ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

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NO3 全女デビュー!?

2009年03月12日 00時00分50秒 | ROSSY's HISTORY
 私の高校時代、プロレス団体は全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレス、そして全日本女子プロレスの4団体しか存在しなかった。男子3団体の首都圏大会は、ほとんど会場に出入りしていたが、好奇心旺盛な私は、プロレス・ファンがさほど目を付けていない女子プロレスに着目した。デイリースポーツや日刊観光、週刊ファイトしかマスコミには載ることがない。だから自分の目で見て、写真を撮って記録を残す、それが自分の使命のように思えた。一介のファンの分際で、そんな事を考えるなんて、今思えばホントにおかしな少年だったと思う。私は勉強を全くしない学生だったが、プロレスにかけての知識や、写真撮影では誰にも負ける気がしなかった。それだけ勘違いさせてくれるほど、プロレスは夢中にさせてくれたのだ。
  女子プロレスを追いかけたのは、未知の分野でトップに立ちたい、と勝手な思い違いをしていたからだ。全女の会場は昭和50年から、ポツリ、ポツリと後楽園ホールを中心に通い始めた。マッハ文朱という、私と同年代のスターが誕生し、少し一般に開かれた感じがした。マッハはTVというメディアで初めて、存在が認められた女子プロレスラーだった。マッハの出現により、女子プロレスを知った人がほとんどだろう。51年になると広告塔であるマッハは、突然の引退。記者会見があったわけではなく、自然消滅のようにマット界から消えていったのだ。マスコミ報道がなく、引退の真実は闇の中…マッハの引退に関心があった人が何人いたかは知らないが、少なくても私にとっては謎の出来事だったのだ。そこに出現したのは、スーパースターになるず~と以前のビューティ・ペアだった。    
  ジャッキー佐藤とマキ上田の二人は、前年にデビューした大型ホープ。170台の長身と十代の若さが魅力で、いきなり命名されたのがビューティ・ペアとは、どんな気分だったのだろうか…51年2月23日、後楽園ホールでビューティ・ペアは誕生した。黄色のだぶついたコスチュームから見える太ももには、新人選手によく見られる青タンが、いくつかあった。新人が受身の練習をすると、きまって青タンを作る。キャリア1年足らずのルーキーにマッハ引退後の、全女を背負わせるのだから当時から、松永兄弟は相当にキテレツだった。
  その頃には、東京写真専門学校(現・ビジュアルアーツ)に入学した私は、モノクロ・フィルムを使い始め、せっせと撮っては自ら現像を試みた。首都圏の会場も訪れ、リングサイドで勝手に試合を撮影する。マスコミも誰も居ないリングサイドは、自由自在。その頃、中学生だった田口かほるが(影かほる)が練習生でもないのに、セコンドにいたのは不思議だった。後で判ったのは、彼女は松永ファミリーだったことだ。松永社長(のちの会長)がなぜか良くしてくれ、私は顔パスで出入りしていたのである。とても呑気で、いい時代だった。何か疑問があると、決まって松永社長に聞きに行った。「ベティ・ニコライが全日本の佐藤昭雄と、結婚しましたが…」と尋ねると、「男が騙されたんだろう!(笑)」といった具合で、答えてくれたものだ。ベティ・ニコライは、全女が呼んでいたNWA系のトップ女子レスラーだ。撮影した写真はパンフレットに使われ、私は全女デビユーを果たしたのだった。(つづく)

▲私と同世代のビューティ・ペアが売り出された。

▲70年代は長髪ブーム。メキシコのイルマ・ゴンザレスと。

▲これが私が全女デビューした写真。ジャッキー佐藤の勇姿だ。

▲当時のパンフレットに使われた1枚。写真専門学校だけに自分で現像し、写真を焼き付けた。
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