バーソロミューの書籍に記載されています。
もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。
その鳴き声をフランチェスコは今までとは全く違うように聴こえました。
その鳥の歌声のパワーによって、フランチェスコは悟ったのです。
お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。
しかし、その意味は誰にもわかりません。
その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこりほほ笑まれました。
このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、
お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心から心に伝わっていったものだと思います。
そこに居た大勢の修行者の方はみんな理解できてなかったというものです。
山田無門老師こう述べています。
隠室に独参して、門答する為に入室しての帰りに、本堂のイチョウを見たときに、飛び上がるほど驚いた。
私の心は忽然ととして開けた。
無は爆発して妙有の世界が現前したのです。
隠寮に走って、参禅したら、公案の問題は出せれたが、その場で解決された。
すべては新しい。すべては美しい。すべては真実です。
すべては光っている、そしてすべては自己である。
これは覚醒体験を述べられていると思います。
スピリチャルな事をしていたり、またそれを目指している方がいっぱいいますが、
こういた体験は極めて稀なことだと言われています。
それは正道を実践されている師の下で、ご指導を仰ぎながら正法を学び、正道を実践する以外は道は開けないものだと思います。
一人よがりの覚醒や霊的目的ばかりを追求していては、危険なゆえに自己満足の世界に浸り、
進化の過程を遅らす事にもなりかねません。
お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになった意味も、
鳥の歌声のパワーによって、フランチェスコは悟ったその意味が解かったとしても、
クンダリニー覚醒をした秘伝者は日本いや世界でも滅多にない体験だと言われても、
覚醒や悟り(見性)体験しても、体験したから霊性が高いと言う事ではないと思います。
体験はあくまでも体験だと思います。
失礼があったらいけないから、これはあえていいますが、古庵個人の見解です。
西遊記の話の中に孫悟空が雲に乗ったりして遠く走り、そこで見つけた柱に自分の名前を書いて得意になって、
帰ってきて報告をしたらそれはお釈迦さまの指に書いた名前だったと言う話がありました。
所詮威張ってみても、やってることは小さいと諭した話がありました。
イエス様の愛やお釈迦様の慈悲を説いておられる、実践してこそ霊性が高くなるものだと思っています。
古庵個人の見解は心の進化の過程であって、広大無辺な悟りの中ではほんの少し入り口に入っただけだと思っています
今まで体験した事は西遊記の話の中のように、お釈迦様の手の中のちっぽけな存在です。
高橋信次先生は言っておられます。
八正道は己の心を中道という調和に引き戻す神の模範、心が自然についていける自分自身になった時に初めて菩薩の行が整ってくると言われています。
八正道も知らず、心の調和も為し得ない者には菩薩行は為し得ないと、高橋信次先生や園頭広周師がおっしゃる理由がまさにここにあります。
八正道は小乗であって、小さな悟りと言われているそうですが、正法には大乗も小乗もないそうです。
八正道が実践できてこそ、霊性が高いと言われるものだと思っています。
もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。
その鳴き声をフランチェスコは今までとは全く違うように聴こえました。
その鳥の歌声のパワーによって、フランチェスコは悟ったのです。
お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。
しかし、その意味は誰にもわかりません。
その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこりほほ笑まれました。
このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、
お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心から心に伝わっていったものだと思います。
そこに居た大勢の修行者の方はみんな理解できてなかったというものです。
山田無門老師こう述べています。
隠室に独参して、門答する為に入室しての帰りに、本堂のイチョウを見たときに、飛び上がるほど驚いた。
私の心は忽然ととして開けた。
無は爆発して妙有の世界が現前したのです。
隠寮に走って、参禅したら、公案の問題は出せれたが、その場で解決された。
すべては新しい。すべては美しい。すべては真実です。
すべては光っている、そしてすべては自己である。
これは覚醒体験を述べられていると思います。
スピリチャルな事をしていたり、またそれを目指している方がいっぱいいますが、
こういた体験は極めて稀なことだと言われています。
それは正道を実践されている師の下で、ご指導を仰ぎながら正法を学び、正道を実践する以外は道は開けないものだと思います。
一人よがりの覚醒や霊的目的ばかりを追求していては、危険なゆえに自己満足の世界に浸り、
進化の過程を遅らす事にもなりかねません。
お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになった意味も、
鳥の歌声のパワーによって、フランチェスコは悟ったその意味が解かったとしても、
クンダリニー覚醒をした秘伝者は日本いや世界でも滅多にない体験だと言われても、
覚醒や悟り(見性)体験しても、体験したから霊性が高いと言う事ではないと思います。
体験はあくまでも体験だと思います。
失礼があったらいけないから、これはあえていいますが、古庵個人の見解です。
西遊記の話の中に孫悟空が雲に乗ったりして遠く走り、そこで見つけた柱に自分の名前を書いて得意になって、
帰ってきて報告をしたらそれはお釈迦さまの指に書いた名前だったと言う話がありました。
所詮威張ってみても、やってることは小さいと諭した話がありました。
イエス様の愛やお釈迦様の慈悲を説いておられる、実践してこそ霊性が高くなるものだと思っています。
古庵個人の見解は心の進化の過程であって、広大無辺な悟りの中ではほんの少し入り口に入っただけだと思っています
今まで体験した事は西遊記の話の中のように、お釈迦様の手の中のちっぽけな存在です。
高橋信次先生は言っておられます。
八正道は己の心を中道という調和に引き戻す神の模範、心が自然についていける自分自身になった時に初めて菩薩の行が整ってくると言われています。
八正道も知らず、心の調和も為し得ない者には菩薩行は為し得ないと、高橋信次先生や園頭広周師がおっしゃる理由がまさにここにあります。
八正道は小乗であって、小さな悟りと言われているそうですが、正法には大乗も小乗もないそうです。
八正道が実践できてこそ、霊性が高いと言われるものだと思っています。