観覧車、好きです。といっても、乗ったのは記憶にある限りで一度か二度。最初に乗ったのは中学生の時だったと思います。地方都市の駅前デパートの屋上の観覧車でした。観覧車って、ゆっくり滑らかに上昇していくんだけど、頂点に達すると、ゆるやかな動きが一瞬止まるんですよね。おまけに下降するまでにしばらく間があって、このまま動かなかったらどうしよう、とちょっとあわてた覚えがあります。それまでの快感に急に恐怖が交じって、ゆっくり下降し始めるまでの時間がえらく長く感じられました。
実際に乗ることはなくても、観覧車って、見るだけでも何となく、ほっこりと温かい感じがします。絵になるということもあるんでしょうね、映画にも結構でてきます。第三の男」や「エデンの東」・・・う~~ん、最近の映画では思い出せませんが、忘れてはいけないのが「新星の金貨」。辛い場面ではあったけど、青い恋にはぴったりでした(←これも十分、古い?)。
そろそろ本題。人力の観覧車を見たのは、ミャンマーの首都(今はヤンゴンといいますが、私が行ったときはラングーンでした)でした。例によって、古い話ですが、2ヶ月ほど東南アジアを旅行した時に、最終目的地のネパールに行く途中、先を急ぐ旅でもないから、経由地(タイ、ミャンマー、バングラデシュ)を見てみようということになって、各経由地に一週間ずつ滞在したのですね。一週間というのも、ネパール航空の便が一週間に一便しかないので、降りたら、いやでも一週間待つしかなかっただけなんだけど。
ラングーンの空港に着いた時から、ちょっと嫌な感じがしました。空港の目立つ場所に銃を持った軍人が立っていて、入国審査がやけにものものしかったから。夜に到着した便だったので、外に出ると暗がりから、わらわらと大人や子供が私たち(ゲイの友人二人と一緒でした)に近寄ってきて、我先に私たちの荷物に手を出してくるのも、少し怖かった。あれよあれよという間に、ポンコツ車に乗せられ、不安はふくらむばかりでしたが、幸い、無事に市内のホテルに到着しました。
ホテルは植民地時代の白い建物で、外装とロビーは石造り、客室の内部は木造で、なかなか素敵な建物でした。部屋も広く、黒光りする床に大きなベッド、大きな扇風機が天井でゆっくり回っていました。不満はシャワーの水の出が悪いこと、こぢんまりしたレストランの料理がおいしくないことくらいでしたね。食事に関しては、ラングーン滞在中に何を食べたのか、ほとんど覚えていません。ホテルの向かいに小さなパン屋があって、そこでドライフルーツがたっぷり入ったパンケーキを食べる頻度が高かったです。ぱさぱさだったけど、味はまあまあだったので。
一週間、かなり退屈でした。午後から、友人の趣味につきあって、街でいちばん高級なホテルのプールに日光浴に行き、そこでティータイム。プールで聞こえる言葉はロシア語でした。恥ずかしながら、当時のミャンマーの最友好国は旧ソ連だと、そこで初めて知ったりして。滞在先のホテルに戻ったあとは、部屋でごろごろするしかない毎日。
パゴダは数ヶ所、見に行きました。有名な色っぽい涅槃像なども見ましたが、案内してくれたのは、2年ほど日本のトヨタの工場で働いたことがあるという40歳前後の日本語のできる男性でした。ホテルの前にはいつも、現地の人がたむろしていて、観光客が出入りするたびに声をかけてくるのですが、私たちの観光ガイドを買ってくれた男性もその一人で、観光客から免税品のタバコやウィスキー、ドルを買って、闇市場で売り、現金を稼ぐということでした。
やはりホテルの前で声をかけてきた人懐こい笑顔をした学生がいました。出入りのたびに顔をあわせ、しばし立ち話をするようになったのですが、この陽気な学生くんがある日、お祭があると教えてくれました。その夜、教えられた広場に出かけていくと、観覧車がありました。
ほかにアトラクションらしいアトラクションもなく、明らかに目玉はその観覧車。近づいてみると、木造でした。水車をふたまわりほど大きくして、車軸の先端に座席をくっつけたものを想像していただくといいかと思います。かなりの人だかりで、客が座席に座ると、ゆっくり観覧車が回り、さらに次の客が乗って・・・という具合に座席が埋まっていきます。へえ、とぼんやり眺めていた私の目の前に信じられない光景が――観覧車を囲む人垣からわぁ~~と雄叫びのような歓声があがったと思うと、その人垣が崩れて、われ先に観覧車に飛びつき、車軸の柄にぶら下がり始めたのです。ジャングルジムで遊ぶみたいに、車軸づたいに上へ上へと昇る若者たちも続出。観覧車に人が大勢ぶら下がっている光景は、なかなかの見ものでした。人力観覧車なんだ、と思った時には愉快になって笑い出していました。人間のエネルギーの凄さに圧倒され、不思議と爽快感がありました。
人々のエネルギーと貧しさは、東南アジアに行って、何より感じさせられることでした。いずれにしても、観光気分でのほほんと行ける場所ではないと思いました。私たちが到着した夜、ホテルのレストランに入ると、レストランの一角を占領して、日本人の団体客が戦友会の集まりをしていました。戦友という生死を共にした人間関係に格別の思いがあることは理解できますし、遺骨を拾う活動をしている方々もいるので、一概に否定的な見方はできませんが、あの夜の私が違和感を感じたのも事実です。ホテルのロビーでお茶を注文しようとウェイターを呼んでも無視され、連れのニュージーランド人が声をかけて初めて、返事をしてくれるなど・・・歴史と直面させられることが時々あって、私はアジア人であり、日本人だということを強く意識させられました。滞在したホテルを出入りするたびに、丁重なクイーンズ・イングリッシュで声をかけてくる女性は、ホテルの横の舗道で赤ちゃんのおむつを変えていました。
あの国の経済事情や生活環境は少しは改善されたのでしょうか。軍事政権が続き、アウン・サン・スーチーさんの自宅軟禁が解除されない状況では、残念ながら、あまり変わっていないのでしょうね。
実際に乗ることはなくても、観覧車って、見るだけでも何となく、ほっこりと温かい感じがします。絵になるということもあるんでしょうね、映画にも結構でてきます。第三の男」や「エデンの東」・・・う~~ん、最近の映画では思い出せませんが、忘れてはいけないのが「新星の金貨」。辛い場面ではあったけど、青い恋にはぴったりでした(←これも十分、古い?)。
そろそろ本題。人力の観覧車を見たのは、ミャンマーの首都(今はヤンゴンといいますが、私が行ったときはラングーンでした)でした。例によって、古い話ですが、2ヶ月ほど東南アジアを旅行した時に、最終目的地のネパールに行く途中、先を急ぐ旅でもないから、経由地(タイ、ミャンマー、バングラデシュ)を見てみようということになって、各経由地に一週間ずつ滞在したのですね。一週間というのも、ネパール航空の便が一週間に一便しかないので、降りたら、いやでも一週間待つしかなかっただけなんだけど。
ラングーンの空港に着いた時から、ちょっと嫌な感じがしました。空港の目立つ場所に銃を持った軍人が立っていて、入国審査がやけにものものしかったから。夜に到着した便だったので、外に出ると暗がりから、わらわらと大人や子供が私たち(ゲイの友人二人と一緒でした)に近寄ってきて、我先に私たちの荷物に手を出してくるのも、少し怖かった。あれよあれよという間に、ポンコツ車に乗せられ、不安はふくらむばかりでしたが、幸い、無事に市内のホテルに到着しました。
ホテルは植民地時代の白い建物で、外装とロビーは石造り、客室の内部は木造で、なかなか素敵な建物でした。部屋も広く、黒光りする床に大きなベッド、大きな扇風機が天井でゆっくり回っていました。不満はシャワーの水の出が悪いこと、こぢんまりしたレストランの料理がおいしくないことくらいでしたね。食事に関しては、ラングーン滞在中に何を食べたのか、ほとんど覚えていません。ホテルの向かいに小さなパン屋があって、そこでドライフルーツがたっぷり入ったパンケーキを食べる頻度が高かったです。ぱさぱさだったけど、味はまあまあだったので。
一週間、かなり退屈でした。午後から、友人の趣味につきあって、街でいちばん高級なホテルのプールに日光浴に行き、そこでティータイム。プールで聞こえる言葉はロシア語でした。恥ずかしながら、当時のミャンマーの最友好国は旧ソ連だと、そこで初めて知ったりして。滞在先のホテルに戻ったあとは、部屋でごろごろするしかない毎日。
パゴダは数ヶ所、見に行きました。有名な色っぽい涅槃像なども見ましたが、案内してくれたのは、2年ほど日本のトヨタの工場で働いたことがあるという40歳前後の日本語のできる男性でした。ホテルの前にはいつも、現地の人がたむろしていて、観光客が出入りするたびに声をかけてくるのですが、私たちの観光ガイドを買ってくれた男性もその一人で、観光客から免税品のタバコやウィスキー、ドルを買って、闇市場で売り、現金を稼ぐということでした。
やはりホテルの前で声をかけてきた人懐こい笑顔をした学生がいました。出入りのたびに顔をあわせ、しばし立ち話をするようになったのですが、この陽気な学生くんがある日、お祭があると教えてくれました。その夜、教えられた広場に出かけていくと、観覧車がありました。
ほかにアトラクションらしいアトラクションもなく、明らかに目玉はその観覧車。近づいてみると、木造でした。水車をふたまわりほど大きくして、車軸の先端に座席をくっつけたものを想像していただくといいかと思います。かなりの人だかりで、客が座席に座ると、ゆっくり観覧車が回り、さらに次の客が乗って・・・という具合に座席が埋まっていきます。へえ、とぼんやり眺めていた私の目の前に信じられない光景が――観覧車を囲む人垣からわぁ~~と雄叫びのような歓声があがったと思うと、その人垣が崩れて、われ先に観覧車に飛びつき、車軸の柄にぶら下がり始めたのです。ジャングルジムで遊ぶみたいに、車軸づたいに上へ上へと昇る若者たちも続出。観覧車に人が大勢ぶら下がっている光景は、なかなかの見ものでした。人力観覧車なんだ、と思った時には愉快になって笑い出していました。人間のエネルギーの凄さに圧倒され、不思議と爽快感がありました。
人々のエネルギーと貧しさは、東南アジアに行って、何より感じさせられることでした。いずれにしても、観光気分でのほほんと行ける場所ではないと思いました。私たちが到着した夜、ホテルのレストランに入ると、レストランの一角を占領して、日本人の団体客が戦友会の集まりをしていました。戦友という生死を共にした人間関係に格別の思いがあることは理解できますし、遺骨を拾う活動をしている方々もいるので、一概に否定的な見方はできませんが、あの夜の私が違和感を感じたのも事実です。ホテルのロビーでお茶を注文しようとウェイターを呼んでも無視され、連れのニュージーランド人が声をかけて初めて、返事をしてくれるなど・・・歴史と直面させられることが時々あって、私はアジア人であり、日本人だということを強く意識させられました。滞在したホテルを出入りするたびに、丁重なクイーンズ・イングリッシュで声をかけてくる女性は、ホテルの横の舗道で赤ちゃんのおむつを変えていました。
あの国の経済事情や生活環境は少しは改善されたのでしょうか。軍事政権が続き、アウン・サン・スーチーさんの自宅軟禁が解除されない状況では、残念ながら、あまり変わっていないのでしょうね。