光のかけ橋

心と癒しの世界

人の最大の敵は家族の中にいるのです。

2010-11-24 21:26:16 | Weblog
祭壇の前に手を合わす時には、父や母をそして兄弟と和解をして、調和をみいだしてから、手を合わせる事が大切だと聞いた事があります。、

御経そのものは釈迦の説法書いたもので、教文の意味を悟り、実践している者が教文を読誦する場合は、

迷った霊はその読誦するの波動(光の波動)によって、浄化されます。

したがって、そういう意味ではお教は供養になるといいます。

地上界の子孫の実生活の調和しかないことを知るべし、高橋信次先生は言っておられます。


真理を実践していると、人を取るか?真理をとるかと言う事がは必ず身のまわりにおきてきます。

迷わず、真理を取るようにしなさいと説いている方がいますね。

イエス様は、父母を敬う(愛する)ようにと説き、隣人を自分を愛するように愛しなさいと、説いています。

イエス様がこの世に来て、真理を説く事により、人々(家族等)の中にそれを信じる者と、

信じない者との争いが起こる事は、不思議なことではないと言っています。

イエス様の説く教えに従うか、従わないかによって、人々の間に争い(反抗)が引き起こされると言っています。

イエス様は、イエス様の言葉(普遍の真理)に従うためには、あらゆる例外をもうけず、

何よりも大切なものとするようにと、説いているのです。



わたし以上に父や母を愛する者は、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。

また、わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。

後生大事に自分の命を守ろうとする者は、それを失いますが、

わたしのために、命を失うものは、かえってそれを保つ(自分のものとする)のです」

以上マタイによる福音10章より(ルカ12章、14章)


イエスは、父母を敬う(愛する)ようにと説き、隣人を自分を愛するように愛しなさいと、説いています。

さらに、それ以上に、何よりも大切なものを示しています。

イエスがこの世に来て、真理を説く事により、人々(家族等)の中にそれを信じる者と、

信じない者との争いが起こる事は、不思議なことではありません。


イエスは、イエスの言葉(普遍の真理)に従うためには、あらゆる例外をもうけず、

何よりも大切なものとするようにと、説いているのです。

さらには、イエスの言葉(真理)に従うためには、この地上の命に執着しないようにと言っています。

それが、永遠の命を得ることにつながると、説かれているのです



k-style (引用)

http://www.fruits.ne.jp/~k-style/index.html#x3



天地いっぱいの無字

2010-11-24 09:31:29 | Weblog
座禅でも、瞑想していても、次から次へと雑念が浮かんできます

煩悩・妄想は本来根なし草なのだから、決してそれに囚われてはならない。

無念無想になろうとは思ってはならない

妄想を止めよう、やめよう言うこと自体がまた妄想・煩悩になります。

ある師家の方などは、それは血で血を洗うようなものだ。

血は水で洗わなければ、決して綺麗にはならい。

その血を洗い流す水が、無の字なのである


無の字を間断なく続けて行くと、これまでの悪い習慣や知識や自覚は、すべてとろけていきます。

無の境地が自然に純熱して、やがては天地いっぱいの無になりきる時がきます。

天地いっぱいの無字になりきるところまで行かなければ、無の境地を体験した事にはならない。

我を忘れて、無字になりきったすなわち三味、そのものの、それになりきる。

無が爆発して、我を忘れて、無の字になりきった時に、なんらかの感覚の縁にふれて、本来の自己を悟ると言うものです。


なんやかんやと自分はほざいて来ましたが、生半可な古庵の言う事など、聞かずに禅門の門をたたいて見てくださいね

禅宗には沢山の素晴らしい和尚さんがいます。

思い切り、座禅を出きる所もありますよ。

足がへし折れる、足一本や二本ぐらい無くなってもいい~足がへし折れてもいいと言う気がまえぐらいないと、

とてもなりきるところまでは行かれないと思います


山田無門老師こう述べています。

隠室に独参して、門答する為に入室しての帰りに、本堂のイチョウを見たときに、飛び上がるほど驚いた。

私の心は忽然ととして開けた。

無は爆発して妙有の世界が現前したのです。

隠寮に走って、参禅したら、公案の問題は出せれたが、その場で解決された。

すべては新しい。すべては美しい。すべては真実です。

すべては光っている、そしてすべては自己である。

悟り(見性)とは?

2010-11-21 22:04:07 | Weblog
お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。

しかし、その意味は誰にもわかりません。

その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました

今からおよそ2500年前にお釈迦様が悟りを開かれて、時空を超えて、人の心から心にと伝わったと言われがあります。

この摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものでした。

このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心から心に伝わっていったものだと思います。

大勢いた修行者の方はみんな理解できてなかったのだと思います。

日本古代の開祖もお釈迦様の悟りが、心から心に伝わって、また開祖から沢山の修行者に伝わって行ったものだと思います。
このお釈迦様が蓮の花を見まして、摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれたと言う事なんですが、
これは悟り(見性)をしている者しか理解ができないとものだと思います。
お釈迦様の時代に沢山の修行者がいても、ただ一人の摩詞迦葉尊者だけがお釈迦様の蓮の意味を理解できたと言う事なんですね。


この悟り(見性)とはどんなものなのか?

若輩者の自分がいうのも変ですが、一つのものを二つ見ているのが迷いで、一つと見るのが悟りだと言われがあります。

我を忘れて、無になり切る、三味そのものになり切る事が、何らかの感覚にふれて、本来の自己を悟る事だと思います。

何らかの感覚にふれて、初めて仏性を悟ることかもしれません。

古代の開祖が伝えている悟り(見性)を古庵が言うのでしょう?

それは古庵が○○の生まれ変わりや○○○○の生まれかわりだからと言うティチャ―もいますし、

1300年前に悟りを開いた者と言う方もいますが、

それは違います。


誰でも、お釈迦様やイエス様の示されている正法・正道を実践し、

正道を実践しているの師匠の下で、修行していたら、道は必ず開かれます。

でも、残念ですか、沢山の方はお釈迦様やキリスト様の示しているものではなく、能力的なものを追い求めている感じがします。

能力的なものを追い求めていたら、その能力は開けると思いますが、

それは心の進化の過程であって、副作用や副産物だから?

それで止めるのではなくて、それをも捨てて行けば、きっと悟り(見性)が開ける事ができるかもしれません。

本来、人間は悟りを開く為に生まれて来るとか、因縁解消をする為に生まれて来ると言われていますが、

その道に沿って、行くことが大事だと思います。


沢山の方が宗教アレルギーを起こしているかもしれませんが、心なき者が宗教と言う聖なるものに手あかを付けた事は非常に残念です。

何事も本物や偽物もあると思います。

全ての宗教が偽物でもないし、学んでいて、可笑しくなるとは思いません。

生きて行く為に書かれた教科書がちゃんとあるんだから、それを学ぶ事が大切だと思います。

本物を見つける眼を持たれたらいいんですよ。



光のかけ橋の項目にも載せてあります。

意識をのり越える時にエックスシーの体験は筆舌では伝えられない限界があります。

素晴らしい気分になり、意識的に自分を超えるなにものかがあり、合理的な考えだけが全てではないと言うことです。

自然と一体と言うか、山々の木の音や風の音とこの世では聞いた事もないような鳥のさえずり、

鳥が自分であって、自分が鳥のようでした。全てが一体で、自然が自分でした。

あらゆる音や見える景色もまったく今まで見たものとは明らかに違っています。

座禅によって、自分の本性を悟る事が大切だと思います。

座禅は思いを手放しにします。 居眠りをせず考えをせぬようにして、生き生きと覚めて骨組と筋肉で、正しい坐相をねらって行かないといけません。

それと何よりも正道を学んでいる師匠の下で座り、師の恩恵にて悟りを開く事ができると思います。

まさに悟りをテッペンカケタカのホトトギスのひと声です。



無心で見て聞く  

道元に「聞くままに、また心なき身にしあらば、己れなりけりの軒の玉水」と言う歌があります。

自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのままで自己であったと言うのです。

芭蕉が松島を見たとき、「松島や あ、松島や松島や」
松島以外の言葉がでていませんでした。

「花は紅、柳は緑」といいます。きのうなずなの花を見、柳の木を見ていたのですが、きょうは全然違って見えたというのです。

白秋は「ばらの木にばらの花咲く何事の不思議なけれど」
歌っています。

「尋常一様窓の月、僅かに梅花あってまた同じからず」と言う句がある見たいですが、いつも見ている窓辺の月に変わりはないけれど、

きょうは梅一輪の匂いのために、
同じ月が、まったく違って見えるみたいです。

自己を忘れて、無心になずなの花を見て、軒の雨ざれを聞いて、自己がそのものになった。

花や軒のあまざれになりきる三昧のとき自己を悟られされると思います。

心も妄念とかある間は見るものも歪んで写ります。

人の心も同じようで、風がふいて波が立つとそこに写っている対象物もぐにゃぐにゃに揺れると思います。

妄念や雑念に支配されなくなるとちょうど、月が湖面に映し出されるように空にもお月さんが浮かんでいるように心そのものだけが現れてくると思います。、

本当の自分をはっきりとつかめないとしてもうっすらぼんやりとかいま見る事ができるかもしれません。

道元や芭蕉のように無心で見て聞く極致になってみたいものです。

そのものになりきる。

2010-11-19 23:17:12 | Weblog
それもなり切る事、なりきった事でと言う事を前にもいいましたよね?

チャネリングでもそうだと思いますが、誘い水をして、会話をしてみたらいいんです。

誘い水を使って、子供が天使と会話しているように、空想でもいいし、

イマジメ―ション使って、会話してなり切る事が大切なんですね


ここで一番重要なのは、心の調和とやすらぎを見出せない方は、

その心の中のガラクタ、ゴミがなくなるまではお勧めできません。

お釈迦様の八正道を実践する事が大変大切なんです

で、ないと、天使と思って会話し続けているつもりでも、

実は低級霊だったりして、低級霊に支配されてしまい、

あげくの果てに、精神分裂になりかねない事になりますからね


チャネリングとか習って、見えない、聞こえないと言う方がいると思いますが、

映写機の光の強さによっては、見えるものが見えないと思うかも知れませんね。

ちゃんと映像には、映像が映っているのだけど、手動のタイミングが合っていないから

見えないと決めつけている方もいます。

自分なんかは、チャネリングのティチャ―を受け入れるのには、少し時間がかかりました。

自分の眼の中には、第三の眼と言って、渦があります。

明けの明星と言って、お釈迦様が言っていますよね。

この明けの明星のまたたきと言われるものなんです。

だから、同じものを見ても、見るものが違いますし、

そういったものから、開く方がいますが、心の中の葛藤や重圧を解放しないと、

いけないんですよ


それと無意識の葛藤に心の重圧とか強い場合は、少し難しいと思います。

その影響がおさまるというか?澄んで行く過程を通り過ぎてしまうまで、行って行く事ですね。

よくサードアイが開いているとか言う方がいますが、それは鮮明にみれる方かもしれませんが、

第三の眼が現れている方もいますし、それだけではダメで、心の広がりがあり、

心を解放して自由にして行く方もいますから、いろいろだと思います。

カルマのパンドラを開けている者もいます

そのカルマのエネルギーというか?サイダーの泡の如く、湧きあがってきます。

それを解放して、波立っている湖面がいつかはおさまり、湖面がおだやかになって

お月さんが湖面に映るようになり、そのもので見るようになる方もいると思いますよ。


それと反省や悔い改めをして、心の浄化に努めないと非常に危険です。

また、こんな事をいいますと、他のティチャ―に嫌われますね(汗)


常識的なものや風習、習慣を一度、改めて、手放しにして、

なり切るとはどうなんだろうと?

今まで無理と投げ出していた事を、全部手放しをしたらいいんですよ。

それと期待する事を止めて、ただ行うと言う事が必要です。

自分は悟りを目指して、深山深くの山寺に入って、坐った事がありますが、

行く途中は、身体から炎があがるぐらい大きな声で気合いをいれて行きましたが(笑)

道場で、修行が始まった時に、眼の前にはただ壁がある。

変な妄想も、怖いものも何もない、ただあるのは、眼の前にある壁だけと集中していました。

でも、集中と言っても、睨みつけるのではなくて、一点からあまり眼を離さずにいて、

思いも湧いてきますから、それも手放しして行きました。

まして、悟りとかも坐った時には期待も手放しでしたね。

ほんと不思議なものですね~

茶髪をして、バンドしたり、調子にのっていたものが、

実は一番、相応しくない者だったんですよよ(笑)


霊道法や魂ふりとかありますが、できないというのではなくて、まず、期待をせずに、

誘い水を使って、なり切ってみてはいいと思いますよ。

例えば、霊道法とかありますが、憑依現象のように○○○○ようなしぐさを?

まぁ~これをいうと危険ですからね。

ちゅんとした指導者について行う事が一番いいです。

これも素質というか?思い行いと心の浄化に努めている方には、

自分は無償で教えています。

何をするのにも、ものになると言う事は、なり切る事なんだと思います。

先仏の手本にして、後仏がそれを学ぶーなねぶーならうと言う事を道元禅師はおっしゃっていますからね。

こちらは禅に興味がある方は、秋月先生の書物も参考にしたらいいですよ

座禅とは?

2010-11-19 20:02:30 | Weblog
道元禅師の座禅の中では、只管打座がでてきますが、

無情の悟りを悟るのには、無上の無為の妙実があると言うのです。

仏が仏に伝えきた自受用三味というのが、標準であると言っています


受用するというのは、法をわが身に受けて用いるのだそうです。

自分が悟って、その道を味わって、その道を生きて行くのが、自受用、

それを他人に向かって説いて、他人を悟らせると言うのが。他受用と言う事みたいです。


自受用三味と出て来ましたが、三味とはなんだろう?

三味とか、それ一つになり切る。


道元禅師の言う座禅で、はっきりと只管打座という言葉が出て来ます。

ひたすらと言うと言うよりも、ただと読む方が良いと言っている方がいます。

只管打座して、ただ座禅して、身心脱落する事を絵よと言っています。

身心脱落するという事は、身と心が脱落するという事なんだそうです。

先程の三味と出て来ましたが、一つになり切ると言うことみたいですが、

それ一つになり切るとは?


現成公案にもありますが、ひな鳥が親鳥の自由に天空に羽ばたくのを見て、

ひな鳥は羽根をパタパタと習う事であり、先仏を手本にして、後仏がそれ学ぶと言う事みたいですね。


そのなり切ると言う事が出て来ましたが、丁度よい例え話があります。

コマがうまく回転している時には、丁度一点に静止しているように見えるそうです。

そのものになり切って、ものになると言う事も言われていますが、

車の運転でも、スキーでも上達すれば、ものになったと言われますね


道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。

自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。

三味の話が出ましたが、心の安定・集中の境地と言われています。

座禅をさらに続けて行きますと、だんだん座禅が身についてくると思います。

ただ、もう~忘れて、無心で座禅をしていますと、無心と言う事がどんなことか、体験して行くと思います。、

無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、

聞くままに、心身にしあれば。己りなりけり軒の玉水。

自己を忘れた時、方法に証せられる。

無相の自己を悟らされる。

修行しないと現れないと思います

ここで言う修行とは?座禅です。

本来めいめい持っていると言われています。

本来の自己・本来の悟り。


悟って仏になったらと言っても何もなにないと、何もプラスされたわけではない。

何もならない思いますが、その何もならないのなら、

何もしない方が良いと思って言っている方がもっと何もならないと思います。

修行しない現れるものではないと思いますが、本来めいめい身に持っているものが現れて、

自分が悟って実証してみないと、はっきりとそれを掴む事ができません。


余談な話をしますが、能力的な事やチャネリングとかものにしている方がいますが、

それもなり切る事、なりきった事で、そういった能力が開花して、ものになったと思います。

あえて言いますが、座禅とは瞑想ではありません。


骨格と筋肉にまかせて、思いを手放しをするという事が求められます。

若輩者の自分が、座禅のお話をするのは、心が咎めますが。、

座禅は奥の深いものです。

自分が語ったのは、少しでも香りが伝えられたらと思いましたが、何せ語る資格のない者です

禅宗には素晴らしい沢山のお坊さんがいて、いくらでも座禅をさせてくれますからね?

骨格筋肉にまかせてと言うよりも、ただ、ひたすら座禅をしてくださいね。

最後を迎えられる・理想の病院

2010-11-13 21:37:11 | Weblog


先月の週末から、毎日通っている国立病院です。

ここの病院とは縁が深くて、ことあるごとにお世話になっている病院なんです。

看護婦さんもみんな親切で、優しくて、それに教育が行き届いていて、感心させられます。

実はこの間、身内の者が手術がありました。

その前に手術に関する事で説明があると看護婦さんに言われて、お部屋に呼ばれました。

そこには若くて綺麗な女性先生と若い男前の先生でした。

天はニ物を与えたかと?内心思いましたね。

ほんと羨ましい限りです。


それに病棟にいて、周りの患者さんをみていたら、深く考えさせられますね。

自分も最後を迎えられる時には、この国立病院に決めています。

海の見える美しい景色もありますが、やはり自分のお世話になった沢山の方が、

この国立病院で最期を迎えられていますからね。

とても愛着があるんですよ。

こう言った最期を迎えられる、理想の病院を持つ事が大切だと思います。


まだ、あの世に行くのには少し早いと思いますが、

悔いのないようにしっかりとお釈迦様やキリスト様に開祖が伝えている正道・正法を少しでも伝えられたらと思っています。

それが使命だとか?役割りだとか?

数名のティチャ―さんから良く言われますが、自分は役目とか使命とかの言葉は好きではありません。

自分の思うように、好きなようにこれからもして行くだけです。

でも、そう言っても、正道・正法を伝えたい思いはとても強いものがあります。


自分は遥かインドでも、この日本でもあまり体験している者はいないと言われているクンダリ二―覚醒体験をしています。

それに古来開祖が伝えられている悟り(見性)も体験しています。

こう言った体験はスピリチャルな事を目指している方でも、絶無にない事だと言われています。

良く有名なティチャーさんから、菩薩の生まれ変わりだとか?グループソールとか言われる事よく言われます。

でもね、人間はみな神の分け御霊なんですよ。

創造主と同じものを持っているんです

だからね一部の方だけ選ばれたとかはないんですよ~


スピリチャルなティチャーさんでもあまり体験していないものを体験すると言う事は、自分にしかできないものがあると思っています。

それはいくら体験しても、それはあくまで体験であって、霊性が高いと言う事ではなくて、

仏教や聖書の中にある正道を実践できていない限り、高い霊性は身に付いてない、

身に付かないと言う事を伝える事が、自分の思い(役割)かもしれませんね。

もしかしたら、それを伝える為に生まれて来た目的の一つかもしれません。


いくら時代が変わろうが、お釈迦様やキリスト様や沢山の開祖が伝えて来た正道・正法は変わらないんです。

一回限りの人生なら、何もしないで、思うままの行動していてもよいかもしれませんが、

輪廻転生があるならば、宇宙が成長して行くように、人も成長して行かなくてはならないと思います。

その永遠の中の今を見つめて、何が必要であるかおのずと解かってくると思います。

二つの戒め(掟)

2010-11-07 21:24:10 | Weblog
自分は思いと行いを日々の目標においています。

調和と安らぎのある正法の生活・正法に適った心の持ち方を実践する以外に道はないと思っています。

自分の心の王国の支配者は自分以外はないと思っています。


最も重要な掟とは?

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

これが最も重要な第一の掟です。


第二も、これと同じように重要みたいです。

自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

律法全体と預言者の教え(真理)は、この二つに基づいているのです」

以上マタイによる福音22章より(マルコ12章、ルカ10章)


イエスは、この二つの戒め(掟)が、すべての戒め(掟)の中で最も大切なもので、この二つを守る事がすべてを守ることになると言っています。

これは、真の愛が、すべての正しい行い(掟)の基になることを意味しています。

ここにはイエスの教えを知るうえで最も大切なことが示されているのです。


神(創造主)を心から(心、魂、思いを尽くして)愛すること、さらには隣人を自分のように愛すること(真の愛、慈愛)がイエスの教え(真理)の基にあることが説かれているのです。

たとえ、どのように掟を守っても、真の愛がなければ偽善となる事をも表しているのです。

この地上に生きている以上、人間は罪からまったく逃れる(掟を守りきる)事は出来ないでしょう。

イエスは、人の行いの善悪の評価には、表面上の行為や結果より、その人の心(意志、真の愛)が最も重要である、大切(必要)なものであると説いているのです。

夢のまた夢

2010-11-02 20:48:46 | Weblog
夢のまた夢

若い時にクンダリ二―覚醒を目指して、約半月ぐらいで覚醒体験をしました

自分自身で、その火の蛇と言われているクンダリ二―を上げてしまいました、。

それから悟り(見性)を禅寺で二日間で開かせて貰いました。

クンダリ二ー覚醒体験は日本でもはるかインドでも珍しいと言われるものです。

その凄まじいクンダリ二―覚醒体験は筆舌には言い尽せないものでした

クンダリ二―覚醒を起こして、失敗したなら、その火の蛇によって、死か?廃人になるか?

言い表せない不安にさい悩やされました


もし、失敗だったら、頭が焼きただれて死んでしまうのか?

あるいは内臓が焼きただれて、死んでしまうのか?

その当時にはそう言った体験者の残した書物もあまりなく、絶望の中で途方に明け暮れていたと言う感じでした。


自分は一体何者なのか

沢山の修行者がいて、クンダリ二―覚醒体験するのは、いつの時代か定かではないが、

前世修行したから、今世で覚醒できる可能性があると有名な巨匠さんに言われた事がありました。


光のかけ橋の項目にもクンダリ二―覚醒の事を書いていますが、

スピリチャルな世界でも珍しくクンダリ二―覚醒体験をしています。

クンダリ二―覚醒者は日本でも珍しくはるかインドの国でも聖者の類と言われていますけどね。

スピリチャルな世界でも珍しいと言われているクンダリ二―覚醒や悟り(見性)を通して、

正道の香りや菩薩の輝きを伝えるのが自分の思い(役目、使命)と言うのはあまり言いたくはありませんが、

そういった感じがありました

それとクンダリ二覚醒は聖人でもないし、如来・菩薩でもないんです。

体験はあくまで体験だと自分は思っています。

若い時に自分は如来か菩薩の生まれではないのか?

傲慢な気持ちが湧き起こった時に禅寺の和尚さんペシャンコにされましたよ(笑)


今まで体験して来た事は心の進化の過程であって、広大無辺な悟りの中ではほんの少し入り口に入っただけです。

他の宗教関係の主催者などは、クンダリ二―覚醒は聖人や如来・菩薩と言っている方がいますが、

自分はそれは進化の過程であって、決して菩薩や如来ではないと言っているんです。

その違いがあるだけなんですよ

実はこんな事をばかり言いますから、脅迫もありますし、脅しもあるんですよ(涙)

でも、自分は止めない(笑)


キリスト様やマリア様の或るいはマザーテレサなど愛の人と言われていますが、それは高い霊性を身につけていますから、

聖人や菩薩と言われても良いと思いますが、自分にはその霊性が身に付いてないんです

体験があっても、キリスト様の深い愛もなく、お釈迦様の慈悲も身についてはいません。

それには何回もいいますが、ハ正道を行ったり、聖書の中にある真理の実践をしないと霊性が身に付かないと思っています。

ただ、如来・菩薩様の教えがありますが、その教えを今の時代で、少しでも伝えたいと思っています。

一般の方でも沢山の伝道者がいますよね~

その一般者の中の伝道者の一人にすぎません。


スピリチャルなティチャ―さんからは、○○太子・○○菩薩・○○○ヨハネ・1300年前ぐらいに悟りを開いた者・

神界からやって来た知恵を持った者または妖精とか今まで沢山の事を言われてきました。


たしかにミクシーブログでも、クンダリ二―覚醒や悟りと言って、開祖が通った道を通った感じのティチャ―はあまり聞いた事がありません。

殆どのティチャ―さんは能力的なものが主みたいな感じですね。

自分とはまったく違った道だとつくづく思いました

でも、それはそれでいいんですよ~どちらかが優れているとかはないんですよ。

ただ、そういったものよりもキリスト様やお釈迦様に菩薩様や女神様の霊性が身についているかと言う事が大切なんです


自分は良く言われてる、菩薩の本体ではないと思っています。

あえて言うのなら、分身かグループソールと言われているものかもしれませんね。

キリスト様やお釈迦様或いは開祖が残した正法・正道を少しでも多く伝えたい気持ちがとても強いんですよ。

どうにかこうにか生きて来れたけど、どうして自分は他の方にない生き方しかできないんだろうか?

でも、今のままでは、こんなもののままでは死んでも死にきれないものがありますね

もっとキリスト様や釈迦様の正道・正法を伝えたいと思っています。

能力的なティチャ―さんのように能力を持って、普通の生き方に家庭を持ち、

それでいて霊性を高く身につけていけたら、どんなに良いのだろう~

自分には、これも夢のまた夢ですかね


日記の更新が少し遅くなります。

母が入院中なので、ごめんなさい。


不思議な感情

2010-11-02 20:47:23 | Weblog
不思議な感情

前にアガスティアの葉の検索の事で書いた事があります

そのアガスティアの葉の検索に該当とすると、

思われる方の勤めていた所にいかないといけない事があって行きました。

もう~三日間も行くはめになりました。

当分、母の事情でその場所に行く事になると思います

はるか何百年の時空を超えての出会いであったと思われる方の勤めていた所に行きましたよ


ほんと不思議なものですね。

今ではもう~その方が居ないんです。

お勤めしていた所なんだけどね。

もう~嫁いでいますし、昔の話になりました。

実は外見はあまり好みではなかったんです(笑)


でも、引かれるものがありました

何故か置いてきぽりにあったと言うか?

母に捨てられた感情のような感覚に近いものがありました。。

母と二人きりの生活をして、最後は看取ると言う事になって、

最後には一人ぼっちになったと言う寂しい感じが残っているのかなと思います。

今では、幸せであってほしいと陰ながら思っています


皆さんの周りでも何故か気になる、どうしてなのか

解からないから、余計に気になると言う方が周りでいましたら、

強い縁があるかもしれませんね

その理由にはいつの時代かの、前世のなごりがあるかもしれませんね


魂の友 日記より

若い時にフッと思った事がありました。

自分のソウルメイトは何処にいるのだろう?

実家の田舎にある地域の○○○の仕事している方ではないかと思った時がありました。

ソウルメイトとはごく身近にいて、仕事関係や友達関係とか親戚筋を通して?出会う事が多いと言われていますよね。

自分は友達関係から出会うのではないかと思っていました。

まぁ~ふと思った幻想だから、気にもとめませんでした。

それはまだ見ぬソウルメイトでした。

それが後から現実になろうとは夢にも思えませんでした


ある実家の近くにあるお店に行った時に、その方と偶然出会ったのが始まりました。

それからというものは幻想に悩まされましたね(笑)

それから偶然、近くの○○に○を連れて行った時に、偶然その方がいました。

その方が職業を変えていたのか?偶然また出会ってしまいました。

その後にその方の勤めている○○に母を連れて行かないといけない事態が発生しました。

現在の母と前世の母が二人前に居て、それに自分がいました。


この女性の事は一切解からない状態でしたが、後から解かった事なんですが、

なんと住んでいる所と職種も昔、ふと思った事が偶然同じでありました。

それと夢の中に意識が保たれた時に炎の鏡を見たら、この方はソウルメイトだと気づきました。

その方が今、時空を飛び越えて自分の眼の前に姿を現している。なんとも不思議なものでした。


今だから言えることなんだと思っていますが、、自分だけの秘密の宝物と思って封印していました。

そりゃ~なんの根拠もない妄想の世界ですのでね。

はるか何百年の時空を超えての出会いであったと自分は思ってます。


縁と言うものはほんと不思議でもありますね。

前世のゆかりの方(前世の母、恋人、子供も妻)と今世で出会って、電気が走るほどの衝撃を受ける事があります。

前世での繋がりが親子であったり、夫婦だったりした場合は現世でも同じような関係を繰り返すと言われています。