漢 字 攷
「日中同文」だと謂う。 果たしてさうであらうか?
畑、畠、 孰れも日本製漢字であって 本家の支那にはない。
『田』と謂う漢字の解釋が日支で相異する事に因る。
米作の由來に大いに關係する事柄なのだが。
鮎。 支那では ナマズを意味する。 なれば『鯰』や如何に? 鯰は日本製漢字である。
魚ヘンや 獣ヘンには 意味の違いが多々ある。
飯店、酒店。 支那では 孰れも ホテルを意味する。
知らない日本人なら レストランやバーを 聯想するであらう。
レストランは「餐 廳」だが、日本では 一般的ではない。
臺灣には「便當」がある。 「辨 當」の事である。
「驛 便」となると、驛辨(駅弁)とは 別の物を連想してしまう。
日本統治時代、辨當を使ってゐた筈だが、外省人支配となって日本文化追放にあったが、本省人の反抗で「便 當」として復活したものではないかというのが 私の邪推である。
ちなみに、外省人には 水を含めて 冷たいものを口にする習慣がないので
抑も「辨 當」の發想そのものがない。
日本製近代語の多くが支那で採用されてゐる事は 既述した。
前島 密の創作である「郵便」はなぜだか 「郵 逓」である。
江藤新平が主張してゐた「巡 邏」は 江藤追放後 「警察」で定着したが、支那でも そのまま採用されてゐる。 しかし、近年 日本製であることに氣付いたせいかどうか、順次 「公 安」に切り替へてゐる。
人民、民主主義、共和國が日本製である事に氣付いて 地團駄ふんでも、こればかりは いまさら 換へるわけにもゆくまいて。
その點、李承晩は 「大韓民國」と巧く避けて通った。
「汽車」は 自動車を意味する。 本物の汽車は何と謂うか? 「火車」だが、これは日本の 機關車なり 汽罐車の意味合いが強い。
日本語の「自動車」だが、英語の automobile, passenger car, cars, buses and trucksの意味を包含し、motor vehicles の意味に庶幾い。
丁度、英語の guns が 日本語の 小銃、鐵砲、大筒、大砲を包含するようなものであらう。
勿論 英語には、rifle, cannon, howitzer等の使い分けがあるのだが、日本語とは嚴密には區分が相當しない。
支那では「砲」ではなくて「炮」が一般的だ。
もっとも、慶長十一(1606)年、種子島家が撰した南浦文之著『鐵炮記』には「炮」の文字が使われているので、明治以前には「炮」が一般的であったのかも知れない。
以上は 孰れも物質名詞ばかりだが、感情表現になると もっと微妙な喰い違いが存在する。
嘗て 日中國交恢復交渉で 劈頭、田中角榮内閣総理大臣の歡迎夕食會での演説に
失禮千萬だと 周恩來総理以下を激怒させた事件があった。
擔當の外務省が 智慧を搾り、熟考・推敲を重ねて 日本語案文を作ったはずだが、
翻譯文が 誠意の通じない 逆表現になってしまった爲だと謂う。
専門家の翻譯でも 斯かる手違いが生じてしまうのだから、意思疎通はままならない。
日本には 古來の「訓」(よみ)のほか、呉音あり、漢音あり、宋音、福建音 等々あり。
しかも 訓には地方によって種々、人姓名、地名では 想定外の訓があったりする。
加へて、湯桶讀、重箱讀、カッパ讀 と 複雑怪奇。 世界中 どこをさがしても これほど複雑多岐な言語を操る民族は 他にない。
千二百年前、弘法大師空海が 唐の都・長安から持ち歸った「漢音」なるものは
現代の 北京官話、今風に呼べば 「普通語」とは 別物である。
日本でも江戸時代まで、「漢音」は 所謂 インテリ音で 一般庶民には普及してゐなかったと謂う。 一方 「呉音」の方は、「坊主讀み」として インテリ層からは敬遠されてゐたとか。
廣瀬淡窓・咸宜園で有名な大分縣日田では、便秘の事を「秘 結」(ひけつ)、水郷(スイキョウ)日田の鵜飼遊びを「遊 船」(ゆうせん)と サ變形形容動詞に、近くの 小山を「亀 山」(きざん)と 庶民の日常語にまで 漢語讀が浸透してゐる。
「水郷」だって通常は「スイゴウ」だらうに、呉音を 徹底的に嫌って 漢音に徹してゐる、 と 司馬遼太郎が 街道をゆくのなかで 書き殘してゐる。
まことに スイキョウ(酔狂)な噺(はなし)である。
本日の運勢; 少言をもって福となす。 過猶不及。 本日はこれまで。
2018/12/06 初稿
本日の運勢; 少欲にして萬事成る。 小欲知足。
2018/12/07 推敲改訂
2018/12/21 再訂 (平成最後ノ三十年師走)