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空想科学ロケット旅行

Let's Go Swanky Street, Singing The Kids Are Alright!

片岡義男『夏と少年の短篇』

2006-01-26 04:37:48 | Reading
夏という季節の透明感にあふれ、その中でもはや失われてしまった虚構としての少年と少女の一瞬が、日焼けした肌の上の水滴のように光っている作品集。

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片岡義男という作家のことは当時の角川文庫のキャンペーンなどで知っていたが、「なんとなくお洒落でトレンディ(死語)な小説を書く人」という認識しかなく、というよりもその頃はそういうものを毛嫌いしていたので、手にとることはなかった。

そんな僕が片岡作品にハマッていくきっかけになったのがこの短編集だった。

最初に読んだのはもう10年以上前、新聞の新刊広告で見かけたのだが、もともと「少年」というキーワードが大好きで、このタイトルがあまりにも簡素で美しかったので記憶に残っていたところ本屋で偶然見つけ、表紙のイラストがずっと昔の中学生向け雑誌(「中2コース」とか)の挿絵みたいなかんじでこれまた印象的で思わず購入した。

そして最初の一篇「私とキャッチボールをしてください」で一発KO、片岡ワールドへとハマッていくことになった。

片岡義男=お洒落トレンディと思っている方(僕もそうだった)にこそ読んでほしい。今はハヤカワ文庫で手に入るはず。

とくに「私とキャッチ・ボールをしてください」「あの雲を追跡する」「おなじ緯度の下で」の3篇が非常によい。読み返すたび、ラストシーンで呼吸が止まるようだ。

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(文庫本 裏表紙より)
17才から18才の少年と少女にとって夏は特別の季節だ。夏の間に、少年と少女は大人への第一歩を踏み出す。初めて自らの意志で理想の異性を意識することによって。梅雨のあいま、本格的な夏、そして晩夏。それら夏の独特の時間の中で、ほとばしる少年と少女の繊細な官能性のすべてを、さわやかに、端正に表出した片岡義男の青春小説集。「私とキャッチボールをしてください」「永遠に失われた」など清冽な7篇を収録。


私とキャッチ・ボールをしてください
夏はすぐに終る
あの雲を追跡する
which以下のすべて
おなじ緯度の下で
永遠に失われた
エスプレッソ二杯に固ゆで卵をいくつ?

解説(赤瀬川 隼)



梅図かずお『漂流教室』

2006-01-26 03:26:26 | Reading
<お蔵出し>


これはすごい! はっきり言って『ドラゴンヘッド』なんかメじゃないです。なにより主人公である翔の母親の行動が常軌を逸しているというかなんというか、もうぶっ飛びまくり。

でも最初に出てきた給食費泥棒の伏線が最後にきちんと活かされていたし、ストーリーとしてはうまくまとまっているし、最後にアメリカから電話がかかってくるというのはちょっといきなりな感じもしなくもないけど、これもビンに詰めた手紙の伏線どおり。

途中途中の細かいエピソードは週刊連載のための盛り上げに必要だったのだろうからあまりどうこうというのはないですが、やはり子供同士が殺し合いに発展するあたりは『蝿の王』が描かずに止まったところを突き進んだんだな。最近でいうと『バトルロワイヤル』だけど、こっちのほうが設定に必然性があるだろうと思います(『バトル~』読んでないんですけど)。

卒論の最後で大林宣彦監督の映画版のラストシーンを採りあげたんだけど、原作のほうを読んでいたらもっと全然違った採りあげ方になっていただろうなあ。

映画のほうは翔たちの未来を見つめる晴れ晴れとした表情がラストにあったが、原作のほうでは実際の表情は地面に伏せているところが最後で、母親が夜空に見る翔は現実ではないんだよな。

それにしてもフジテレビもこれをよくドラマ化しようと思ったな。といっても設定だけ同じで中身は全然違ったんだろうけど…(これも未見なのでよくわかりませんが)。

なによりもこのストーリー展開で最後に子供達が元の世界に戻れるのではなく、むしろ新しい世界で積極的に生きていこうと決断するというのがこの作者のすごいところ。

やっぱりこの人の「子供を子供として見る視点」ってただものではない。

例えば『ドラえもん』は<未来から来たネコ型ロボットが便利な道具を次から次へと出す>というストーリーを活かすために主人公は小学生という設定がされているんだけど、この作品の場合は<主人公が小学生でなければ物語世界そのものが成り立たない>というところから出発している。

この<必然としての子供>という設定はもうひとつの代表作である『私は慎吾』でも同様であり、この作者の特徴のひとつだろう。ああ、このあたりって大学の頃だったらもっと突き詰めて考えたテーマなんだけど、今はそんな余裕もなく…(しくしく)。

そういった意味ではやっぱりフジテレビのドラマは主人公たちを中学生だか高校生にしたというところからして、もはやこの作品が持つ本来の意味とは別のものになってしまっていると思う(別にそれが悪いというわけではないけど)。ま、そもそも"Long Love Letter"という副題が付くぐらいだからな。


作品の冒頭からいきなり

「おかあさん… ぼくの一生のうちで、二度と忘れることのできないあの信じられない一瞬を思う時、どうしても、それまでのちょっとしたできごとの数々が強い意味をもって浮かびあがってくるのです。」

というモノローグ?で始まるというのも印象的だけど、たぶんこれは翔がユウちゃんに託したノートの一番初めに書いてあったんだろうな。

なんにしてもまだ読んでいない方は、行ったことがないマンガ喫茶に行ってでも読むことをお勧めします。 20021112




ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』

2006-01-26 02:40:49 | Reading
<お蔵出し>


主人公であるクインは自分を自分以外のものになぞられる(なぞれえられていく)。小説の作者、、小説の主人公、Pオースター、ヘンリーダーク、ピーター、ピーターの父親…。いったい個人を規定するものはなんなのだろう。我々は自分が自分であるように思っているが、個人は置き換え可能、別に自分でなくてもOKということなのか。

聾唖者への募金代わりにもらったペン→言葉は声ではなく文字として重要ということか?

ピーター・スティルマンが自己の来歴を語る長いセリフは非常に効果的。細かい部分はおかしくないが全体が破綻している。「リング」に出てくる呪いのビデオのような怖さがある。

4-5ページ:ニューヨークは非在の場所。自己存在の否定。
13ページ:電話よりメール。なんだか自分みたい。バベルの塔のくだり。重要なんだろうけど意味がわからない。
106ページ:バベルの塔が立ち上がってくるところは圧巻。
Pオースターとのドンキホーテ論議はなにを意味しているのだろうか?(本を読みながら気になるところをピックアップしてたがここで力尽きてしまった)

とにかく非常におもしろかった。『鍵のかかった部屋』を読んだときは「不条理小説」的な印象が強く心底楽しめたかというとちょっと疑問のような気もするが、これは読了後もう一度読み返してしまったぐらい楽しめた。

「個人」と思われているものが「都市」の中でいかに崩壊して溶けていくかというところがとてもおもしろい。「都市」の中では誰もが置き換え可能な存在ということか。  20030302