十六夜の SORA から 夢が降ってくる

いつも全快で 愛と笑い 届けます
 ☆You'll never walk alone☆
~ RYO,IWAI ~

普通の私 普通の生活 普通の夢 普通に・・・

2011-03-31 17:19:59 | SORAからの贈り物☆日記☆


毎日の生活が、3月11日の14時過ぎから普通ではなくなった


皆、それを深く感じていると思うし

私も・・・・


(皆が送ってくれた物資の中に、被災地では貴重で手に入らない普通の玩具が)


私の嫌いな言葉に “慣れてしまう” がある

仕事に慣れる 環境に慣れる とか、悪く聞こえない言葉もある


でも、どんな時も慣れてしまって忘れてしまう事ってないですか?


普通の生活?って基準も、人それぞれ違うと思うし、当たり前にあると思って

慣れてしまった物や関係性も、いきなり変わってしまった瞬間に“あれっ”?


さっきまで普通だった事が、とんでもなく尊くて手の届かない物になった時、

慣れてしまうことの本当の恐ろしさを知ったりするんだ


ここは、亘理の小学校で、報道番組で何回も屋上が映り、大きく“S O S”と書いた

雪の降る屋上から救助ヘリに手を振る映像が繰り返された場所

さっきまで遊んでいた友達 さっきまで学んでいた教室と運動場

さっきまで聞こえていた笑い声 さっきまで動いていた時間

みんな普通に存在したものだし、一瞬で変わって仕舞うなんて思いもしなかった


普通に使える電機や普通に話せる携帯電話

当たり前すぎて、その貴重さや便利さ、ありがたさを考えたり振り返ったりしない


誰もが気づこうとしなかった訳じゃないし、感じていなかった訳じゃない

それこそ、私たちは“普通”に“全ての物や存在が大切”と言う意味を

あの日、あの瞬間から思い知らされ、思い出すきっかけをもらったんだ


物資が入っていたこの箱を見た時、ありがとうと思うのと大切な仲間がいるんだって

思うのが重なって、凄いパワーが湧いてきて40代半ばの筋肉は、20代になっていた


SORAを見上げて思うのは、“明日も天気で元気な笑顔がいっぱい溢れるといいな”


この度、長野から一緒に走ったアーティスト達はこの週末にまた走りますが、

私は“東京”から別便で走る事を考えています


次回は物資もそうだけど、私が被災地に向かう目的は“笑顔を届ける事”だから

被災地での活動の意図をもう一度しっかり噛み締めて、様々な思いと準備をして

出向いて行きたいと思います


私の普通の生活がある“東京”から、心を持って行きたいと思います

その時はまた、皆さんのお力を借りてしまうかも知れない

だって、普通の私には普通の力しか無いですもん

迷ったり、悩んだり、怒ったり笑ったり・・・出来る普通の皆に早く戻れる様


私の出来る事をしっかり考えます

解らなかったらみんなに聞きます

だって、普通なんて思った事ないくらい沢山の、凄い仲間が私にはいるから


昨日の夜、冷たい雨が降っていたけど、今日も東京のSORAは快晴

私の心のようにね

このSORAだって自然だって地球だってさ、普通にある訳じゃないんだね

だからでっかい青空見上げて

ありがとう

RYO もういっちょ がんばりま~す





いわき市の仲間たちから、でっかい報告

2011-03-30 01:27:45 | SORAからの贈り物☆日記☆




今回、いわき市に届けた荷物に日記でも書いた“バーベキューセット”と言う

炊き出しセットがあったのですが・・・☆☆☆

(いわき市に届けた時のセットの一部です)


本日嬉しい報告が届きました







『頂いた食材にて、今日は小名浜にて炊き出しです 始まる前から500人

以上の長蛇の列です  ありがとうございます』


小さい事かも知れない

でも、私の仲間が届けてくれた想いが、形となって被災地で活躍している


温かい栄養のある食事をして、少しずつでも明日の光が見えたらなぁ


私は心から嬉しいのです

上川さん☆ 彼らは喜んでくれましたね

最高ですね

あの若者たちは、必ず将来の日本を背負う強い人間になる


勝手にそう思いながら

今は身体を休めます


zzz

募る想いを持って帰り道

2011-03-29 18:50:45 | SORAからの贈り物☆日記☆


この度、私が急に言い出した事

それをしっかり受け止めてくれた、全国の親愛なる仲間たち


私が一昨年の秋、株式会社 SORA を立ち上げたのは、心と身体の健康を提案

する仕事をして来た“集大成”としての気持ちが大きかった


約一年、体調も安定せず皆様には沢山の心配を掛けました


・・・私が現地に出向くから、物資をお願いします・・・

この問いかけに、自分の身体を心配しなさいと叱ってくれた仲間もいた


先ずは貴方が心配だと、私の家に物資を送ってくれた広島の古庵母さん

困っているなら言ってくれと、水や食料を送ってくれた名古屋の伊藤夫妻


人の先頭に立ち、健康を伝える仕事をしてきて、いつも一番心配を掛けている私


どんな時も、私は“人に恵まれている”と思う


どんな時も、私は“沢山の家族がいる”と思う


間違っていると思うと、所・相手・立場構わず喧嘩をしてしまう私

弱い者いじめする奴が大嫌いな私

それを“いつもはらはらする”と言いながら助けてくれた沢山の仲間
(今回もあまりにも常識のない支援消防隊と大喧嘩してしまった)

そんな、まだまだ若輩者の私を信頼してくれて、物資や支援金を預けてくれた

世界最強の仲間たち

“俺は幸せもんだ 誰よりも幸せもんなんだ”

そう何度も叫んで、丸二日睡眠を取らず帰りの650キロを走り抜いた


正直、眠くて何度も落ちかけましたが、花の40代半ば・・・

まだまだ体力では若いもんには負けませんよ~

すいません 調子こきました   あはは


近々、また自分の足で現地に出向くつもりです

宮城県石巻と気仙沼にて災害にあった母親を持つ、同級生からの情報を待って

未だ物資が二日に一度、人数分には程遠い数しか来ないと言う場所に

想いと笑顔を届けに行きたいと考えています


でも・・・

大切な事は、真実に目を向ける事

真の支援とは?を真剣に考えて行動し、一人の力の限界と皆のエネルギーを

間違って使ってはいけないと言う事


私にもまだその答えなんて解らない

だから、今出来る事を考えたいと思います


私には沢山の仲間がいる 

心から

ありがとう

宮城県亘理郡山元町の一日 後編

2011-03-29 17:34:55 | SORAからの贈り物☆日記☆


最後の配送先、亘理小学校体育館



(右を見ても左を見ても伝言板があって、沢山の手紙が)

ここは、一週間前まで800名以上が避難していた場所

200名位が別の場所に移動や、身内を訪ねて移動して、それでも残りの人は毎日の

床で生活する痛みと戦っていた





どの避難場所に行ってもボランティアの募集は貼ってあり、中学生ならりっぱに

活動要員として働き、被災者が被災者を助ける現実がそこにある

ボランティアで整体を行っている人達に声をかけた

『私達は数人の技術者ですが、現場に来て被災者の中でも雄志を募って、その人達に

簡単な方法を教えて、その時点から即戦力になってもらっています』

写真一番手前の人はイギリス人で、日本に旅に来たら地震が起こり、この地に足を

運んで言葉も解らないのに参加しているのだそうです






体育館の入り口には、願いを込めた千羽鶴が下がり、その横に貼ってある紙のコメント

を見て私は眼を閉じました

最近やっと電気が少し普及し、娯楽の筈のテレビにはまばらな数の人しかいない??

『テレビは悲惨なシーンばかり映して、本当に伝えたい事を流してはくれない』

『思い出すから嫌なんだよ・・・何を見ても笑えない・・・現実から遠い・・・』


小さなテレビに、とても古いテレビゲームに集まる子どもたち

『震災の前は、この辺には沢山子供が居たんだよ』

遠くをみてつぶやくお年寄りに、元気にはしゃぐ10人にも満たない子供達

心の中で言葉をもみ消す・・・“俺に何が出来る?”


『亮さん、今回3番目に悲惨だった津波の後の光景、見て行って下さい』

YUKEYに促され、心の準備をしっかりして“お願いします”

多分、すごく沢山の写真を撮ったのだと思う

でも、現実に目を向けた時、写真の無力さを痛感させられる

少しですが・・・





(ここには線路が通っていた 折れ曲った線路は数百本に千切れてた)


(夏になるとリゾート地だった 唯一形が残った鳥の海ホテル)

4階建のホテルは、3階まで浸水しそこまでしか上がれなかった人をすべて呑み込んだ


(ホテル1階の時計は津波の時間で止まっていた)

1階のロビーには流された車が、フロントカウンターに乗り上げていた


(松の波よけをなぎ倒し、全てを連れ去った海 とても穏やかに見えた)


(この風景はホテルから見た“何百世帯が立ち並んでいた筈の町の跡”)

ここにはどれだけの人が住んで居たのだろう?

まるで砂浜を埋め立てたばかりの様な光景に我を疑うが、同行した地元のケンタロウが

『夏には海水浴場で何度も来た場所なんです 沢山の家が並んで居たんですよ』


(テレビの放送で何度も流れていたセブンイレブン 現実は凄い恐怖)




(青空が恨めしいと思ったのは、このコントラストのミスマッチ)


(燃料タンクと流された一軒家に挟まれた客船)



私は、何度も手を合わせていた

10年掛っても復興は無理だと、地元の自衛官が呟いているのを聞いて、

自分がここに来た本当の意味を感じて居たのだと思う


普通に生活できる事の素晴らしさ、この場面で気が着くのは遅いけど

気が付けるのだから必ず何かが出来る筈なんだ


そう思った

You'll never walk alone

決して誰もが一人じゃない










宮城県亘理郡山元町の一日 前編

2011-03-29 15:13:44 | SORAからの贈り物☆日記☆


今回の震災で、津波の災害が一番大きかったのが宮城県志津川、

二番目が岩手県陸前高田、そして三番目が山元町(坂本・浜吉田・山下の集合名)


現地に、YUKEY(ユウキ)と言う、アーティストの仲間が待っている

時間調整と給油の為に、安達太良SAに立ち寄るが、長蛇の列・・・待つ事1時間

20リットル制限の中、支援物資配送車両は満タンにしてもらえた


そして・・・


(雪の降る宮城県に突入)

先ずは、1件目



(米や野菜類を半分・おむつ・紙類をメインに)

亘理町佐藤記念体育館には、ボランティアセンターがあって、足りていない物資を下ろす

少し・・・いいや、50代平均の男性達(被災者)は、疲れて見えた

30キロのお米を渡す時、腕が上がらない彼らを見て、私たちのチームに気合いが入る



(少しだけ入れてくれるGSに並ぶ車の行列)


(簡易火葬場に人の山)

次の場所に向かう中、私と洋介君はトラックの荷台で空を見上げていた

澄み渡る青空と不釣り合いな光景


ガソリンを求めて渋滞を起こしている道路は、いつもなら5分で着く現場に

20分掛けても着かないトロトロ運転となり、ふと浸り手を見ると人の波


あれは何ですか?・・・・・あれは火葬場です

プレハブの?     涙を浮かべるより唖然とする方が先だった



(山元町役場にて私たちを待っていた救護隊)


2件目に行った山元町役場は、見渡す限り自衛隊の救護車と隊員

そしてお結びを作るお母さんや、炊き出しをする自衛隊員

給水する為に福岡から来た給水チームと、隣で給水している自衛隊に少し?


(給水する自衛隊員・福岡の給水車の方が活気があったな)

足りていない所と足りている所   車で5分の距離で雲泥の差を感じた


(山元町体育文化センターにて)

3件目に運んだ文化センターは、全国から物資が届いていたし、自衛隊員が沢山働いて

いたけど、ここでも中学生くらいのボランティアが活躍し、自衛隊に?

大阪・名古屋・兵庫・広島・・・沢山のトラックがいたな


体育館が満タンですね・・・

これでも足りないんです・・・


現実は厳しい





激走 福島県いわき市

2011-03-29 01:05:00 | SORAからの贈り物☆日記☆




長野県松本市の集配所を出発して、先ず第一の目的地 福島県いわき市へ




松本市の集配所を出て長野道で長野方面に走り、長野から上信越道を登って

群馬県高崎ジャンクションを経由して、少し関越道を走り、

北関東道で栃木県岩船ジャンクション経由で東北道に

東北道都賀ジャンクション経由で、再び北関東道にて茨城県水戸の友部ジャンクション

経由で常磐道へ入り、一路いわきインターへ



(目的地を告げるアイフォン地図)


未だに問題が山積みな今回の災害の中で、家があっても帰れない所が多いのは、やはり

福島県の第1原発から半径30キロ圏内

特に、私たちが向かったいわき市の被災地は、20キロ圏内に近い所でした

同行したアーティストの仲間が現場で待ってる

ただでさえ、がらがらの高速道路なのに常磐道に入った頃はまったく車は走ってなくて

たまに走っている車は物資を運ぶ車両か緊急車両、支援・援助隊車両くらい

しかもみんなマスクを装着している

インフルエンザ用ではなくて、まるでガスマスク・・・これが日本なのか?


約500キロの道程を経ていわきに到着



(気合いの入ったおやじさん)

『あんたらここに物資を運んできてくれたのかい?ありがとうね』

ずっと、そこで仕事している筈なのに、マスクなんてしていない

私もマスクをしないで乗り込むつもりだったから、そんな私をみて

『俺たちはここで生きてるんだ。マスクなんていちいちしてられねぇし、

そもそも放射能の汚染なんて、マスコミが大袈裟に言ってるだけだ』


心が痛い・・・


『あんたもしてないね。ありがとうな、物資しっかり届けてくれ』

そう言って笑った

そこから私は窓を開けて走ったよ だって今はいわき市の仲間なんだから・・・


市内に入って待ち合わせの場所まで、まるで街中はゴーストタウン

電灯の灯りなんてないし、どこの店にも明かりが全く無い


ここに人は住んでいるのか?


閉まっているガソリンスタンドに、これまた人の乗っていない車が1キロに渡って

自分の持ち主と、ごはん(ガソリン)を待って並んでいる

そのまま車を放置して、この土地を去ったのだと言う


主に私の八百屋号に積んだ荷物を、待っていてくれた若者たちに届ける

彼らは雄志を募り、ボランティアで身動き出来ない人たちの為に、

届いた物資を更に厳しい避難所へ運ぶのだ


昼間は炊き出しをして、沢山の人に温かい栄養を届ける事もしているそうだ

かなり格好良い奴らだと思った



(荷物を降ろして、もう皆仲間だね)


荷降ろしをしている時、私は当然マスクをしてなくて

『マスクしないんですか』

と、降ろしている若者に聞かれた

『君たちだってしてないし、していたとしてもそんな薄っぺらいマスクだろ』

そう笑って返事したら・・・

『本当にありがとうございます。嬉しいっす』

そう言って涙を拭いた


何やってるんだ、日本のリーダーさん達

この若者たちを知っていますか?

この若者たちを放っておきますか?

この若者たちを守る手段と向き合っていますか?

そして

本気になって真実をしる手段と戦っていますか?


私は叫びたかった


トラックに乗る時、皆が握手を求めてきた

全員と握手したし、心に“絶対”って文字と誓いが芽生えていた


今回、私が皆を代表して届けるのは、物資以外に“元気と笑顔”だった

物資を送ってくれた仲間達から、手紙や電話で言われた事

1.私たちの代わりに運んで下さい
2.私たちの想いを届けて下さい
3.笑顔・元気・勇気を届けて下さい

届けましたよ  思いっきり

さぁ 次は仙台亘理郡へ


出発前の奇跡

2011-03-28 21:16:57 | SORAからの贈り物☆日記☆



驚く程の量が届いた物資達。

今回、一緒に組んだアーティストさん及び長野の仲間たちが、新聞やブログで呼び掛けて

集めた物資も沢山あった。

けど・・・それを圧倒する私の仲間からの絶大なるパワー溢れる物資達


今回は、第便の配送とあって前回の教訓を活かすために4tのトラックを用意

なのに・・・乗らないのである。

嬉しい悲鳴とはこのような時に使うのだろう。



(4tトラックの荷台は満タン)


長野の仲間に頼んで違う便で走るトラックにも分けて、彼らは土曜日の朝岩手県に走った。

それでも、土曜日の朝から夕方まで届いた物資達が1台では無理だよと笑い掛ける


(入りきれず玄関にあふれたお米や食材)


私を信頼して送ってくれた物資

私の手で届けたい・・・それが私に託してくれた仲間に応える事だと思った

そんな時長野の仲間が、被災地からのリクエストで頼んだ八百屋のお父さんが

購入したたくさんの野菜を届けにきてくれた

『あんたらこれじゃ乗り切らんよ・・・被災地行くならトラック貸してあげるよ』

ここ数日、東北地方に行く為に貸してくれるレンタカー屋さんはまったくなかった

ガソリンが入れられないから・・・が理由。

なのにお父さんは、届けに行く私たちの為のみかんまで用意してくれて

『気をつけて行って来てくれ』と笑った

またでっかいパワーをもらった

私たちに届いた物資も想いも全部、“必ず届けます”



(ゴーゴー八百屋号にも満タン)


この奇跡に参加させてくれた、全国の仲間達

皆を代表して八百屋のお父さんに“ありがとうございました”と叫ぶ


私は出発まで色々な事を考えていた

関西大震災の時に感じた失望感や矛盾感・日本と言う国の悲しい裏側の実態

体感したからこそ準備出来る心の持ち方・被災者の方々が感じて居ながら

口にだせない心の声

当時、一緒に戦った被災者で且つ支援隊の仲間が、心から叫んでいた想い

“支援とは、する側の自己満足が少しでも伝わると、悲しみや辛さが倍増してね、

明日から生きて行く希望まで失いかける行為にもなるんだ”

思い出していたからこそ、出発までの時間を大切にしたかった


そんな時に起こった奇跡・・・


ここで勝手に名前書けないけど、必ず恩返しさせてもらいます

では・・・



(出発の空 母の愛が見えますか)


(4tを走らせてくれる洋介君)


預かった八百屋号は私が運転して行きます

沢山の想いは積んだぜ。


(少し陽が落ちた中のスタート)


行ってきます














仲間の想いを届ける

2011-03-28 19:00:03 | SORAからの贈り物☆日記☆



先ず、先週の頭から全国の仲間に連絡して支援物資への協力をお願いした

長野県松本市にある教会の牧師さんが、物資を一度集配する場所の提供をしてくれた

東京にはまだ、安定したガソリンの供給はなく、松本市に燃料や運搬トラックの

手配をしてくれる仲間がいた事から、松本市への配送依頼となった



(金曜日の夕方、集配所にてびっくり)


足の踏み場もないくらいの荷物が届いていて、運ぶ前から感謝の気持で胸がいっぱいになる




(これは炊き出し用のセットです)



(次から次へと運送屋さんがやってくる)



(さぁ 仕分け作業だ)

全国の仲間から沢山の想いが運ばれて来て、責任の重さと仲間の愛の重さを感じました


炊き出し用のバーベキューセットを送って下さった広島の優しいお母さんが

『もしも被災地で役に立たなかったらごめんね』そう言った

とんでもない

被災地で待つ仲間たちに連絡を入れると

『物凄く嬉しいし、最高の感謝です』

被災地では、雄志が集まり炊き出しをよくするそうですが、こんなしっかりとした

機材が届くなんてなかったらしく、感動と感謝の言葉で一杯でした



(お母さんからのメッセージ)



(ありがとう)

物資の箱には手紙が沢山入っていたけど、開梱の際に破れてしまったのが悔しい

手紙はみんな読みましたからね☆☆☆

金曜日の夕方から土曜日の最終配達PM4:00までの全てを、徹夜作業で仕分けしました。

少し休んだら出発しますよ

皆の願いと想いを乗せて・・・

親愛なる仲間達の想いを持って、東日本大震災へ(過去から今へ)

2011-03-28 13:43:14 | SORAからの贈り物☆日記☆




関西に大震災が起こった時、私はその10日も前にこの震災の予言をしていた

いや・・・むしろ予言してしまったのだ

1995年1月17日 早朝5時46分

   
あの時、子供の頃から自分に備え持つ変な力それを簡単に口にしてしまった1月の始め

『5163人が火の中に消える』

西の空に見えた不吉な光

子供の頃から見てきた“嫌な事が起こる光”

その10日後に悲しい災害が関西に襲い掛かりその数日後に N H K が集計した

被害で亡くなられた人の数が5163人だった時、私は自分を呪った


   
その後、地震の災害に関して亡くなられた人の6434人が発表された時、

限りない無力感に襲われた。。。
   
俺の力なんて、人を救う力ではない

   
ただ、地震があった次の日から数日間、震災の現場に居た

身体が勝手に動いた

出来る事をしたかったのだと思う

   
   
あの時感じた、日本と言う国の仕組みやマスコミ報道への苛立ちと疑問
   
そして、現場にしかない真実

   
今回、東北地方を襲った震災に対し、私は関西の教訓を深く考えて、

自分が今出来る事をしようと思った

そして・・・

   
・・・東北地方大震災と向き合った記録をお伝えします     
   

   
   

今、私が出来ること

2011-03-24 19:23:01 | SORAからの贈り物☆日記☆
 


こんにちは  RYO,I です

 
 私の事を知っている方が殆どだと思うけど知らない方も沢山いるから


 ブログ始めちゃいました



 
 私は、長年に渡って全国を行脚し沢山の仲間と出逢う機会を貰いました


 
 だから 書きたくなったかも

 

 
 会社の立場とか仕事上のとかブログを書いて来たけれどプライベートの私が書くから

 きっと素直に面白く書けると思う

私がずっと歩んで来た道は、常に困難と壁と人間関係との戦いだった。

 そこに未来が見えない自分が存在していたのだ

 だから今なら・・・そんな風に思えたのかも知れません


 

 今 私が出来ること


 きっと


 ここから始まるんだと思う



 そして・・・

 You'll never walk alone