りりあんのめーぷるしろっぷ

季節感あふれる身辺雑記。

耽美な毒

2008-03-06 | Weblog
小学生の頃に住んでいた北九州のとある町には、神社の市が立つ日があって、参道近くの広場に物売りの屋台が立ち並び、急ごしらえの見世物小屋に派手な幟がはためいていました。おどろおどろしい絵が目を引く看板の下では、暗幕の奥の異様な世界へと客を呼び込もうと、男衆が口上を述べていました。私は怖いもの見たさ半分、逃げ出したい気持ち半分で、見世物小屋とは距離をおいて、遠くから怖々看板を見上げていたものでした。呼び物は蛇女やろくろ首。呼び込みの口上は「親の因果が子に報い・・・」が定番でした。
東京に住むようになって間もない頃、学生時代の先輩が唐さんの状況劇場や寺山さんの天井桟敷の芝居の話をよく聞かせてくれました。それから少し後だったでしょうか。某大河ドラマで石川五右衛門を演じた状況劇場出身の役者さんの鮮烈な演技に魅了された時期、彼の生の芝居を見る機会を逸してしまったのを残念に思ったり。そんな具合で、憧れているくせに、近づくのが怖くて、遠巻きに眺めていたアングラの世界。そんな遠い記憶と重なるからでしょうか。私にとって『身毒丸』が描く世界は、じわりと郷愁を誘う世界でもありました。
『身毒丸ファイナル』のDVDを買ったのは数年前。それ以来、一度しか見ていません。その「一度」の時、これは生半可な気持ちでは見られない特別な作品だなと恐れをなし、それから再見することなく時が過ぎてしまいました。というわけで、ほぼまっさらな状態で、復活した身毒丸と大阪で出会ってきました。


観たのは大阪の前楽と楽の2回。
幕開けと同時に思ったのは、こんなに面白い芝居だったんだ、でした。自分が年をとったせいか、怖いどころか、異様な世界観が発する刺激が楽しくてたまらない。戯曲も演出も、舞台美術、音楽、演者も、そのすべてにおいて、じつに完成度の高い作品だと思いました。
ただ、まっさらに近いとはいえ、断片的に記憶に刷り込まれていた私なりのイメージは確かにあったようです。
たとえば、身毒の第一声となる「まなざしの落ち行く彼方ひらひらと・・・」には正直、違和感を感じました。空間に言葉をおくように台詞を言う、というイメージとは少しずれを感じました。大人の男性の声だからというよりは、声を絞りだしているような力みがあって、少し声が出にくい? いや、復活版の身毒はこういう台詞回しでいくことになったのか? などと余計なことに気が回り、少し乗り遅れました。言葉と心情が一瞬のずれもなく耳と頭と心に到達するあの快感が、この冒頭の台詞からは得られず、少々あせりました。それでも、髪切り虫の場面で、私の座席と照明の関係でしょうか、一瞬身毒の瞳がきらりと光るのが見えて、それからは身毒と撫子の感情がぶつかりあう、凄まじい迫力に圧倒され、終幕まであの世界に引き込まれていました。あとには切ない余韻が残り、満足のいく思いで劇場を後にしました。
もう一公演、チケットをとっておいてよかった。この作品はあとを引きます。そして、何度観ても、飽きることがない作品だと思えました。

翌日、前夜は少し前寄りの中央付近の座席、楽はそれよりずっと後ろの上手寄りの席で見ました。じつは、DVDで観た時から、ずっと心に引っかかっていたことがありました。あまりにも有名な身毒の台詞「お母さん、もう一度、僕を妊娠してください」が戯曲の流れの中で、すんなりおさまってくれないこと。撫子を男として愛することになった身毒がなぜ、妊娠してくださいなのか。竜也さんが以前に何かのインタビューで、最高の愛の言葉として、この台詞をあげていたこともあって、どうにも心に引っかかり、あれこれ考えたこともありました。男性の胎内回帰願望の吐露なのか、身も心も、血さえもつながった究極の愛を求める叫びなのか。まあ、でも、寺山作品だから母親の存在がキーポイントになるのは当たり前か、などと思っても、どうもしっくりこない。
「わからない快感」「わかる快感」どちらも好物の私としては、なんだかわからないけど心を揺さぶられる、でよしとしてもいいようなものでしたが、身毒の最後の台詞に関しては、宿題のような感じで気持ちに引っかかっていました。それだけあの台詞のインパクトが強かったからでしょう。しかも、若い男性がそれを最高の愛の言葉と捉える感性って、いったいなんなんだ? 
そんな疑問が楽の公演を観て、私なりに胸に落ちた気がします。感じ方は人それぞれ、解釈も人の数だけあるはず。私自身の受け止め方が変わってくることもあり得ます。なので、以下はあくまで、「今のところ」の但し書きつきの解釈のひとつでしかありません。

楽の公演では、すでに大人になった身毒の声に耳慣れていたせいか、冒頭の台詞からすんなり入ってきました。それでも前楽よりは心なしか繊細だった気がします。すうっと台詞が空間におかれると、一瞬のずれもなくこちらの胸に沁みてくる。身毒と撫子の心情が切なく胸に迫ってきて、何度か涙がこぼれそうになりました。瞬きする間もなく舞台を見つめるうちに、物語は終盤へとなだれ込み、問題の身毒の台詞。冒頭から二人の心情を途切れることなく受け止めていたせいか、なんの違和感もなく最後の二人の掛け合いに心が震えました。
4年の歳月を経て、男と女として向き合った身毒と撫子。
親に捨てられ、世間に蔑まれてきた(身毒の父の台詞「身分をわきまえなさい」)撫子が小箱に入れていた夢。空っぽの小箱に大切にしまわれていた母になりたい、子を産みたいという願い。撫子を愛する女性として受け入れた身毒は、撫子への愛ゆえに、愛する人がその深く傷ついた心の奥に秘めてきた切なる願いをすくい上げ、できることなら叶えてあげたかった。
その強い思いが、「僕を妊娠してください」という言葉に結晶した。
母親の存在は、男性の理想の女性像、いわゆる「永遠の女性」と分かちがたく結びついている。撫子を永遠の女性と見定めた時、生みの母の愛情を知ることなく育った身毒の中で、生みの母を含め、母なるものに対するすべての感情が、撫子という生身の女性の中に注がれ、ひとつに融合した。
だから、「お母さん、もう一度、僕を妊娠してください」
そうして、この言葉は最高の愛の言葉になり得た。
こうして言葉にすると、我ながらつまらないなあと思います。理屈ってつまらない。でも、わかるというのはそんなものかもしれません。不安でたまらない時、不安の正体がわかると、不安そのものが消えてしまうことがあるように。
この台詞を今回、私が芝居の流れの中で自然に受け止めることができたのは、復活した身毒が撫子を愛するに十分な成長を遂げていたからであり、物語の冒頭から丁寧に積み上げていった表現の一つひとつに説得力があったからだと思います。継母と継子の物語は、私の中では、男と女の痛ましくも美しい愛の物語として昇華しました。物語の進行中は二人の心情が切なく、胸が苦しくて、息が詰まる思いでしたが、雑踏の中に消えていく身毒と撫子の姿、撫子が腰に当てていた白い手をそっと身毒の背中へ滑らせるのを見つめながら、清々しささえ感じていました。この二人なら、幸せになれるかもしれない。ファイナルのDVDを観た時には、二人の行く末が幸せなものだとは思えなかったけれど。

帰りの新幹線の車中、前方の電光掲示板の文字をぼんやり追っていました。「Welcome To Shintokumaru・・・」えっ??? ばかですよねぇ。もちろん、これは目の錯覚で、正しくは「Welcome To Shinkansen・・・」でした。