rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

暗いパリを留める”ディーバ”

2012-07-24 23:21:06 | 映画
まだ、ヨーロッパ的暗さの残る時代1981年の映画作品”ディーバ”を、回顧的な気分で観た。
初めてヨーロッパを訪れたのは、1987年だったか、バブルに浮かれ始めた日本とは違う、ちょっとうらぶれた感じのあるパリだった。
映画に登場するパリもほとんど違わず、モンパルナスの長い動く歩道、たぶんサン・ラザール駅、コンコルド広場など、十分な暗さを湛えている。
今のパリと比べるならば、きっと”ディーバ”に出てくるパリは、東欧のどこかの街と勘違いするだろうと思われる。

それこそ原動機自転車といっていいモペットで街を駆け回る、しがない郵便配達員でオペラオタクの主人公は、どこにでもいそうな青年。
憧れのオペラ歌手は、天井の人。
病み疲れた売春婦。
お決まりの風体の殺し屋たち。
裏のありそうな警察の幹部。
べトナムの移民の女。
謎のギリシャ人の男。
台湾マフィア。
バラエティーに富んだ役者は揃った。
そのどれもが、パリに実在しそうな者たちだ。
テープをめぐる二重螺旋の構図が、どこでどう重なるのかと、話の運びもなかなか良く、緩急のつけ方もうまい具合に、良い作品になっている。
歌姫と郵便配達員の青年が傘を差し、夜から朝のパリの街を歩き通すところは、詩的で実に美しい。
本当は怖くてなかなかできはしないけれど、自分もパリの街を、夜から朝にかけて歩き回りたいという願望に、この情景はぴったりと当てはまったから、なお美しく感じたのかもしれないが。

”ディーバ”は、歌姫は、人の心をむき出しにする。
純粋な狂気、それに憑り付かれた青年が、意図せずになにかのスイッチを入れてしまい、螺旋が回転しだすのだ。
くるくると回り、近くのものを巻き込んでいく。
突飛なことでも、小説や映画のフィクションの世界のことでもない、案外そのスイッチはそばにあるかもしれないのだ。
”ディーバ”によって揺り動かされ、露わになった狂気。
それは、誰にも潜んでいるものだから。




形而上的生き方を貫いた、デ・キリコ

2012-07-23 23:36:12 | アート

詩人の不安


イタリア広場

ジョルジョ・デ・キリコは、形而下的世の中に、飽き飽きしていたのだろう。
自ら築き上げたものをいとも簡単に捨て去り壊し、かと思えばまた拾い上げてみたり、評価の定まった自分の絵を何枚もコピーして見たりと、その行動は不可解だ。
おそらく、ものの存在意義や実在そのものを安穏と妄信している者たち、自ら生した世界に安住する者たちを、驚かせたかったのか?
おや、どことなくルックスも、なんとなくその行動も、日本のある政治家に似てはいまいか?
芸術家と政治家、及ぼす影響は大きいけれど、その責任の重さにはかなりな差があり、思想行動の自由度においては芸術家に及ぶべくもない。

「詩人の不安」は、子供のころ学習百科で見て以来、心の美術館の収蔵作品の一つになった。
無風無音のとびきり乾燥した陽射しの強い世界に、ただ置かれるトルソとバナナが、諦めのよい悲しみと平明な不安を淡々と表している。
遠くを走る列車の汽笛もレールのうなる音もしなく、たなびく煙は静止して、まるで遠景を描いた舞台背景の書き割りのようだ。
こればかりじゃない、キリコの絵は、まさに書き割りで構成されているように思える。
ともすると、役者不在のものも多い。
これが、キリコの絵の独特の雰囲気を演出しているのだろう。

ふむ、確かにこの世の中、書き割りでできているのだな。
キリコもかの政治家も、そう思って配置転換をしばしばするのだろうか?
しかし、人間のとりあえずの実社会でそれを行うのは、たやすくはないな。
さて、キリコは、どう見る。
形而下のことには、興味ないと言い放つのか。


イタリア広場


ポーランドの古都クラクフ

2012-07-21 22:59:35 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」ポーランドの南部の都市、古都クラクフ、中世からの都。
ワルシャワ以前の首都で、今なお工業・文化を担う街として栄えている。
第二次世界大戦で、奇跡的に被害を免れた旧市街地は、世界遺産に登録された。
ヴァヴェル城や織物会館など、往時の姿を今なお留め、なおかつ、積極的に利用されてもいるようだ。
そして、ポーランドは、世界一の琥珀の産地。
クラクフでも、琥珀工芸が盛んなようだ。
琥珀は、白く不透明なものが価値があり、さらに黄色みを帯びるとさらに価値が上がると聞いて驚いた。
イメージとして、透明度が高く澄んでいる物ほど、琥珀の価値が高いように思っていたため。
何を基準に不透明なものがいいのか分からないが、たぶん稀少性なのだと想像している。
ヴィエリチカ岩塩坑は、地下およそ300m、全長300kmの岩塩採掘跡。
今は、何もかも岩塩で彫刻された地下100mの礼拝堂などを観光に開放し、さらに深部には、呼吸器系の患者のための病院施設として使われている。
岩塩の層が、こんなに厚いとは、自然の驚く作用である。

さて、気になるクラクフの郷土料理だが、両方に共通する食材にキャベツが使われている。
まず、”ビゴス”は、肉とトマトを炒め、酢漬けキャベツと煮込んだ家庭料理。
フランスアルザス地方からドイツにかけてよく作られる酢漬けキャベツの登場だ。
日本のキャベツと違って、こちらのキャベツはしっかりとした存在感ある葉なので、ほぼ生では食べない。
温野菜か、煮込むか、酢漬けにするかなどである。
しかも、冬をしのぐための保存食とすれば、酢漬けにするのが最適だろう。
脂っこいソーセージなどにも合うし。
次に、”ゴウォンブキ”、ポーランド風ロールキャベツのこと。
米とひき肉を混ぜたものを中身としてキャベツで巻き、オーブンで蒸し煮にしたものを、トマトソースなどで食べる。
米は、野菜という感覚なので、我々の思う”ひき肉ごはん入りロールキャベツ”とはちょっと違う。
それでも、肉だけよりはさっぱりとして食べやすいだろうし、ヘルシーだ。
他に、”タルタルステーキ”に”ザピエカンカ”(フランスパンの何でもトッピングピザみたいなもの)があったが、あまりにも普通すぎるのでスルーする。
お楽しみのスイーツでは、”クルムフカ”というクリームパイがある。
なんでも、ポーランドのクラクフの司教を務めた先のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、この”クルムフカ”が大好物であったそうな。
”ピエロキ”は、水餃子的夏のスイーツ。
中身は、イチゴやリンゴの果物が入り、生クリームと砂糖を振り掛けて食べるものだという。
本来は、ポーランド風ラビオリで、中身は肉とのことだ。

クラクフ近郊の村について。
コニャク村は、手編みレースの里として200年以上の歴史がある。
しかし、最近の機械技術の向上で、安価で精緻なレースが大量生産されるのに伴い、生産性の低い手編みレースは存亡の危機に立たされた。
そこで、村の婦人連は、レースの下着を作り、今ではかなりの売れ行きを持つという。
かなり過激なデザインもあり、保守派には非難を浴びたそうであるが、売れた者勝ちというのが現実。
ザリピエ村は、花の村というより、フラワーペイントの村。
村中の家の壁、室内はもとより、何もかもが、鮮やかな花の絵で埋め尽くされている。
毎年一回、フラワーペイントのコンクールが催され、村一番のフラワーペインターが選出されて、町おこしの担い手を育てているのだ。

ポーランドは、西欧の東欧。
どことなく垢抜けなく、田舎ののんびりさがまだしっかりと残っているようだ。
ヨーロッパバブルが崩壊し、経済が世界中で失速している中、ポーランドは経済の大海にもまれる小舟のよう。
これからどう生き抜いていくのか、強かにレースの下着を作る女性達のように何とか活路を見出していくのか、気になるところである。

たしか一番暑い時期なのに、午前9時45分気温21度

2012-07-20 10:06:18 | つぶやき&ぼやき
昨日から、気温がずいぶんと過ごしやすい温度になったのだが、今日に至っては、肌寒いくらいまでに下がっている。
天気予報では、5月下旬の温度とか。
空模様は、暗いほどの曇りで、北東よりの冷たい風が吹き付けている。
だから、体感温度は、20度をかなり下回っているような感じだ。


ねこ、プランターの上で丸くなる 20/7/2012

洗濯物を乾していて、先ほどまで芝の上で毛づくろいをしていたねこの姿が見えない。
寒い風をよけて、どこか過ごしやすいところに移動したのかな・・・と思いながら洗濯物を乾していた。
ふと足元あたりの視界に、なにやら変化があった。
ねこがいたのだ。
丸く低めのプランターの上で、体を丸めている。
よく、寒い時期にやっているねこの暖のとり方だ。
先日との気温差からか、それとも本当に寒いのか。
まったくもって、この気温の激しい変動には参ってしまうよ、ねこも人も。

でも、やっぱり夏だから、畑でキュウリは生り、色鮮やかなパプリカのおすそ分けもやってくる。
ラタトゥイユなどを作って食べようか。

ねこも戸惑う寒い夏日である。


頂き物のパプリカに自家栽培のキュウリ 20/7/2012

世襲制もほどほどに

2012-07-18 23:01:14 | つぶやき&ぼやき
芸事、手業の世界では、世襲によってそのものを守り伝える枠組みを生す利点がある。
次の世代が、才能に秀でていなくても、真面目に型を修練して、その次に伝える役を担っているので、致命的な問題はないように思える。
しかし、政治・医療・教育・公僕・大企業のトップなどにおいては、世襲はいかがなものだろうか。
それらを家業として、子孫に継がせていく利点はあるのだろうか。
向き不向き、個の能力、使命感、それらは、真面目さだけで補えるものではないし、他の人々に大きな影響を与えるので、安易な世襲は悪といえよう。
もっとも、世襲を嫌う意思をもっていたにしても、周りから絡めとられて意に副わず世襲の流れに入ってしまう者もいるだろうが。
なにによらず、人は情にも弱いが、さらに目先の損得に弱い。
ある核を囲む二周りくらいの取り巻きが、その他大勢の公正な利益を度外視して、己が利益を優先して起こる世襲には、なかなか抑止力が届かない。

今の世の中、ざあっと見渡せば、世襲のオンパレードだ。
住む世界、業種を問わず、血の縁のあるものと、一端を握って辿っていったら、あれま驚くことにぐるりと一繋がりになっちゃった、なんてこともあるかもしれない。
世襲が進み、生きていく術が固定化したなら、新規参入はほとほと難しくなって、未来を夢見るものに閉塞感が募るばかり。
いや、もうそんな風潮が浸透していると思い当たることがあるだろう。

よしんば世襲がおおむね悪習だとしても、全てそうであるはずもない。
世襲によってもとから得ている地位財産名誉知名度、これらを特上の武器として、有益に世の中のために使えば、恐れるものなく目的に邁進できもしよう。
つまり、いかなる場合にも、世襲する者の胸先三寸、気概に負うところが大きいのだ。
世襲する者は、より強い覚悟を持って世襲し、その評価は、先の代よりハードルを高くして行うくらいでないといけない。
資格保有が条件のものについては、世襲者において平均より条件を厳しくするようでないと、その属する世界が停滞または劣化してしまう。

我が子可愛さ、目先の利益、保身のために、無分別に世襲を進めてはいけないし、してもいけない。
澱み濁った沼は、やがて生き物は死滅する。
しまいには、腐敗し異臭を放ち、あたりに毒を撒き散らす。
浄化するには、流れが必要なのだ。

だから、世襲もほどほどに。
ある程度の流動性は、物事を活性化し、病巣を大きくしないだろうから。