りりあんのめーぷるしろっぷ

季節感あふれる身辺雑記。

人力☆観覧車

2006-04-23 | Weblog
観覧車、好きです。といっても、乗ったのは記憶にある限りで一度か二度。最初に乗ったのは中学生の時だったと思います。地方都市の駅前デパートの屋上の観覧車でした。観覧車って、ゆっくり滑らかに上昇していくんだけど、頂点に達すると、ゆるやかな動きが一瞬止まるんですよね。おまけに下降するまでにしばらく間があって、このまま動かなかったらどうしよう、とちょっとあわてた覚えがあります。それまでの快感に急に恐怖が交じって、ゆっくり下降し始めるまでの時間がえらく長く感じられました。
実際に乗ることはなくても、観覧車って、見るだけでも何となく、ほっこりと温かい感じがします。絵になるということもあるんでしょうね、映画にも結構でてきます。第三の男」や「エデンの東」・・・う~~ん、最近の映画では思い出せませんが、忘れてはいけないのが「新星の金貨」。辛い場面ではあったけど、青い恋にはぴったりでした(←これも十分、古い?)。

そろそろ本題。人力の観覧車を見たのは、ミャンマーの首都(今はヤンゴンといいますが、私が行ったときはラングーンでした)でした。例によって、古い話ですが、2ヶ月ほど東南アジアを旅行した時に、最終目的地のネパールに行く途中、先を急ぐ旅でもないから、経由地(タイ、ミャンマー、バングラデシュ)を見てみようということになって、各経由地に一週間ずつ滞在したのですね。一週間というのも、ネパール航空の便が一週間に一便しかないので、降りたら、いやでも一週間待つしかなかっただけなんだけど。
ラングーンの空港に着いた時から、ちょっと嫌な感じがしました。空港の目立つ場所に銃を持った軍人が立っていて、入国審査がやけにものものしかったから。夜に到着した便だったので、外に出ると暗がりから、わらわらと大人や子供が私たち(ゲイの友人二人と一緒でした)に近寄ってきて、我先に私たちの荷物に手を出してくるのも、少し怖かった。あれよあれよという間に、ポンコツ車に乗せられ、不安はふくらむばかりでしたが、幸い、無事に市内のホテルに到着しました。
ホテルは植民地時代の白い建物で、外装とロビーは石造り、客室の内部は木造で、なかなか素敵な建物でした。部屋も広く、黒光りする床に大きなベッド、大きな扇風機が天井でゆっくり回っていました。不満はシャワーの水の出が悪いこと、こぢんまりしたレストランの料理がおいしくないことくらいでしたね。食事に関しては、ラングーン滞在中に何を食べたのか、ほとんど覚えていません。ホテルの向かいに小さなパン屋があって、そこでドライフルーツがたっぷり入ったパンケーキを食べる頻度が高かったです。ぱさぱさだったけど、味はまあまあだったので。
一週間、かなり退屈でした。午後から、友人の趣味につきあって、街でいちばん高級なホテルのプールに日光浴に行き、そこでティータイム。プールで聞こえる言葉はロシア語でした。恥ずかしながら、当時のミャンマーの最友好国は旧ソ連だと、そこで初めて知ったりして。滞在先のホテルに戻ったあとは、部屋でごろごろするしかない毎日。

パゴダは数ヶ所、見に行きました。有名な色っぽい涅槃像なども見ましたが、案内してくれたのは、2年ほど日本のトヨタの工場で働いたことがあるという40歳前後の日本語のできる男性でした。ホテルの前にはいつも、現地の人がたむろしていて、観光客が出入りするたびに声をかけてくるのですが、私たちの観光ガイドを買ってくれた男性もその一人で、観光客から免税品のタバコやウィスキー、ドルを買って、闇市場で売り、現金を稼ぐということでした。
やはりホテルの前で声をかけてきた人懐こい笑顔をした学生がいました。出入りのたびに顔をあわせ、しばし立ち話をするようになったのですが、この陽気な学生くんがある日、お祭があると教えてくれました。その夜、教えられた広場に出かけていくと、観覧車がありました。
ほかにアトラクションらしいアトラクションもなく、明らかに目玉はその観覧車。近づいてみると、木造でした。水車をふたまわりほど大きくして、車軸の先端に座席をくっつけたものを想像していただくといいかと思います。かなりの人だかりで、客が座席に座ると、ゆっくり観覧車が回り、さらに次の客が乗って・・・という具合に座席が埋まっていきます。へえ、とぼんやり眺めていた私の目の前に信じられない光景が――観覧車を囲む人垣からわぁ~~と雄叫びのような歓声があがったと思うと、その人垣が崩れて、われ先に観覧車に飛びつき、車軸の柄にぶら下がり始めたのです。ジャングルジムで遊ぶみたいに、車軸づたいに上へ上へと昇る若者たちも続出。観覧車に人が大勢ぶら下がっている光景は、なかなかの見ものでした。人力観覧車なんだ、と思った時には愉快になって笑い出していました。人間のエネルギーの凄さに圧倒され、不思議と爽快感がありました。

人々のエネルギーと貧しさは、東南アジアに行って、何より感じさせられることでした。いずれにしても、観光気分でのほほんと行ける場所ではないと思いました。私たちが到着した夜、ホテルのレストランに入ると、レストランの一角を占領して、日本人の団体客が戦友会の集まりをしていました。戦友という生死を共にした人間関係に格別の思いがあることは理解できますし、遺骨を拾う活動をしている方々もいるので、一概に否定的な見方はできませんが、あの夜の私が違和感を感じたのも事実です。ホテルのロビーでお茶を注文しようとウェイターを呼んでも無視され、連れのニュージーランド人が声をかけて初めて、返事をしてくれるなど・・・歴史と直面させられることが時々あって、私はアジア人であり、日本人だということを強く意識させられました。滞在したホテルを出入りするたびに、丁重なクイーンズ・イングリッシュで声をかけてくる女性は、ホテルの横の舗道で赤ちゃんのおむつを変えていました。
あの国の経済事情や生活環境は少しは改善されたのでしょうか。軍事政権が続き、アウン・サン・スーチーさんの自宅軟禁が解除されない状況では、残念ながら、あまり変わっていないのでしょうね。

逝く春に・・・

2006-04-13 | Weblog
花嵐の風情にはほど遠い暴風雨で、すっかり桜も散ってしまいました。若葉の季節まではまだ間があるのに、早めの五月病かなぁ・・・プチ欝っています。そのせいか、ふと逝った人のことなどを思い出す。
長崎のホスピスに入院していた友人は、今年の初めにひっそり亡くなりました。去年の五月に長崎にお見舞いに行った時は、車椅子ではあったけれど、一緒に散歩に行けるくらいに元気だったのですが・・・最後を看取ったのは、実のお姉さんと中学生の息子だったそうです。
今の時代、五十歳そこそこの死は、やはり早いですよね。私の友人、知人には早く亡くなった人がけっこう多いです。長崎で逝った友人と共通の友人(こちらの方が付き合いは古いです)も、五十に手が届く前に逝ってしまいました。
私は哲ちゃんと呼んでいましたが、彼が亡くなったあと、親しい友人たちが立ち上げたサイトがこれ――
http://www005.upp.so-net.ne.jp/nomade/

でも、ウェブ美術館の中の吉松哲夫氏は私が知っていた哲ちゃんとは少しズレがあります。その頃の制作活動は彫刻が中心で、ロンドンの廃屋のような建物にイギリス人の友人二人と同居していました。破天荒なエピソードはたくさんありますが、最初に思い出す話は、ミラーボールのこと。
あるクラブにミラーボールを作ってほしいと依頼された哲ちゃんは、友人と二人で張り切ってミラーボールを作った。さて、完成したミラーボールをクラブに運ぼうとした時、問題発生。ミラーボールが巨大すぎて、部屋のドアから出せない。結局、窓を破壊して、無事に?ミラーボールをクラブに届けた。ちょっと間の抜けた話で、こういうところ好きでした。
私がアンティークマーケットなんかをひやかしていると、どこからともなく現れて、「よお」と声をかけてきて、ちょこちょこっと話をしては、いつの間にか消えている・・・そんなイメージの人だから、未だにどこかからふっと現れても、びっくりしないような気がします。そうは言っても、幽霊の哲ちゃんに会いたいとは思いませんけどね。

ちょっと、かぶいてみる

2006-04-09 | Weblog
以前、かなり歌舞伎を見ていた時期がありました。その頃、贔屓にしていた役者さん(今も好きですが)のドキュメンタリー番組をテレビで見て、その翌日にパルコ歌舞伎『決闘!高田馬場』の生放送があって、久々に歌舞伎関連で、ちょいとばかり興奮しました。
まずドキュメンタリーのほうは『還暦からの挑戦 中村吉右衛門 歌舞伎の新作を創る』という題名の二時間番組。吉右衛門さんが脚本の書き下ろし、主演・演出に挑戦する経緯を追ったもので、見ごたえがありました。歌舞伎以外にも活躍の場を広げているお兄さんの松本幸四郎さんとは違って、私のイメージする吉右衛門さんは歌舞伎の求道者。なので、今回の挑戦に踏み切った理由はなんだろうと興味をそそられました。そして、その理由が、初代中村吉右衛門の五十回忌を終え、二世吉右衛門としての仕事に一区切りついたから、というのを聞いて、なるほどと頷きました。四歳で母方の祖父にあたる初代吉右衛門の養子になり(この時はもう実家に行ってはいけないのかと思ったそう)、祖父の他界により十歳で大名跡の吉右衛門を襲名したのですから、家の芸を守っていくには並々ならない覚悟が必要だったでしょう。まあ、私の憶測に過ぎませんが、継承者としての使命感から解放されたことが、今回の挑戦につながっているのだと思いました。もともと洒落っ気やユーモアのある方だと思うので、これからどんな挑戦をされるのか楽しみに見ていきたい役者さんです。

『決闘!高田馬場』は三谷脚本と勘太郎くんがとりあえずの目当てでしたが、思いがけず市川亀治郎さんの活躍ぶりが見られて楽しかったです。亀治郎さんは中学生の頃、よく舞台で見ていました。市川猿之助ファンの叔母につきあって、猿之助歌舞伎を見る機会が多かったからですが、その頃から達者な方で、何度、泣かされたことか。世襲の梨園ならではでしょうが、歌舞伎の子役は、精進して立派な役者になってね、と演技が拙くとも成長を楽しみに温かく見守る対象だったりするのですが、そんな多くの子役とは一線を画して、亀治郎さんは厳しく芸を仕込まれているんだろうなと思わせましたね。
今回の高田馬場の役は、チャーミングな女形と主人公安兵衛のよきライバル役。残念ながら、ちょっと喉がきつかったんでしょうか、娘役の時の発声が少し苦しそうに拝見しました。最後に亀治郎さんを舞台で見たのは、舞踊の『独楽』。あの頃は体型もひょろひょろっとして、繊細な感じでしたが、今は上半身がまるっこくなって、特に女形の時は巧まざる愛嬌があります。でも、立役の時に袴の裾からのぞく脛はほっそりして、中学生の頃とちっとも変わらず。妙なところで、懐かしく思いました。
勘太郎くんは若くて勢いのある清々しい演技で、『新選組!』の平助の時もそうでしたが、好感が持てます。
最後に主役の染五郎さんですが、正直いって私の好みからは外れるんですよね。演技はそつがないし、声は通るし、滑舌も問題ない。それなのに、なぜか台詞が私の胸には落ちてこないんです。お父さまの幸四郎さんにも、歌舞伎やテレビドラマで拝見して、似たような感じを抱くので、単純に高麗屋の芸風が私にはぴんとこないということなんでしょう。
そういえば、歌舞伎で染五郎さんを初めて見たのは、彼がまだ二十歳そこそこだったのかな。町娘を演じていました。姿形は可憐で初々しかったのですが、第一声を聞いて、椅子からずっこけそうになりました。女形の発声にまだ無理があったんですよね。今は立役しかやってないのでしょうか。吉右衛門さんのドキュメンタリーで、叔父の吉右衛門さんに稽古をつけてもらっていました。私が教えるのは播磨屋の芸だから、そのつもりで臨んでほしいと言われていましたが、高麗屋と播磨屋の芸をどんな形で染五郎の芸に生かしていくのか。いずれにしても、歌舞伎界を背負っていくべき若手の一人でしょうから、がんばっていただけるといいな、と。
そうそう、このドキュメンタリー番組で興奮したのは、『勧進帳』の弁慶が六法を踏むところを見せてくれたこと。さすがに迫力があって圧倒されました。楽屋に戻って荒い息をつきながら、弁慶は体力的に厳しいと言ったところ、お父さん(故松本白鴎さん)は八十歳まで弁慶をやっていたんですよね、とインタビュアーに切り返されて、へこんだ吉右衛門さん。
今回の新作に「景清」を選んだのも、中学生の時に見たお父さんの演技と新しいものに挑戦する姿勢が深く心に刻まれていたからだそうです。もっと体力をつける決意をされたようだから、豪快な中にも憐れが滲み出た「土蜘蛛」を今の吉右衛門さんで、もう一度見てみたい。偉そうなことを長々と書き連ねてはいますが、私はミーハーな歌舞伎ファンですから、やっぱり綺麗で派手な演目が好きなんです(笑)。