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人生の喜びより悲哀とともにある音楽、カズオ・イシグロ”夜想曲集”

2011-09-26 00:34:49 | 本たち
”日の名残り”の作者カズオ・イシグロの短編集”夜想曲集ー音楽と夕暮れをめぐる五つの物語”を読んだ。
どの物語もほろ苦い、音楽と人生の関係を描いている。
ある程度の経験を積んできた者なら、少なくとも1つや2つ思い出の音楽があるだろう。
その音楽を聴くたびに、または思い出を蘇らすたびに、必ず対になる関係を持ったものだ。
人は、音楽に慰められ、思い出のBGMとして彩を与えてもらう。

ところで、受身である聴衆ではなく、音楽を作りまたは演奏する音楽家は、音楽とどういう関係を持っているのだろうか。
自分は、作曲家でも演奏者でもないが、音楽を志すものが全てそれに携わって生きていけるとは、もちろん思わない。
芸術一般にいえることだが、それはかなり難しいことなのだ。
特に現在において、かえって状況は厳しさを増しているように見える。
スタジオミュージシャンや生バンドとして、音楽に携わりながら生計を立てていけた時代は、過去のこと。
夜の世界では、カラオケが席巻して生バンドの座を奪った。
レコーディング技術や、配信技術の多様化で、手軽に音楽を楽しめるようになり、オーケストラやバンドの出番が失われた。
これらは、音楽は民衆の下へ身近になる手段を与えた。
また、音楽分野におけるコンピューターの進出はめざましく、もはや人の手で楽器をかき鳴らさなくても済むようになり、誰もが作曲家に名乗りを上げやすくなった。
これは、音楽を作るうえで、特別に技術を習得した限られた人の占有から、愛好者への参加を容易にしたメリットもある。
しかし、一流の音楽家になれずとも、音楽で生きていける手段が極端に減り、夢見る人の絶対数が減少する
、実に寂しい、そして文化的損失と思うのだ。
受身の聴衆にしても、目の前で人の奏でられる音楽の迫力と魅力を体験しにくい、潤いのない世界になる。
なんというか、誤魔化しのない一期一会の気迫と、本物に触れる感動を。

話は変わるが、”オーケストラ!”Le Concert という映画を観た。
ソビエト時代にあって、国家の意向にそむいたかどで音楽を剥奪された不遇のオーケストラ団員とその指揮者の物語。
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲第7番が、全般を通して絡んでくる。
悪夢の日から30年を経て、不遇の元オーケストラに、その音楽が奇跡を呼び起こす。
演奏者にとって、音楽はただならない力を持っている。
生活に追われ、世俗の垢にまみれ、人生に疲れていようとも、音楽の魔法は顕在なのだ。

単純な臨場感を求めるだけではない、人の感情と存在の重みが伝わってくる、演奏者による音楽の復活を、民衆に身近な音楽とのふれあいを望む。
血の通った、生の音楽の復権。
本当の豊かさを、心の豊かさをもって、人生を豊かに生きてゆけたなら、どんなに素晴しいことだろう。
誰しもが、必ずあるだろう思い出に深く結ばれた音楽が、より精彩を放つように。

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