早や二月。一昨日には太宰府の飛び梅開花のニュースが流れました。
同じ日、久々にワイドショーめぐり。カルテ2の完成試写会の話題で、3つほど番組を確認しましたが、
どれもほぼチラ映り。その前にWSで採りあげられたサンブンノイチのほうは失礼ながら、
寝床で確認。早朝にはっと目を覚ましたら、その話題でよかったと思ったものの、
あっという間に終わってしまいました(悲)。
まったくタイプの違う二つの作品。映画館で仕上がりを観るのが楽しみですが、公開日はまだ先なので、
今回は久しぶりにじっくり観賞した――あくまで自宅観賞ですけど――映画の話など。
「もう一人のシェイクスピア」――いくつかあるシェイクスピア別人説のなかで、
第17代オックスフォード伯をシェイクスピア作品の真の作家として描いた映画。面白かったです。
この映画のなかのシェイクスピアは、欲深で抜け目のない、文字を読むことはできても書くことができない
凡庸な役者として描かれていました。
最晩年のエリザベス1世をめぐる宮廷内の権力闘争や近親相姦などの出来事に
その当時、上演されたシェイクスピア劇をからめながら、エピソードをうまく積み重ね、
最後に衝撃の事実が明かされるストーリーは、こういう事実があってもおかしくないと
思わされるだけの説得力がありました。実際にはこの説にも事実とするには弱点があるようですが。
この映画で何より印象に残ったシーンはハムレット初演の場面――
「生きるべきか、死ぬべきか・・・」で始まるあのあまりにも有名な独白の場面でした。
この独白、21歳のハムレットは舞台下手から登場し、ゆっくり右手へと歩きながら静かに語り始めました。
あの場面を観ていたときの自分を思い起こすと、ハムレットの姿を目で追い、彼の言葉に聞き入りながら、
若い王子の苦悩にぴったり寄り添い、その苦悩の深さに胸の詰まる思いがしたように覚えています。
同じ場面がこの映画では、ハムレットが舞台中央の前面に膝をついて、目の前の観客に語りかけ、
平土間をびっしり埋めた民衆の多くがその独白を聞きながら、ぼろぼろ泣いていました。
映画では長い独白の一部分でしたが、ハムレットが抱えていた、いかに生き、いかに死ぬかという問題は
彼だけでなく、当時の人びとに共通する問題であり、私自身の問題でもあることに気づかされました。
手元にある河合訳では、「・・・一体、死という眠りの中でどんな夢を見るのか?
ようやく人生のしがらみを振り切ったというのに?
だから、ためらう――そして、苦しい人生を
おめおめと生き延びてしまうのだ・・・・誰が不満を抱え、汗水垂らして、
つらい人生という重荷に耐えるものか、
死後の世界の恐怖さえなければ。
行けば帰らぬ人となる黄泉の国――それを恐れて、
意志はゆらぎ、想像もつかぬ苦しみに身を任せるよりは、
今の苦しみに耐えるほうがましだと思ってしまう。」
たぶん、ハムレット観劇から十年たって、私自身の年齢が確実に死のほうへと近づいていることもあるのでしょう。
ただ、同じ台詞も演出の違いや演技によって、違う受け止め方ができるというのは、
とくに目新しい発見でもないのですが、この映画を観たときには新鮮な驚きがありました。
そろそろシェイクスピア観たいです(いつも言っているような気もしますが・・・)。
今夜のスイッチ・インタビューは、三池監督と写真家の操上さんの組み合わせということで楽しみにしていました。
まず「藁の楯」の場面から、銃を口の中に突っ込まれる清丸、護送車内のフードをかぶった清丸がちらっと。
まあ、三池監督がらみの登場は予想の範囲内でしたが、驚いたのは操上さんの仕事の紹介部分で、
「ろくでなし啄木」のポスター撮影場面が流れたこと。いきなりでびっくりするやら、どきどきするやら。
番組の最後は、操上さんの「手」の撮影――どのくらい前だったか、「手」の写真、ありましたね。
お二人とも素敵でかっこよく、番組自体もおもしろかったですし、思いがけず啄木も登場で、録画しなかったのが悔やまれます。
再放送を期待しつつ・・・。
同じ日、久々にワイドショーめぐり。カルテ2の完成試写会の話題で、3つほど番組を確認しましたが、
どれもほぼチラ映り。その前にWSで採りあげられたサンブンノイチのほうは失礼ながら、
寝床で確認。早朝にはっと目を覚ましたら、その話題でよかったと思ったものの、
あっという間に終わってしまいました(悲)。
まったくタイプの違う二つの作品。映画館で仕上がりを観るのが楽しみですが、公開日はまだ先なので、
今回は久しぶりにじっくり観賞した――あくまで自宅観賞ですけど――映画の話など。
「もう一人のシェイクスピア」――いくつかあるシェイクスピア別人説のなかで、
第17代オックスフォード伯をシェイクスピア作品の真の作家として描いた映画。面白かったです。
この映画のなかのシェイクスピアは、欲深で抜け目のない、文字を読むことはできても書くことができない
凡庸な役者として描かれていました。
最晩年のエリザベス1世をめぐる宮廷内の権力闘争や近親相姦などの出来事に
その当時、上演されたシェイクスピア劇をからめながら、エピソードをうまく積み重ね、
最後に衝撃の事実が明かされるストーリーは、こういう事実があってもおかしくないと
思わされるだけの説得力がありました。実際にはこの説にも事実とするには弱点があるようですが。
この映画で何より印象に残ったシーンはハムレット初演の場面――
「生きるべきか、死ぬべきか・・・」で始まるあのあまりにも有名な独白の場面でした。
この独白、21歳のハムレットは舞台下手から登場し、ゆっくり右手へと歩きながら静かに語り始めました。
あの場面を観ていたときの自分を思い起こすと、ハムレットの姿を目で追い、彼の言葉に聞き入りながら、
若い王子の苦悩にぴったり寄り添い、その苦悩の深さに胸の詰まる思いがしたように覚えています。
同じ場面がこの映画では、ハムレットが舞台中央の前面に膝をついて、目の前の観客に語りかけ、
平土間をびっしり埋めた民衆の多くがその独白を聞きながら、ぼろぼろ泣いていました。
映画では長い独白の一部分でしたが、ハムレットが抱えていた、いかに生き、いかに死ぬかという問題は
彼だけでなく、当時の人びとに共通する問題であり、私自身の問題でもあることに気づかされました。
手元にある河合訳では、「・・・一体、死という眠りの中でどんな夢を見るのか?
ようやく人生のしがらみを振り切ったというのに?
だから、ためらう――そして、苦しい人生を
おめおめと生き延びてしまうのだ・・・・誰が不満を抱え、汗水垂らして、
つらい人生という重荷に耐えるものか、
死後の世界の恐怖さえなければ。
行けば帰らぬ人となる黄泉の国――それを恐れて、
意志はゆらぎ、想像もつかぬ苦しみに身を任せるよりは、
今の苦しみに耐えるほうがましだと思ってしまう。」
たぶん、ハムレット観劇から十年たって、私自身の年齢が確実に死のほうへと近づいていることもあるのでしょう。
ただ、同じ台詞も演出の違いや演技によって、違う受け止め方ができるというのは、
とくに目新しい発見でもないのですが、この映画を観たときには新鮮な驚きがありました。
そろそろシェイクスピア観たいです(いつも言っているような気もしますが・・・)。
今夜のスイッチ・インタビューは、三池監督と写真家の操上さんの組み合わせということで楽しみにしていました。
まず「藁の楯」の場面から、銃を口の中に突っ込まれる清丸、護送車内のフードをかぶった清丸がちらっと。
まあ、三池監督がらみの登場は予想の範囲内でしたが、驚いたのは操上さんの仕事の紹介部分で、
「ろくでなし啄木」のポスター撮影場面が流れたこと。いきなりでびっくりするやら、どきどきするやら。
番組の最後は、操上さんの「手」の撮影――どのくらい前だったか、「手」の写真、ありましたね。
お二人とも素敵でかっこよく、番組自体もおもしろかったですし、思いがけず啄木も登場で、録画しなかったのが悔やまれます。
再放送を期待しつつ・・・。