光のかけ橋

心と癒しの世界

クンダリニー覚醒

2008-03-23 21:02:55 | Weblog
クンダリニーの覚醒は尾低骨のまわりに蛇のようにとぐろをまいている宇宙エネルギーであって、基底のムーラーダ-ラー.チャクラから上昇をしスシュムナーを通って、頭頂のサハスラーまで、上昇し霊的覚醒が起り超感覚的クンダリニー体験すると言われています。クンダリニーがスシュムナーを通らず両側にあるイダかピンガラ内のピンガラを通って上昇した場合に高熱が1週間続いて死んでしまったと言う事があるみたいですから気持引き締めて、経験深い指導者の下で、行なうようにしてください。


私の体験として、クンダリニーを覚醒するという体験は非常に強烈かつ言葉では言い表せない凄まじい体験でした。その頃は心臓とか内臓の病気を患い生きる望みもなくなり死を見つめるようになった頃、1つの書籍が眼にとまりました。マニプラチャクラと言って臍の上にあって、太陽神経叢が目覚めれば生死をさまよっても床を立つとかみたいな事を書いてたと記憶しています。これを見て、どうせ死ぬのならクンダリニーの覚醒をしてからでも遅くないと思いこれが独学での修業の始まりでした。


ある特殊な行法を行なって、調度2週間目過ぎぐらいあたりに異変を感じまして、尾抵付近になにかゴトゴトする感覚と焼き鏝をあてられてる感覚を感じました。例えようのない恐怖、胸騒ぎとこれ以上ない心臓の動悸、息切れ地響きではないかと思うぐらい身体の揺れで、もうこれ以上持ちこたえる気持も限界に達して、これ以上ない苦痛と恐怖で、もう自分は死ぬんだなと死を受け入れた時にクンダリニーが轟音とともに登頂に駆け上って行き一瞬気を失ってしまいました。そして、気がついた時は仰向けになっていて、少し時が経っていたように感じました。はっと気がついた時に全身のオラーが金色に輝いて、登頂のサハスラーからは金色のオラーが放出してるのが見えて、これがクンダリニーの覚醒と言うものかとやっと我にかえり助かったと脂汗が流れました。いつの間にやら眠りについていて、気がついた時は自分の体から抜け出していて、そこに横たわっている自分を見つめていました。これが死と言うものか俺は死んだんだと思いまして、なるほど、これが死と言うものか、少ししてからその横たわっている自分を意識したらその横たわっている自分に戻ってました。なるほど、悟りを開いている導師とか師匠とかは生きてるうちに死にきっているのかと思いました。このクンダリニーの体験は信仰心が必要だと思えるし死を受け入れ死の恐怖を克服しないと多分、途中でクンダリニーを止めていたかもしれません。

このクンダリニーの覚醒後、何もかも終わったと思い、やっとこれで助かり生きれると感じましたが、この出来事以来から大変な苦痛の始まりでした。眼を瞑れば真っ赤な風景に真っ赤な神社とか見えたり耳からは精妙な音が聞こえたりリンリンと鈴の音や太鼓やフルートとかまたはブンブン蜂の群がる音とか聞こえてきました。それ以来は泣き止まぬ音として、自分の一部になっています。その当時は自分も若くて、精力旺盛な時期でしたが、一時的に性を抑制しこの修業に打ち込みました。その結果この性エネルギーは捌け口がなくなりどこにもいけず脊髄のところを調度温度計みたいに上がったり下がったりしているみたいな感じがしましたしまたある時は心臓まで上がり心臓の動悸して、非常に不快感を感じました。またある時は下腹の付近にシュッシュッと音をたてて、水蒸気が立ち上っている感じがしましたしまたある時はジューとしぼんで行く水蒸気みたいにも感じがしました。

クンダリニー体験者は異常な灼熱体温をあじあうとか伝えられていますが、自分も焼きただれてしまうぐらい異常な体温になりある時は頭にこの熱が集まり眼をつぶれは眼の中の細胞とか真っ赤に見えたりして、氷で頭を冷やすのに5センチぐらいの厚さの氷があっという間に溶けてしまいました。自分もクンダリニーが覚醒して、イドかピンガラ内のピンガラを通って、上昇したのかと思い高熱が続いて焼きただれて死んでしまうのかとどん底に突き落とされ絶望の中でこの熱がおさまるのを待ち続けました。これは味わった事のない者には解らず一晩中恐怖と絶望の中で身体は熱でぐったりし夜が明けるのを待ちました。いつの日か覚えてないけど、夢の中で、おまえは失敗だったと修業者みたいなお人に指摘されその事がきっかけになり経験豊富な巨匠の門をたたいた事が今では懐かしい体験であったと思えます。もう随分時がたって、今では父に巨匠のもとに連れて行ってもらったことが懐かしい思い出になりました。


◎クンダリニー覚醒は悟りの第1歩です。必ず次のステップに進んでください。心の進化を怠ると弊害があり非常に危険ですし摂り返しのつかない事態に陥ってしまいます。必ず、修業を積んだ経験深い師匠に相談してください。超能力を得ることだけが目的ではありませんし自我を滅して、心の進化を怠らないように努めてください。


◎光のかけ橋のクンダリニーワーク(瞑想修業)は準備が整い次第新着情報にてお知らせしたいと思っています。主に心の進化を目的にして、瞑想(特殊な行法は行ないません。)を行ないたいと思います。いかなる宗教、団体とも関係ありません。個人、古庵は大師でもなくクンダリニー覚醒の師匠でもなく、ごく普通の人間です。自分より優れた心の持ち主は沢山いますしそれを目標にしています。普通の人間が普通に生きているだけで、特別な者ではありません。ただ、悟りの中の第1歩だけ進んだだけに過ぎません。自分が目指しているは高潔な人格者になり少しでも人の為になれたらと思っています。



聖フランチェスコ

2008-03-21 20:01:59 | Weblog
バーソロミューと呼ばれる高い次元の叡智のエネルギーが語ったものみたいで、
大いなる叡智が語る愛と覚醒のメッセージに書かれています。
そこにはこう記されていました。

聖フランチェスコは自分達と同じ情欲や金銭欲な持ち
自分達と同じように酒や女や快楽を持っていたと言われます。
自分が求めていた喜びが、思ったほど得られないと気づいたフランチェスコは、
ますます激しく快楽的生き方に走ったと言われます。
自分の罪深い行いをして欲望を極限まで探し求めたみたいです。
そして、自分の意識を克服しなければならない障害について見つめるようになりました。

フランチェスコは意識の深いレベルで、死の現実と対決することを決心したのです。
非常に重い病気を選び、ほとんど死にかけていた状態だったそうです。
その病床の中で、心の境界線が少しずつ狂い高熱の状態のなかで、ある悟りを得たといいます。

善であることと神の愛が同じであると信じようとしていたところその二つは同じ事ではないと理解しました。
善い人でなくても神への愛を持たない人もいます。
フランチェスコは神への愛は神を愛したい思いによって決定されると言うことを理解したそうです。
自分の間違いに気づいたフランチェスコは、その人生にとってこの上もなく重要なものであったと言われます。

高熱の中で、フランチェスコは、どうしたら神を愛する事ができるのだろうか。
神を愛することなくして、生きていく事はできない、
どうしたら愛せるか解らないとジレンマに陥ったみたいです。
そして、これは非常に喜ばしい意識状態だった。
何日も苦しみが続き熱も上がり、不安が増し絶望が募りました。

ついにある朝に、もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。
その鳴き声をフランチェスコは今までとは全く違うように聴こえました。
その鳥の歌声のパワーによって、フランチェスコは悟ったのです。

フランチェスコが悟ったのは神を愛する唯一の方法は、
神の声を全ての中に聴く事だと言います。
死にゆく者の泣き声の中に、きちがいの叫びの中に、らい病の絶望の中に、
恋人達の抱擁の中で、これこそが神を愛する道だと思ったそうです。
これらの音と神の声を分けるものは何もない

この音こそが神の声そのものだとフランチェスコは悟りました。
それまで、自分を混乱におとしめた世界と自分との分離はもはや存在しないと理解し一人旅にでたそうです。
神は全ての中に存在すると言う真理を悟っているフランチェスコは
多くの人々には変わり者に見えたそうです。

兄弟である風や空について語り鳥や動物や虫などに語りかけ、多くの人々は彼を見てきちがいだと思ったそうです。
フランチェスコは、人生の多くの時間をただ一つの事を祈るためについやしたのです。
最愛の人の人生を完全に再体験できるように・・・・十字架にかけられたキリストでした。

肉体的な苦痛であるばかりか混乱した社会において聖痕を身にまとうことは非常に辛い事である事も知っていました。
それにも関らず毎日祈り私にもあのう苦痛を味わせてください。

フランチェスコは神々しさをまわりに示したいのではなくて、自分の心とキリストの心が最終的に一つになる事を祈ったみたいです。
自分達と何も違わない普通の体を持った男が昼も夜も祈りつづけ断食をして、泣き叫んび待ち続けたそうです。

そして、とうとうついに、ある日、山の上で、聖痕と呼ばれるものが体に現れました。
大いなる広大無辺なエネルギーが山から動いて行き、それが近づいてきた時、
その大いなる光が体中に入ったら自分は再び同じではありえないと疑いなく理解しました。
気ちがいになるか目が見えなくなるか耳は聞こえなくなるかもしれない、体か焼きただれて二度と動けなくなるかもしれない。
そして、大いなるパワーがやってきて、交信がなされたそうです。

大いなる声が(私の心に完全に入る意思があるか)と尋ねて、フランチェスコはありますと答えたそうです。
フランチェスコはその瞬間が全て根底から変容されうるものだと、暗闇や苦痛、そして光と自由の世界に変容される事を知っていました。
それでもフランチェスコはいいます。
(私はあなたのものです。あなたなしでは生きていけません。あなたのしたいようにしてください.......。)

フランチェスコの臨終を迎える時に仲間の修道士達が悲しみました。
あなたが居なくなると寂しくてなりません。
するとフランチェスコはこう答えたそうです。
あなた方はまだ学んでないのですね。

すべては一つ生も死も一つです。神が風の中にいるのなら死の中にもいない事はない、
この空間が満たされているのならあなたが空になる事があるでしょうか?
あなたが全ての一部なのなら何を失うなどどうしてありますか?

フランチェスコが亡くなった後、修道士の親しかった者数人がその意味を理解し始めたみたいです。
風の音を聞くと、フランチェスコを思い出し風の音とフランチェスコは同じ事だと気づきました。
暖かい陽射しあびると、フランチェスコを思いだし太陽とフランチェスコは同じだと思いました。
フランチェスコの死によって、深遠なる教えが果たされました。
その教えは自分の苦しみが何を訴えようとも決して自分の愛するものからへだてられるものはない。
ただひたすら愛してください。愛の中にあってはあなたから奪われるものはない。

※人間は自分とは肉体の事だと思っている、想念の持つパワーを信じていないと言うことだそうです。
いつも考えている事が、自分が受け取る事だとフランチェスコは教えてくれているみたいです。
フランチェスコが聖痕を呼び寄せる事ができたのなら自分達も内なるパワーを使って、大いなる光を呼び寄せる事は可能だと言うのです。
フランチェスコが細胞組織の重い物質エネルギーを変容させる事ができるのだったら自分達も創造できるそうです。
最も強力なものの一つはあなたの心だそうです。