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言葉、国語について

2013-02-07 16:37:49 | 随想たち
中くらいの人が、学校指定である中学課程学習の総合復習参考書を使って家庭学習をしている。

昨日の中くらいの人は、国語の勉強、そのうちでも、漢字の読み書きをしていた。
家人が、その内容を覗き込んでみると、我々の時代における高校レベルの漢字がかなり扱われていた。
さて、勉強している中くらいの人の様子といえば、かなり苦戦している模様。
そこで、家人は、音訓読みと音読みを使っての熟語を中くらいの人に投げかけてみる。
なんともお粗末な結果、ひとつの文字にある音と訓の読み方ができていないのと、その漢字を使っての熟語と使い方が壊滅的で、しかもそのような言葉があることすら知らない場合も多々あった。
たとえば「専ら」。
「もっぱら」と読むことはもちろんできず、その言葉を意識して聞いたことがないとまで言うのだ。
さすがに音読みの熟語は、「専門」とひとつ言うことができたけれども、「もっぱら」を聞いたこともないと言うのには驚かされる。
彼らの世代にとって「専ら」は、古語に等しいのだろうか。
確かに、このブログで何度か言及したことがある、貧弱な語彙といくつかの言葉をニュアンスを変えて使いこなす最近の傾向では、言葉の厳密な使い分けをするための語彙の豊富さなど、時代遅れなのかもしれない。
それならば、古語にも等しいような漢字とその使い方を、あえて学ばなくてはならない現状をどう子供たちは捉えているのか。
そのような言葉を丸呑みにするように覚えている彼らは、死んだ知識を詰め込んで溺れる人のようだ。
あるいは、外国語を新たに習っているようにも見える。
実際、中くらいの人は、初めて聞く言葉の数々に戸惑い悪戦苦闘しているという。


言葉は、コミュニケーションをとる道具だけではない、何より思考するための大切なものなのだ。
それを整然とさせるために事象を細かに言い表す多くの言葉ができた。
「怒る」という感情を表すために、いかに多くの言い方があるだろうか。
単に「むかつく」の一語の抑揚を変えただけで、あるいは程度を区別する「ちょい」「めちゃ」などを付け加えるくらいで済ませてばかりでは、言っている本人にも自分の「怒る」感情の客観化はなし得ない。
自分も、こうして毎日のようにブログを書いていると、自分の語彙の貧しさから、言い表したいことが的確に伝えられなく、もどかしさを感じないときはない。
不勉強の一言に尽きるのだが、自分の言い表したいことを手軽な言葉で済ませてしまわないように心がけることから、生きた言葉の習得が始まる。
自らの反省も込めて、子供たちとの会話でも安易な言葉で終始しないよう心がけよう。
「専ら」のみならず、悲しむべきことに「平等」という言葉さえも知らずその意味が消えかかっている危機的なこの現状が、今本当に起こっているのだ。



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