釈迦は初めての説法で修行者たちに次のように説いた。
「苦行で身体を痛めつけ続ける者は、疲労と衰弱で精神の集中が妨げられ、通常の思考すら、
ままにならなくなる。そんな状態で、どうして真理への道を歩いているといえるだろうか」
釈迦は真理への道をたどろうとするならば極端を離れて 「中道」 を歩むべきだと説きはじめた。
お釈迦様のお話の中に、琴の音色の事について話しています。
弦の緩みがあれば音はなりません。
弦を張り詰めると、弦は切れてしまいます。
琴の音色の音を出そうと思えば、丁度良い張りかたがあります。
右にも左にも偏らず、極端な思考や生き方をせず、中道の生き方が大切だとお釈迦様は説いています。
中道とは次の8つの正しい道(八正道) だと示したのである。
◎正見 ( しょうけん ) = 正しく物事を見る
◎正思惟 ( しょうしゆい ) = 正しい心の持ち方
◎正語 ( しょうご ) = 正しい言葉を話すこと
◎正業 ( しょうごう ) = 正しい行いをすること
◎正命 ( しょうみょう ) = 正しい生活を送ること。
◎正精進 ( しょうしょうじん ) = 正しい努力を重ねること
◎正念 ( しょうねん ) = 正しい自覚を持つこと
◎正定 ( しょうじょう ) = 正しい瞑想をすること
八正道こそ中道の道〔高橋信次・心の指示〕
高橋信次先生の説いた八正道こそ中道の道
八正道は、人間をして、中道を歩ませる規範であります。天国に繋がるかけ橋です。
左にかたよらず、右に曲がらぬ中道への道、つまり神性、仏性への道、正覚への道なのです。
k-style (引用)
彼岸にいたる者は少なく、此岸にある人々は、ただ岸にそって走るのみ。
法句経
解脱して彼岸(永遠のいのちの世界)にいたることこそが仏教者の目標になります。
それはすばらしいもの、どうしても手に入れたいもの、この身に体得したい真に価値あるものなのでしょう。
仏陀はそこに至る者は少ないと言っています。
多くの人々(ほとんどの人々)が彼岸に渡ることなく、この此岸の側にいるという事でしょう。
この世に生きているわれわれにとっては、此岸(現世を含む人霊的輪廻再生の世界)のほうがらくで、
一見楽しくて、さも喜ばしそうなものに見えるのでしょう。
しかし、仏陀の教説のように、ひとまずこの世は苦の世界(人間[人霊]としての輪廻再生の中)と知らなければならないのでしょう。
仏陀は29歳前後に出家しその後解脱したとされています。仏陀の生きた当時の社会慣習として、
求道者は、生涯の内に林住期[バーナプラスタ]として家を捨て宗教的な求道生活をすることがありました。
仏陀が求道生活に入ったのが、若すぎるとは言い切れません。
仏陀が80歳まで生きたというのは、当時としては非常に長命であったのです。
この世の命(肉体)を、大切に生きたといえるでしょう。
晩年その身体を、こわれそうな荷車にたとえて、補修しながらやっと動かしているのだよ、と言ったと伝えられています。
多くの人々がもっと若くして亡くなっていたのです。
求道生活に入ったからといって、いつ満足のいく成果(悟り)が得られるかわかりません。
求道を志した人にとっては、まさに、志を持ったその時に求道生活に入ることが望まれるのです。
したがって、仏陀の出家は、家族にとっては唐突であったのですが、ある程度当時の社会の慣習にそったものでした。
当時の社会環境においては、出家を果たした人々(求道者)は、乞食(こつじき)によって食を得る事が可能でした。
したがって、彼らは、真の法を体得する(求める)努力をする為の、質素な生活が可能であったのです。
(彼らは、物を生産する事は無く、財産を持つ事も無かったのです)
時代も環境も違う現在の私たちが、同じような出家を果たす事は、非常に難しいでしょう。
その精神と同じような生活をする事は、まったく不可能ということでもないのでしょうが、
困難な事と言わなければならないでしょう。
現在の求道者(信者)にとっては、執着するものはより多く存在します。
仏陀当事の人々は、出家により社会的地位も、社会的人間関係も、名誉も、財産も、家族も事実上棄てることになったのです。
求道のためにそれらへの執着から離れる事を目指しました。
それはまた、この世の自分の命への強い執着から離れることをも意味しました。
現在の私たちが、仏法の体得を目指す場合には、少なくともそれらに対する強い執着から少しでも離れる事が、
第一歩と言えるのではないでしょうか。
激しい苦行によっても私は通常の人や法を超越した最高の知恵に到達することが出来なかった。
悟りにいたる真の道があることに気づいた。
中部経典
道の人よ、道を学ぶ人が実践してはならない二つの極端がある。
一つは、もろもろの欲望のままに楽しみにふけることである。いま一つは、みずから身体を苦しめさいなむことにふけることである
。
人格を完成した人はこの両極端に近づかないで、中道(適切な正しい道)を悟ったのである。
相応部経典
道の人とは、仏道(仏法)を学ぶ人に対して語られたものです。
道を学ぶ人は、二つの極端な生活をさけるようにとしています。
一つは、享楽の生活にふける事です。
これは生活に楽しみを持つなということではなく、享楽にふけることなく節度をもつことが大切という事でしょう。
もう一つのさけるべき極端な生活とは、自らの身体を苦しめるような苦行生活のことです。
以上の極端な二つの生活はさけるようにとしています。
まさに、仏陀自身が二つの道を体験した上での言葉なのです。
王子として、すべてのものに恵まれて、享楽にふける、ぜいたくな生活において、
真の満足は得られなかった(精神においては苦悩していた)のです。
また、苦行生活においても、真の満足は得られなかった(心は安定しなかった)のです。
そこからは、解脱への道として八正道(適切な正しい道)が示されています。
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/index.html#x3
「苦行で身体を痛めつけ続ける者は、疲労と衰弱で精神の集中が妨げられ、通常の思考すら、
ままにならなくなる。そんな状態で、どうして真理への道を歩いているといえるだろうか」
釈迦は真理への道をたどろうとするならば極端を離れて 「中道」 を歩むべきだと説きはじめた。
お釈迦様のお話の中に、琴の音色の事について話しています。
弦の緩みがあれば音はなりません。
弦を張り詰めると、弦は切れてしまいます。
琴の音色の音を出そうと思えば、丁度良い張りかたがあります。
右にも左にも偏らず、極端な思考や生き方をせず、中道の生き方が大切だとお釈迦様は説いています。
中道とは次の8つの正しい道(八正道) だと示したのである。
◎正見 ( しょうけん ) = 正しく物事を見る
◎正思惟 ( しょうしゆい ) = 正しい心の持ち方
◎正語 ( しょうご ) = 正しい言葉を話すこと
◎正業 ( しょうごう ) = 正しい行いをすること
◎正命 ( しょうみょう ) = 正しい生活を送ること。
◎正精進 ( しょうしょうじん ) = 正しい努力を重ねること
◎正念 ( しょうねん ) = 正しい自覚を持つこと
◎正定 ( しょうじょう ) = 正しい瞑想をすること
八正道こそ中道の道〔高橋信次・心の指示〕
高橋信次先生の説いた八正道こそ中道の道
八正道は、人間をして、中道を歩ませる規範であります。天国に繋がるかけ橋です。
左にかたよらず、右に曲がらぬ中道への道、つまり神性、仏性への道、正覚への道なのです。
k-style (引用)
彼岸にいたる者は少なく、此岸にある人々は、ただ岸にそって走るのみ。
法句経
解脱して彼岸(永遠のいのちの世界)にいたることこそが仏教者の目標になります。
それはすばらしいもの、どうしても手に入れたいもの、この身に体得したい真に価値あるものなのでしょう。
仏陀はそこに至る者は少ないと言っています。
多くの人々(ほとんどの人々)が彼岸に渡ることなく、この此岸の側にいるという事でしょう。
この世に生きているわれわれにとっては、此岸(現世を含む人霊的輪廻再生の世界)のほうがらくで、
一見楽しくて、さも喜ばしそうなものに見えるのでしょう。
しかし、仏陀の教説のように、ひとまずこの世は苦の世界(人間[人霊]としての輪廻再生の中)と知らなければならないのでしょう。
仏陀は29歳前後に出家しその後解脱したとされています。仏陀の生きた当時の社会慣習として、
求道者は、生涯の内に林住期[バーナプラスタ]として家を捨て宗教的な求道生活をすることがありました。
仏陀が求道生活に入ったのが、若すぎるとは言い切れません。
仏陀が80歳まで生きたというのは、当時としては非常に長命であったのです。
この世の命(肉体)を、大切に生きたといえるでしょう。
晩年その身体を、こわれそうな荷車にたとえて、補修しながらやっと動かしているのだよ、と言ったと伝えられています。
多くの人々がもっと若くして亡くなっていたのです。
求道生活に入ったからといって、いつ満足のいく成果(悟り)が得られるかわかりません。
求道を志した人にとっては、まさに、志を持ったその時に求道生活に入ることが望まれるのです。
したがって、仏陀の出家は、家族にとっては唐突であったのですが、ある程度当時の社会の慣習にそったものでした。
当時の社会環境においては、出家を果たした人々(求道者)は、乞食(こつじき)によって食を得る事が可能でした。
したがって、彼らは、真の法を体得する(求める)努力をする為の、質素な生活が可能であったのです。
(彼らは、物を生産する事は無く、財産を持つ事も無かったのです)
時代も環境も違う現在の私たちが、同じような出家を果たす事は、非常に難しいでしょう。
その精神と同じような生活をする事は、まったく不可能ということでもないのでしょうが、
困難な事と言わなければならないでしょう。
現在の求道者(信者)にとっては、執着するものはより多く存在します。
仏陀当事の人々は、出家により社会的地位も、社会的人間関係も、名誉も、財産も、家族も事実上棄てることになったのです。
求道のためにそれらへの執着から離れる事を目指しました。
それはまた、この世の自分の命への強い執着から離れることをも意味しました。
現在の私たちが、仏法の体得を目指す場合には、少なくともそれらに対する強い執着から少しでも離れる事が、
第一歩と言えるのではないでしょうか。
激しい苦行によっても私は通常の人や法を超越した最高の知恵に到達することが出来なかった。
悟りにいたる真の道があることに気づいた。
中部経典
道の人よ、道を学ぶ人が実践してはならない二つの極端がある。
一つは、もろもろの欲望のままに楽しみにふけることである。いま一つは、みずから身体を苦しめさいなむことにふけることである
。
人格を完成した人はこの両極端に近づかないで、中道(適切な正しい道)を悟ったのである。
相応部経典
道の人とは、仏道(仏法)を学ぶ人に対して語られたものです。
道を学ぶ人は、二つの極端な生活をさけるようにとしています。
一つは、享楽の生活にふける事です。
これは生活に楽しみを持つなということではなく、享楽にふけることなく節度をもつことが大切という事でしょう。
もう一つのさけるべき極端な生活とは、自らの身体を苦しめるような苦行生活のことです。
以上の極端な二つの生活はさけるようにとしています。
まさに、仏陀自身が二つの道を体験した上での言葉なのです。
王子として、すべてのものに恵まれて、享楽にふける、ぜいたくな生活において、
真の満足は得られなかった(精神においては苦悩していた)のです。
また、苦行生活においても、真の満足は得られなかった(心は安定しなかった)のです。
そこからは、解脱への道として八正道(適切な正しい道)が示されています。
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/index.html#x3