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浅田真央の物語~雑誌Number 846に真央ちゃんの全てが詰まってますっ~

2014-02-06 | 日記

真央ちゃんファンでなくても、ココロ動かされる記事満載。雑誌Number 2/13号は買いですね。
真央ちゃん記事は、写真含めてなんと、35ページにも及びます。永久保存版ですね。

今日は、記事を抜粋しながら真央ちゃんの物語を紹介します 

尚、以下の写真は雑誌とは関係がありません。


ラストダンスに祈りをこめて。より

『真央は子供のころから、負けるのが嫌いだった。スケートだけじゃなくて、何にでも1番になりたがる。だから、私は、真央を世界で1番にしてやりたい。金メダルを獲らしてやりたいって思ったの。』 最愛の母のことば。

浅田のオリンピックへの挑戦は、14歳から始まった。

バンクーバオリンピックを迎えた2010年、浅田真央は果敢な闘士になっていた。

『ほんとうは、もっとゆっくり大人になりたいんだよ、真央。変わりたくないって思う。だけど、いつまでも、夢見る夢子じゃいられないからね。』

『強い心でいようと思っても、ふわあっと弱気になることがある。』

今シーズン、2013年12月の全日本選手権では3位だった。

『トリプルアクセルの失敗が、今でよかったと思っている。どんな状況でもチャレンジが必要だと思って跳んだ。』

 

涙のバンクーバから最高のソチヘ より

浅田真央は午前中の練習が終わると、佐藤信夫コーチに声をかける。

『先生、ご飯行きましょう。』 『まるでデートですよ、こっちが緊張する。』と佐藤は冗談めかす。

仲むつまじい2人は、充実した4年目のシーズンを過ごしている。

『今年は、本当に信夫先生の目指しているスケートが分かるし、同じ方向を向いている。一緒に3年間積み重ねてきた、その上に自分があるというのを感じています。』

 

15歳で参加した2005年グランプリファイナルで、小鳥が羽ばたくように軽々とトリプルアクセルを跳び、世界女王、そして日本のアイドルになった。しかし、ここから辛苦の8年がスタートした。

2006年、世界女王ミシェル・クワンの恩師であるアルトニアンに師事。母と姉の3人でLAへ渡った。冒頭のトリプルアクセルをミスすると、浅田は演技をやめた。

『アクセルを失敗したら、もうすべての演技がダメ』と短絡的に考えていた。 アルトニアンは、ジャンプミスがあると『Go、Go!』と叫び、最後まで滑るよう徹底的に指導した。

2007年の世界選手権で銀メダルを獲得。2008年1月、浅田からアルトニアンへ1本の電話。

『ロサンゼルスには行けない。』 アルトニアンは怒った。

『真央がアメリカに来るか。師弟関係を終わりにするか、どちらかだ。』

『私はアメリカには行けない。』 アルトニアンとの師弟関係はここで断絶した。しかし、本当の別れの理由をアルトニアンが知ることになるのは、4年近く後のことだった。

『実際は、母の病が悪化し、治療や保険の関係で海外に長期滞在できなかったのだ。母の病を言い訳にしたくない真央は、理由を隠していたんだ。』

コーチ不在になった浅田は、2008年春からひとりバンクーバ五輪を目指した。指導者の目線に毎日さらされていない事で、ジャンプは日を追うごとに自己流になっていった。

『だんだんフォームやリズムが崩れていました。成功するのかどうか、一か八かになっている。騙しながら闘うしかない。』不安は誰にも打ち明けていなかった。何より母のそばで、日本で練習することを選んだ。

 

迎えた2010年バンクーバ五輪。浅田は、本番で見事に3本のトリプルアクセルを成功させ銀メダルを獲得。練習での精度を考えれば、奇跡に近かった。しかし浅田は泣いた。パーフェクトに滑れなかった自分をただ責めていた。

浅田は『ジャンプを基礎から見直そう。』と、基礎指導に定評がある佐藤に依頼。

佐藤が、『すべてをゼロから作り直す。』という指導条件に浅田は快諾した。まさか、お互いの目標にズレがあるとも知らずに。

浅田は『子供の時のような軽々としたトリプルアクセルを跳びたい。』 

佐藤は『スケートの一番の魅力はスピード。スピードの中で、ステップや表現をし、音楽と一体となったときに、うっとりとするような作品が生まれる。』 

スピードを出して跳ぶと、ジャンプはすべてバラバラになった。スピードを出して踏み切ると、身体が空中に大きく投げ出されるため軸がブレてしまうのだ。 ジャンプの不振が続く。

 

佐藤との1年目、浅田はトリプルアクセルを跳び、ミスを繰り返した。2010年の全日本選手権は優勝を逃し、2011年の世界選手権は6位に終わった。スランプに悩む悲劇のヒロインと報道された。

『試合を休む選択肢はありませんでした。すべて基礎から見直すと決めたのだから。自分の目指しているものに近づきたいなら、すぐに結果は出てなくても。自分の方向性がブレていなければいい。』

 

佐藤との2年目、NHK杯でのこと。ショートでジャンプの回転不足で大きく減点。男子ショートの高橋選手が、4回転を回避して演技をまとめ首位に立った姿を見て、真央もトリプルアクセルを回避することを決断。

『スピードを出すと、お客さんがワーッと自分の演技に入ってくる感覚を体で感じることができました。信夫先生が目標にしているものにちょっと近づくことができました。』

21歳の冬、最愛の母が急逝。3月の世界選手権後に3カ月近い休暇をとった。

 

佐藤との3年目が始まった頃、浅田の変化を感じた。佐藤の意見を聞き、シーズン前半4試合とも、トリプルアクセルを回避し優勝。

『今まで信夫先生とやってきたことの成果がやっと出ています。基礎ができて、演技もまとまってきた。コミュニケーションもうまくいっていて、意見を言いながら練習できているんです。』 『山を越えたな。』と佐藤は感じていた。

 

ソチ五輪のシーズンを迎え、浅田の心に起きた変化。

『今までは、自分のやってきた事を変える勇気がありませんでした。でも練習方法とかを変えてみたら上手くいくことがあって、だんだん、違う考え方もあるんだな、というのを受け入れられるようになってきたんです。』

 元コーチのアルトニアンに対しても、試合会場の廊下で会った時、突然彼にハグして、あれこれ近況報告すると『今まで色々教えてくれてありがとう。』と語りかけた。誤解をしたまま2008年に決別して以来、会話を交わしていなかったアルトニアンの心を一気に溶かした。

『もう彼女を教えることは出来ないが、それ以来ミスター・サトウに会ったら必ず握手して言うんだ、真央にグッドラックを、と。』

そして、佐藤の心にも変化が。グランプリファイナルの演技後、戻ってきた真央に佐藤は自然にハグした。お固い紳士の先生が、女生徒にハグをするなんて今までは考えられないことだった。それだけ、信頼関係を築いているということでしょう。

3年前は会話すら成立しなかった師弟はいま、心を一つに、五輪の道を歩んでいる。

そして今季、基礎が固まり、練習ではすでにバンクーバ五輪の時より質が高いトリプルアクセルを跳んでいる。それを『試合で成功させる』のが課題だ。

佐藤は心境を語る。

『彼女の口から、一度も五輪の金という言葉は聞いたことがないんです。むしろトリプルアクセルが真央の夢。彼女がどうしても跳びたいなら、僕はそれを叶えてあげたい。』


 真央ちゃん、ここまで頑張ったから、悔いなくトリプルアクセルを成功させられると良いですね。

 

 

 

 

 

 

 



 



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