光のかけ橋

心と癒しの世界

明けの明星

2011-09-21 20:46:14 | Weblog
お釈迦様は今からおよそ2500年前南インドにて、12月8日の暁、

菩提樹の繁みの下であけの明星のきらめく頃、悪魔を退け悟りを開かれた言われています。

お釈迦様の絵や像を見た事があると思いますが、

お釈迦様の額に、小さなボタンのようなものがついていると思います。

これは白毫と呼ばれているものです。

これは眉間にアジナチャクラ(サードアイ)が目覚めて霊眼が開花し現れたものを示しているとされています。

サードアイが目覚めれば、眉間に肉がもって見えるようにもなりますし、

またクラウンチャクラ(サハスラチャクラ)が目覚めたりすると、頭頂の肉がもって見えると言われがあります。


この日本でも体験した記録がありますね

すでに1000年前に高名な弘法大師空海が阿波の大滝に登り、土佐の室戸埼で、求聞持法の修業に励んだところ、

谷はこだまし明星があらわれたと言われがあります。


密教などの曼荼羅の絵がありますが、その曼荼羅の絵と同じような感じです。

密教などの曼荼羅絵は宇宙観を表しているのでしょうかね。

明星のまたたきが眉間に現れて、曼荼羅絵のようなものとして見えます。

曼荼羅絵は明けの明星が現れたものを宇宙観としてその曼荼羅絵に表しているのですかね?

それが眉間の中に曼荼羅絵が現れると思いますよ。


実際はこれらの体験だけではいけないんです。

進化の過程での通過点だと思います。

まず心を解放をしないといけないんです

蝶がガラスごとしに外に出でいこうと思っても出て行かれないのと同じなんです。

このガラスごしから自由になって、外に出ないといけないんですね。

意識が広がり、このガラスごとを破って、外の空間に出ていかないといけないのですよ。

その意識が広がっていかないといけません。

この明けの明星は深い正定に入っていかないと明星の瞬きは現れるのは難しいと思います。

澄みきった状態になるという事が求められると思います。


深い澄み切った瞑想状態に入る前には悪魔とか蛇、サソリやいろいろな魔境が現れると思います。

これがよく禅宗とかで言われる魔境ですね。

お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開く寸前には、悪魔がきれいな女の姿で出て来て盛んに誘惑したり、

恐ろしい化け物の姿をして殺そうとしたことなどが伝えられています。

心の進化の途中では必ず邪魔をする魔が現れます


魔の対処の仕方は、この魔はいつかは滅びるもの、どんなに怖くても恐ろしくても、

アワヅブのような存在しかないし、いつかは消えていなくなるものと平気でいる事が大切です。

澄みきった状態になっていたその時に、暗闇から紫色の光が眉間の中央に注入して来て、明けの明星がまたたき始めるかもしれません。

それには天のご加護なくしてはなかなか成就する事は叶わないと思います。 

結果を求めず、成り行きにまかせて、座禅なら座禅をし、瞑想なら瞑想をしてゆけばいいんだと思います

心の琴線に触れる思想

2011-09-18 09:56:06 | Weblog
人生の中にはジエットコースターのように良い時もあれば悪い時もあります。

それが人生というものだと思います。

その都度、駄目な自分も良い自分も抱きしめながら、

全体性を持って、トータル的に自分を向上していくようにして行き、

成長していけたらいいんだと思っています。

反省する時には反省をし、あまり自分の影を見つめすぎますと背びれ尾びれまでくっついて来ますからね


花には根っこもありますし、花ビラもありますよ~

誰も花にあこがれ、花を愛しむみたいですが、花には根っこがあって、それを支えています。

ネガティヴなものやポジティヴな感情もコインの表裏のように、表裏一体なものだと思います。

老子のように全体を使って、トータル的に生きていけたらいいんだと思います。

老子のような思想もその一つだと思いますが、

感情を抑えつけているといつかは火山のように爆発します。

枯れて行く花には自然にまかせて行くのが一番いいと思います。


自動車にはアクセルやブレーキがあります。

そのアクセルやブレーキがあって初めて走れます。

ブレーキのない車なんて、とても危険で走る事はできません。

その為にはブレーキとなる反省や悔い改めを必要なものなんだと思っています。

老子のようにトータル的に生きていき、ブッタやキリスト様のように花をかざるような生き方もあります。

心の琴線に触れる思想を見つけられる事が大切だと思います。

祭壇の前に手を合わす時には、

2011-09-17 07:40:44 | Weblog
イエス様も説いておられます。

祭壇の前に手を合わす時には、父や母をそして兄弟と和解をして、

調和をみいだしてから、手を合わせる事が大切だとイエス様が言っておられます。

人の最大の敵は家族の中にもいるのです。


高橋信次先生の教えに、己心の魔というものがあります。

己心の魔とは己の心の中の闇の部分であり、魔の原因は外にあるのではなく、己の心の中に潜んでいるということなんだそうです。

その自分の心の闇の部分が魔を引き寄せるということみたいです。

では、心の闇の部分とはどんなものでしょうかね?

「心の眼」シリーズの井出章彦さんの書物に記載されていますから、参考にしてみれば良いと思います。

人を批判するおもい、人を否定するおもい、人を非難するおもい、人を誹謗するおもい、自分が正しいとしが

ちなおもい、怒るおもい、不平不満、愚痴るおもい、人々を自分が動かそうというおもい、うぬぼれ、

増上慢(ぞうじょうまん)などということみたいです。


サイの河原ではないですが、一つ積み上げては鬼に崩され、

また積み上げても崩され、また積み上げて行くの繰り返しです。

ここで言う鬼とは、自分自身なんですね。

「己心の魔」にやられてしまう原因を己自身が作っているということです(涙)

聖書の中にある真理やハ正道は生涯永遠の課題でもあります。

聖書の中にある真理を自然に実践できるようになると、高い霊性が現れていくのでしょうね。

「己心の魔」にやられてしまう原因を自ら作っているということですから、

己心の魔に陥らないよう、気を引き締めていかないといけませんね(汗)


人の最大の敵は家族の中にいるのです。 光のかけ橋日記より

祭壇の前に手を合わす時には、父や母をそして兄弟と和解をして、調和をみいだしてから、手を合わせる事が大切だと聞いた事があります。、

御経そのものは釈迦の説法書いたもので、教文の意味を悟り、実践している者が教文を読誦する場合は、

迷った霊はその読誦するの波動(光の波動)によって、浄化されます。

したがって、そういう意味ではお教は供養になるといいます。

地上界の子孫の実生活の調和しかないことを知るべし、高橋信次先生は言っておられます。


真理を実践していると、人を取るか?真理をとるかと言う事がは必ず身のまわりにおきてきます。

迷わず、真理を取るようにしなさいと説いている方がいますね。

イエス様は、父母を敬う(愛する)ようにと説き、隣人を自分を愛するように愛しなさいと、説いています。

イエス様がこの世に来て、真理を説く事により、人々(家族等)の中にそれを信じる者と、

信じない者との争いが起こる事は、不思議なことではないと言っています。

イエス様の説く教えに従うか、従わないかによって、人々の間に争い(反抗)が引き起こされると言っています。

イエス様は、イエス様の言葉(普遍の真理)に従うためには、あらゆる例外をもうけず、

何よりも大切なものとするようにと、説いているのです。


わたし以上に父や母を愛する者は、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。

また、わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。

後生大事に自分の命を守ろうとする者は、それを失いますが、

わたしのために、命を失うものは、かえってそれを保つ(自分のものとする)のです」

以上マタイによる福音10章より(ルカ12章、14章)


イエスは、父母を敬う(愛する)ようにと説き、隣人を自分を愛するように愛しなさいと、説いています。

さらに、それ以上に、何よりも大切なものを示しています。

イエスがこの世に来て、真理を説く事により、人々(家族等)の中にそれを信じる者と、

信じない者との争いが起こる事は、不思議なことではありません。


イエスは、イエスの言葉(普遍の真理)に従うためには、あらゆる例外をもうけず、

何よりも大切なものとするようにと、説いているのです。

さらには、イエスの言葉(真理)に従うためには、この地上の命に執着しないようにと言っています。

それが、永遠の命を得ることにつながると、説かれているのです


k-style (引用)

http://www.fruits.ne.jp/~k-style/index.html#x3




■ 直感を鋭くするとは、

2011-09-15 08:06:52 | Weblog
イマジネーションをして、会話しているフリして、ガイドに繋がったり、

インスピレーション(直感・ひらめき)を鋭くする方法はスピリチャルを学んでいる方は良くしているものです。

実際はイマジネーションや想像しているものは真実だと言われています。


興味深い事をバシャールは言っていますね。

イマジネ―ション(想像)と空想の違いを使いわけさしてくださいと言っています。

イマジネーションは現実であり、空想は非現実であると考えてないみたいですね。

イマジネーションも空想も両方とも現実であると言っています。

イマジネーションはこの物理次元の中である程度達成できる目標を示し、

空想の方は現実ですが、ただ、この物理次元での生活には応用できないというだけと言っています。


バシャールなどはフィジカマインドをリラックスさせて、イマジネーションやインスピレーション(直感・ひらめき)を通して、
ハイヤーマインドとコミュ二ケートをさせる能力(プログラム)です。

イマジネーションやインスピレーションは2つをつなぐプログラムなんだそうです。


リモ―ト・ビューイングなどは、頭に浮かんだ映像は、間違いである事が多いと言っています。

頭に残っているデータを元に脳がイメージを創り上げてしまうと言われています。

左脳が邪魔をするから右脳がとらえた情報を有効にして、左脳を黙らせる事、

つまり考える事をさけられる事ができたなら、右脳で得た情報を意識に移らせるというこんなんだそうです。

実際のトレーニングなどは、3秒以内に書いたりするようにすれば、

左脳が考える余地を与えないから、間違った情報を排除できると言っています。

また別なティチャ―などは、自分の考えや心の中のおしゃべりを区別すると言う事みたいです。

自分の情報は私にやってきているのですか?

私からやってきているのでしょうか?

こう言ったことで自分で判断できると言うみたいです。

そう言った心のおしゃべりをなくすのは瞑想が適していると言われています。

でも、心を空っぽにしていたり、ネガティヴな思考になっていたりすると、

ネガティヴな存在が入ってきます。

思いや行いを嘘のつけない心で、反省や悔い改めをして、心の浄化に努めないといけませんね。

類は友を呼ぶ法則がありますから、お釈迦様の言われてるように、ハ正道を実践しないといけませんね。


八正道の大切さ。

2011-09-13 07:34:31 | Weblog
お釈迦様は人生について悩み29歳の時に出家した釈迦は、6年間の修行の末

35歳の時に、真理に目覚め悟りを開いたと言われがあります。


釈迦は初めての説法で修行者たちに次のように説いた。

「苦行で身体を痛めつけ続ける者は、疲労と衰弱で精神の集中が妨げられ、通常の思考すら、

ままにならなくなる。そんな状態で、どうして真理への道を歩いているといえるだろうか」

釈迦は真理への道をたどろうとするならば極端を離れて 「中道」 を歩むべきだと説きはじめた。

お釈迦様のお話の中に、琴の音色の事について話しています。

弦の緩みがあれば音はなりません。

弦を張り詰めると、弦は切れてしまいます。

琴の音色の音を出そうと思えば、丁度良い張りかたがあります。

右にも左にも偏らず、極端な思考や生き方をせず、中道の生き方が大切だとお釈迦様は説いています。


中道とは次の8つの正しい道(八正道) だと示したのである。

◎正見 ( しょうけん ) = 正しく物事を見る

◎正思惟 ( しょうしゆい ) = 正しい心の持ち方

◎正語 ( しょうご ) = 正しい言葉を話すこと

◎正業 ( しょうごう ) = 正しい行いをすること

◎正命 ( しょうみょう ) = 正しい生活を送ること。

◎正精進 ( しょうしょうじん ) = 正しい努力を重ねること

◎正念 ( しょうねん ) = 正しい自覚を持つこと

◎正定 ( しょうじょう ) = 正しい瞑想をすること


八正道こそ中道の道

2011-09-12 08:05:18 | Weblog
八正道は、人間をして、中道を歩ませる規範であります。天国に繋がるかけ橋です。

左にかたよらず、右に曲がらぬ中道への道、つまり神性、仏性への道、正覚への道なのです。
すなわち、

一、正しく見ること、

一、正しく思うこと、

一、正しく語ること、

一、正しく仕事をなすこと、

一、正しく正しく生活すること、

一、正しく道に精進すること、

一、正しく念ずること、

一、正しく定に入ること、の八っです。

この八つの規範の1つが欠けても、中道の道は歩めないし、正覚を得ることも不可能であると説いています。

また、これ以上であってもいけない。たとえば戒を守れとか、瞑想のみの生活を送れとか、苦行せよ、といったようなものです。

それは釈迦自身が、いろいろな経験を通して得た中道への道は、八正道以外にないと悟ったのであり、

八正道こそ、真理に繋がり、この世に人間が生存するかぎり、その真理は生き続けていくものであるからなのです。

〔高橋信次・心の指示〕


天地いっぱいの無字

2011-09-11 09:10:46 | Weblog
坐蒲(ざふ)の上で死に切ると言う気がまえぐらいないとね。

座禅は足がへし折れる、足一本や二本ぐらい無くなってもいい~

そうでないと、とてもなりきるところまでは行かれないと思います?


座禅でも、瞑想していても、次から次へと雑念が浮かんできます。

煩悩・妄想は本来根なし草なのだから、決してそれに囚われてはならない。

無念無想になろうとは思ってはならない。

妄想を止めよう、やめよう言うこと自体がまた妄想・煩悩になります。

ある師家の方などは、それは血で血を洗うようなものだ。

血は水で洗わなければ、決して綺麗にはならい。

その血を洗い流す水が、無の字なのである。


無の字を間断なく続けて行くと、これまでの悪い習慣や知識や自覚は、すべてとろけていきます。

無の境地が自然に純熱して、やがては天地いっぱいの無になりきる時がきます。

天地いっぱいの無字になりきるところまで行かなければ、無の境地を体験した事にはならない。

我を忘れて、無字になりきったすなわち三味、そのものの、それになりきる。

無が爆発して、我を忘れて、無の字になりきった時に、なんらかの感覚の縁にふれて、本来の自己を悟ると言うものです。

真理への道

2011-09-10 07:36:05 | Weblog
釈迦は初めての説法で修行者たちに次のように説いたと言われがあります。

釈迦は真理への道をたどろうとするならば極端を離れて 「中道」 を歩むべきだと説いています。

右にも左にも偏らず、極端な思考や生き方をせず、中道の生き方が大切だとお釈迦様は説いています。

中道とは次の8つの正しい道(八正道) だと示したのである。

◎正見 ( しょうけん ) = 正しく物事を見る

◎正思惟 ( しょうしゆい ) = 正しい心の持ち方

◎正語 ( しょうご ) = 正しい言葉を話すこと

◎正業 ( しょうごう ) = 正しい行いをすること

◎正命 ( しょうみょう ) = 正しい生活を送ること。

◎正精進 ( しょうしょうじん ) = 正しい努力を重ねること

◎正念 ( しょうねん ) = 正しい自覚を持つこと

◎正定 ( しょうじょう ) = 正しい瞑想をすること


調和とやすらぎのない生活をしていれば、低級霊に憑依されかねません。

心が空っぽになっている時などは、低級霊などは簡単に入ってきます。

うらみ、ねたみ、そしり、怒り、情欲、足ることを忘れた欲望、思いやりがない、その他もろもろ執着の想念が、

こうした不調和を作ってしまいます。

ちゃんとした指導者の下で、坐る事をご指導されたほうが良いですね。


そうした執着を善なる己に嘘をつけない心でその歪みを修正し、心の曇りを晴らさないといけませんね。

反省やまたは悔い改めを行い、調和とやすらぎの生活を取り戻して行かないといけません。


高橋信次氏などは、波長の原理によって、心が暗くなるから魔が近寄ってくると言われています。

病気や不幸のどん底にあってどうしても心を明るくできるか解からないと言う人は、

子供時代の幸せであった事などをありありと思い出して瞑想することから始めれば良いと言っています。

そうして、美しい、調和された光の中に、美しい粧われている自分の姿を瞑想する事です。

魔や悪魔があって、油断をすると自分を傷つけるかもしれないと言う恐怖心を、あなたの中から一掃して、

「我は力なり、われはひかりなり、我は常に祝福されているこれからよい事ばかり現れてくる」と信じる事をしなさい。

そうすれば魔に支配される事は絶対にありません。


高橋信次師のことば、
園頭広周 正法出版


四諦八正道

2011-09-07 10:54:00 | Weblog
こころの図書館


釈迦の教え 「いのちの真理」引用

人生について悩み29歳の時に出家した釈迦は、6年間の修行の末

35歳の時に、いのちの真理に目覚めました。悟りを開いた釈迦の教えである。

いのちの真理 とは 「四諦八正道 ( したいはっしょうどう ) 」である。

釈迦は初めての説法で修行者たちに次のように説いた。

「苦行で身体を痛めつけ続ける者は、疲労と衰弱で精神の集中が妨げられ、通常の思考すら、

ままにならなくなる。そんな状態で、どうして真理への道を歩いているといえるだろうか」

釈迦は真理への道をたどろうとするならば極端を離れて 「中道」 を歩むべきだと説きはじめた


中道とは次の8つの正しい道(八正道) だと示したのである。

◎正見 ( しょうけん ) = 正しく物事を見る

◎正思惟 ( しょうしゆい ) = 正しい心の持ち方

◎正語 ( しょうご ) = 正しい言葉を話すこと

◎正業 ( しょうごう ) = 正しい行いをすること

◎正命 ( しょうみょう ) = 正しい生活を送ること。

◎正精進 ( しょうしょうじん ) = 正しい努力を重ねること

◎正念 ( しょうねん ) = 正しい自覚を持つこと

◎正定 ( しょうじょう ) = 正しい瞑想をすること


「そして、人の世が四苦八苦に満ちていることを見極めなければならない。

生まれることが苦の始めであり、年を経て老いていくこと、病を得て弱っていくこと、

最後に死んでこの世から消えることが、まず四苦。

愛する者と必ず別れなければならない。愛別離苦 ( あいべつりく )。

憎しみや恨みを抱く者と必ず会わなければならない怨憎会苦(おんぞうえく)。

求めようとするものがどうしても手に入らない求不得苦 ( ぐふとっく )。

執着 によって起こる心と体のさまざまな悶えの五蘊盛苦 ( ごうんじょうく )。

これらをあわせて四苦八苦 ( しくはっく ) と称するのだ。


5人の修行者たちは、腰を抜かさんばかりに驚いた。自分たちが長い年月をかけても

到達できなかった真理の道が、溢れる泉のように現れ出てくるではないか。

澄んだ清水が渇ききった砂漠に吸い込まれるように、

彼らの心の中には救いの教えが注ぎこまれていった。」

最後に釈迦は、偉大な悟りの道筋を4つにまとめて締めくくった。


◎苦諦 ( くたい ) = 生まれてきたわれわれの世の中の様相は「苦」であると見極めること。

◎集諦 ( じったい ) = 「苦」を引き起こすのは欲望と執着を集めることと見極めること。

◎滅諦 ( めったい ) = 見極めた「苦」の原因、人の世の「欲望と執着」を捨て去って滅すること。

◎道諦 ( どうたい ) = それを導く具体的な手段の「八正道」を日々怠りなく実践すること。


これらの教えを 「四諦八正道(したいはっしょうどう)」 といい、

仏教の根幹の教義として確立したのである。

そして与えることの大切さ、そして 慈悲の心 を持つこと 即ちすべての人に

「深い 友愛の心 (慈無量心じむりょうしん)」を持つこと。すべての人と

「共に悲しみ苦しむ心 (非無量心ひむりょうしん)」を持つこと多くの人々の

「幸せを見て喜ぶ心 (喜無量心きむりょうしん)」そして、あらゆる 執着・我意識を捨てて

多くの人々に 施す心 を限りなくもちなさい。人生は四苦八苦「迷い」や「執着心」を断って

「考えすぎな い」のが一番だと悟りました。

苦から抜け出るには 八正道を実践 しなさいと説かれました


http://www.tamano.or.jp/usr/tosinobu/book/indexself.html

命の贈り物

2011-09-06 21:50:12 | Weblog
命の贈り物の中にこう書いてあります。

食べ物が床にこぼれてしまったら、かがんで食べ物を拾い、掃除するだけの事です。

人生も同じです。

何か間違いを犯したら、ひざまずいて訂正するために必要なことをやって、さらに進んでいけばよいのです

これも神が私たちに与えてくださっる祝福の一つです。

神は私たちが間違いを犯したからといって、裁いたり、追い詰めるようなことはしません。

そうではなく、間違いをしたならばその間違いをし、後始末を訂正して、

次にはもっとうまくやる事ができる機会をくださるのです。

誰もがこの現実に目覚める必要があります。

そして、この認識を踏み台にして、自分の人生を改善していくのです。

人生は転んだら転んだままというようなものではありません。

転んだら自分で立ちあがって、間違いから教訓を学んで次回にはもっとうまくやっていく、

そして、正しい道にとどまる努力をしていく、それが人生です。