(個人的には、暗青色の湖や果てしなく広がる凍てついた原野など)や、のしかかるように重く暗い空の下をうなだれて、黙々と歩く人びと、などのイメージと、知らず知らずのうちに結びついて生まれた部分が大きかったと思います。最初に「かもめ」のポスターを見たとき、かつての記事にも書いたと思いますが、薄い表皮を剥ぐと絶望が見えるような、あの陰鬱な瞳の色にびっくりして、なんだか変な感じ方ですが、ああ、ロシアだな・・・と思ったのを覚えていますから。
トレープレフの絶望は、RUMIさんがずばりとおっしゃったとおり、自分への「絶望」だと私も思います。

昨日、守り人シリーズの「天と地の守り人 カンバル篇」を読んでいて、バルサに対するチャグムの心情を描いた場面で、総司のことを思いました。一部抜粋しますね。
「バルサは、平然と自分の身を刃の下に晒す・・・生と死の境目に、バルサはいつも、すっと、足を踏み出していく・・・(・・・そんなふうに、あなたは、生きてきたのだな) そう思うと、怒りとも哀しみともつかぬものが突きあげてきた。」
総司もバルサと似たような生き方をしていたのではないか、そんな彼が刃のやりとりではなく、不治の病という理不尽なものによって死と対峙させられていた・・・あの静かに、端然と最期の日を見つめていた総司の姿は平静な気持ちでは見られませんでした。
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何度もごめんなさい。 (RUMI)
2016-12-30 17:25:15
>失礼な質問をしてしまい
え?そんなそんな!全然!
最初に俊徳とトレープレフの孤独について質問させていただいたのは私でしたから。お答えが嬉しかったので、りりあんさんからのお返しも嬉しかったです。

守り人シリーズでのチャグムのバルサへの心情、ご紹介いただいてありがとうございます。
こういう生き方を総司もしてきた。はい!
以前にも申し上げたでしょうか。祖父母と同居していたからか、子供のころからテレビで時代劇を見るのが当たり前の毎日で、新選組について知ったのも幾つかのテレビドラマからでした。その中で私が沖田総司という存在にどうしようもなく惹かれたのは、司馬さん原作の「燃えよ剣」のテレビドラマで、私の中ではあの時の新選組メンバーは、組!を観るまでベストだったのです。ですので、三谷さんの新選組で沖田をやられる、と知った時には、もう、何と言うか、、、
>静かに、端然と最期の日を見つめていた総司の姿
ここに来るまでの総司を、夏以降、私たちは観てきましたものね。揺れて、迷って、厳しくなって、そして受け入れて。。。周平脱走未遂の時、浅野を逃がした斎藤さんにすれ違いざま「今夜のあなたには殺気がない」と言い放った総司には、鳥肌が立つほどでした。振り幅の大きい沖田総司という青年剣士を、見事に生きてらしたと思います。
三谷大河の忘年会が開かれたようですね。参加されたのでしょうか?

お忙しい時にこんな続けてのコメントで失礼しました。
今年も、本当にいろいろお話させていただき、ありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。
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>RUMIさん (りりあん)
2017-01-06 03:57:13
年末のご挨拶もしないうちに、年が明けてしまいました・・・
旧年中は、すてきなコメントの数々、ありがとうございました。おかげさまで、自分の考えや感じ方を別の角度から考え直したり、深めたりすることができました。本当にありがとうございました。
本年がRUMIさんにとってすばらしい年になりますよう
心よりお祈り申し上げます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

総司の話をすると、私は書籍では司馬さんの『新撰組血風録』からでした。時代劇は東映の映画から、なので、沖田総司の存在は知っていましたし、中学生のころから、夭折とか早世とかいう言葉がつく人物に、なぜか魅かれる傾向があったので、総司贔屓(+新撰組好き)は必然だったとは思います。新撰組がらみのドラマも見ていましたが、十代の女の子の目から見ると、演者さんたちが大人過ぎて、はまるところまではいきませんでした。
そんな流れがあっての組!は、RUMIさんと同じように、ベストメンバーでした。最初はあまりにも子供っぽくてはらはらしていましたが、あそこからの着地点は見事としか言いようがありません。三谷さんの脚本の冴えもあって、総司の台詞はいまでも、ふっと頭に蘇ります。
忘年会、今年もあったのですね。あれから、山南さん、土方さんと「おそろい」で父親になられた昨年。局長と同じように大きな別れのあった年でもありました。
組!がなかったら、平助とも今のような関係は築けなかったかもしれませんし、ファンにとっても忘れ難い作品であり、役柄だったと思います。
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