rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

ルオーのように

2015-02-22 22:36:01 | 創作活動
GEORGES ROUAULT  Tete le Clown

数年前に描いた小さな板絵に、また筆を加えた。
一度は完成したと思っていたのだが、時を経るうちにどこかしっくりとこないところが見えてくる。
それで、ついに今日、加筆に踏み切ったのだ。
引き合いしては大げさかもしれないけれど、まるでルオーのようではないかと
筆を進める。
ルオーはいったん仕上がった作品でも気が済むまで手を加え続け、納得のいかない作品は世に出さない信念を貫いた画家。
いやいや、自分は到底ルオーの足元にも及ばない半端者、単に未熟すぎるが故の加筆というお粗末さながら、なんとなく彼の轍に触れた思いがしただけだ。
今描いている板絵がどうなるか、気に入るよう描けるかわからない。
いったんできたと思い筆を置いたとしても、また不満が出るかもしれない。
終わりのない絵の道は、いつまでたってもこれでいいということはないのだろうから。

今日の夕食、”カリオストロ”

2015-02-21 22:30:35 | 食べ物たち
「今日のご飯何?」と、小さい人が聞いてきた。
「今日のメシ何?」と、中くらいの人が聞いてきた。
のっそりと背後に大きな気配がし、家人が鍋を覗き込む。
「カリオストロ・・・」と、私。

そう、”カリオストロ”とは、アニメ「カリオストロの城」でカリオストロ公国の城下町にあるレストランにてルパンと次元大介が、山盛りのミートボールスパゲティーを奪い合いながら食べる、まさにそのスパゲティーのこと。
優に8人分はある大量のスパゲティーをのせられる大皿はないので、銘々に皿に盛り付けたけれど、ミートボールがごろごろ入ったトマトソースが、彼らの食欲を直撃だ。
それにパルミジャーノレッジャーノチーズをすりおろして食べる。
アニメで植えつけられた憧れのミートボールスパゲティーは、瞬く間に食べつくされた。

食べ物も、物語を背負っているとまたその味わいや価値が変わってくる、そんな”カリオストロ”。
今夜は、普段とちょっと違う夕食になったのではないかと思うのであった。

まだだよね?花粉は

2015-02-19 22:46:31 | 雑記または覚書
2月になったころから、毎日戦々恐々として過ごしている。
そう、あの薄黄緑色のにくい奴、スギ花粉だ。
毎朝、窓を開けるたびに気合を入れて外気を吸ってみる。
ツーン、ムズムス・・・ってくるかどうかの感知作業。
おやおや、今年はまだ花粉の飛散が本格化していない。
昨日の雨で、あまり布団を干すには絶好といえないけれど、今のうちだと大々的に布団干し、ついでにカバー類も一気に洗濯する。
去年は、幸運にもスギ花粉が少なく済んだが、今年はためていた力を解放するらしく、その量は10倍を超えるという。
憂鬱。
ヒノキ花粉とも折り合いが悪くなったから、まるまる2ヶ月は引きこもり的な生活を余儀なくされる。
それでも、命が脅かされるほどではないので、新緑輝く5月を待って凌いでいこうか。
それにしてもどきどきこわごわ、明日はどうだろう花粉はまだだよね。


冷たい雨の一日を

2015-02-18 22:47:08 | 創作活動
冷たい雨の一日、洗濯物は乾かない。
いまでは多目的室となっている離れの部屋のエアコンをつけて、洗濯物を乾かす。
それだけではもったいないと、その部屋でネットを見たり、音楽を聴いたり、絵を描いたりする。
おやっ、洗濯物が優先?
いや、いろいろと理由を作らなくては部屋にこもって絵を描けないという情けなさ。
大きな絵は描いた後の保管に困るので、小さな板絵をちまちまと作る。
崇高な芸術とは程遠い、自分が欲しいと思う飾るための絵。
それもあと少しで出来上がりそうだから、7年ほど寝かせてある下絵の描いた板を3枚ひきだす。
それらも描きながら、手ごろな大きさの紙に静物も手がけてみようか。
ふむ、好きな音楽を聴きながら絵を描く、ときどきコーヒー、至福の時間。
明日もなんとか時間を作って、絵を描こう。
なんといっても自分が一番やりたいと思ったことだもの。


ベルギー印象派のエミール・クラウス

2015-02-17 23:01:44 | アート

Emile Claus - Ra Lecture

家人が、「エミール・クラウスって画家、知ってる?」と聞いてきた。
なんでもベルギーの画家で、印象派の画風で超絶技巧の持ち主らしい。
家人の中では、ラファエロ前派のミレイと肩を並べるほどの緻密な絵作りをする画家で、ブリュッセルの王立美術館で数点しか見たことがないから有名な画家ではないのに惜しいのだそうだ。
私は、浅学にして初耳の画家だ。
今回、ネットで検索して初めて絵を見ると、たしかにとても上手く、しかもきれいだ。
それなのに、なぜもてはやされない。
印象派といえばフランスの画家たちで、ベルギーではその一括りに入れてもらえなかったから?
いや、そんなことはないだろう。
おそらく技巧的写実性が高くて、ほわほわと光に溶解してしまいそうな歪みのある個性的な画風と一線を画すから、毛色の違いで別扱いにされているのだと想像する。
一昨年、東京駅のステーションギャラリーで展覧会があったらしいので、日本にもファンができたかと思う。
いわゆる理屈ぬきで美に浸れるエミール・クラウスの絵が、美術的、学術的に含みを見つけにくく、コアなファンを獲得しにくいものであってもいいではないか。
心底美しいと感られるものを創造するのは、やはり稀有なことなのだ。
この画家のフィルターは、屈折することない純粋なものだったということ。
強烈な個性を放つものばかりがアートの定義ではない、そう思わないか。


The River Lys at Astene